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結婚式は地味婚だった。
その後の披露宴も、宴というよりは単なる食事会に近い簡素なものを、付けたし程度に行っただけだった。
ヴェルトナーの一人娘の祝い事なのに……! と兄は終始嘆いていたが、式を豪勢にすることだけは、私の矜持が許さなかった。
クラウスが意外にこの手の良心を持ち合わせていない輩であることが判明し、
「俺は大々的にやっても構わない」
などと余計なことを言ったので、主に兄を説き伏せたのは私だった。
なんという使えない男なのか、クラウス! あんたの方が兄を諌める力は上だろうに……!
まぁとにかく。
式は終わった。食事会も終わった。私たちはファルマーク邸にそのまま帰った。
新婚旅行なんて気の利いたものはない。クラウスは休暇を取ることも出来ると言ったが、嘘の結婚で彼にそこまで負担を強いる気がない私は、丁重に辞退した。
私のために、クラウスが時間や財産を犠牲にするような事態だけは極力避けなければ。
巻き込んでしまったことに対する罪悪感が、今になってふつふつと湧いてきた私だった。後の祭りとしか言いようがないが、他に謝罪の方法が浮かばない……。
私とクラウスを乗せた馬車が、屋敷の前で止まった。
クラウスが先に降り、後から降りようとした私を支えてくれた。
ありがとう、と殊勝に呟き、私はとぼとぼと歩き始めた。立派な屋敷の玄関扉が近付くにつれ、何だか妙に切ない気持ちになった。
ふと、遠い日に聞いた知識が脳裏を過ぎる。
イグナーツには、花婿が花嫁を抱き上げて新居の敷居を跨ぐという古くからの慣習があった。
軍人の権威が強い我が国では、大昔、武勇に秀でた男が他部族の女を強奪するという方法で婚姻を結んだ時期がある。その名残だそうだ。
(ちょっと憧れだったんだけど。……お姫様抱っこで家の中に運んでもらうの)
つくづく気持ちの伴わない結婚なんてするものではない。まさかクラウスにお願いしますと頼むわけにもいかないし。
溜息を吐いたとき、
「ひゃ……!」
ふわ、と体が浮いた。
「ク、クラウス!?」
なんて絶妙の間で抱き上げるんだ、こやつは。読心術でも習得しているのかと一瞬本気で疑ってしまった。
「不本意だろうが我慢しろ。新婚早々不仲と噂されたくない」
ちら、と視線を流した先に、なるほど迎えに出てきた使用人らがひしめいている。
よしよし。仲睦まじい新婚夫婦を演じればいいわけだな。お任せあれ。そういうのは得意だ!
根っからの猫かぶり根性を大いに発揮し、私は抱き上げられたまま外野の皆様に微笑んだ。その後、恥ずかしそうに俯いて、クラウスの胸に身をすり寄せた。
我ながら完璧だ。なんて可愛らしく初々しい花嫁だろう。
髪一筋から足の爪先まで真っ赤っ赤な嘘で塗り固めたニセ妻とは、よもや誰も思うまい……!
「俺すら騙されそうだ……」
せっかく人が往年の大女優も真っ青の演技力を見せつけたのに。
なぜかクラウスは苦虫を千匹も噛み潰したような渋い表情だ。むしろそこは手放しで褒めて欲しい。お前の猫もたまには役に立つな、と。
頭を撫でてくれれば、今ならゴロゴロと喉だって鳴らしてみせる……!
「……人の気も知らないで」
何だか知らないが、忌々しげに吐き捨てられた。
ちょっと喧嘩売ってる!? いいぜ買うぜさぁ来い! と言い返そうとして、従者らの目がそこかしこにあることを思い出し、やめた。
私たちは仲良しこよし。出来る妻は、旦那様の謂われなき嫌味などにいちいち神経を尖らせてはいけない。
ちょうど侍女っぽい女の人が近付いてきたのを合図に、クラウスが私を下ろした。私は名残惜しげにクラウスを見上げ、
「お部屋でお待ちしております。早くいらして下さいね」
と、だいぶ前に読んだ恋愛小説の台詞を、記憶を手繰り寄せながら棒読みしてみた。
「……」
睨まれた。ものすごく。
それはもう、底冷えするくらいの迫力で。
クラウス、さっきから言っている事とやっている事が微妙にズレている気がする。
不仲と噂されたくないなら、新婚ほやほやの若妻を恐れ慄かせてはいけないと思うのだ。
侍女の名はユミナといった。
年は私より二つ上で、穏やかな親しみやすい雰囲気だ。
もともとはローエン辺境伯家本宅にいたそうだが、私を迎えるにあたり、年齢の近い側仕えもいた方が良いだろうと、クラウスが引き抜いて来たということだった。
「奥様のお世話をさせて頂くなんて光栄です。頑張りますので、よろしくお願いいたしますね」
ああ……すごくいい子だ。何だかほんわりした笑顔に癒される。
でも、あれよあれよという間に身ぐるみを剥がされ、薄っぺらい夜着を着せかけられた時、その手際の良さにひどく嫌な予感を覚えた。
「よくお似合いです」
彼女は微笑んだが、似合うも何も、極端に布地の少ないこの服に、そんな評価を下す余地が果たしてあるのか。
最後に、侍女は私の手をそっと握り、
「初めての時は怖いと思いますが、旦那様に全てお任せすれば間違いありませんから。とりあえずマグロのように転がっていれば、後は殿方の方が美味しく料理して下さいます」
さり気なく凄まじい台詞を吐き、満足げに部屋を出て行った。
どうしても我慢できない時はこちらをお使い下さいね、と、怪しげな小瓶を残していったが、このピンク色の液体は一体なんだろう……。恐ろしすぎて聞けなかった。
本能的に、クラウスに見られたら軽く愧死できそうな気がしたので、私は瓶の中身を観葉植物の鉢に捨てた。瓶は部屋の隅にあった屑籠に放り込んだ。
これで安心。
安心したのも束の間、鏡に映った自分の姿を見て、愕然とした。何だ、この襲って下さいと言わんばかりの格好は。
クラウスが私相手に妙な気を起こす確率は天文学的に低い数値に違いないが、世の中には据え膳云々……なる余計な諺もある。
それに、人間、いつも一流シェフのフルコースを食べていたら、たまには屋台の親父の鉄板料理も味見したくなるというものではないか。
自分がフルコースじゃなくて屋台料理の方ってのが、納得いかないけどね!
「……いや。屋台の味は侮れない」
私は部屋を見回した。
大きなベッドの上には枕がたくさん置いてある。その枕を手に取ると、ベッドを二つに割るように並べてみた。よし。これで壁は完成。
広いベッドで本当に良かった。枕で縦割りしても、まだ両手両足を投げ出して眠れるほどの空間がある。
とりあえずこれを見れば、クラウスが何かの間違いでつまみ食いに来ることもないだろう。私の安眠と貞操は守られる。
いそいそとベッドに潜り込んだ時、不意に扉が開いた。
私は咄嗟に大きな枕の一つを盾にして、その陰に隠れた。心底呆れたような声が、クラウスの口から発せられた。
「……何だこれは」
「きょ、境界線よ」
にわかに体が緊張し始めた。自分の鼓動の音がうるさい。この音のせいで重要な話を聞き逃したら困るから、少しは静かにしてくれないか、私の心臓!
大きく目を見開いて、私はクラウスの一挙一動を見つめていた。彼が一歩進み出ると、情けないほどびくっと肩が震える。
いっそ、うわぁーん! と泣き叫んで全力疾走で逃げ出したくなったが、透けた衣装でそれをする勇気もない。
クラウスの前に半裸を晒すのだけは絶対に嫌だ。クラウスの歴代の恋人たち……匂い立つような妖しい色香を振り撒いていた彼女らと比べられるなんて、惨めすぎる。
……さすがに洗濯板よりはあるけれど、ええ、小さいですよ。痩せっぽっちですよ。
ドレスの時は寄せて上げて詐欺まがいの矯正も出来るけど、薄布一枚じゃどうしようもないですよ。
きっと捨て子だった時の栄養状態の悪さが今に影響しているんだ。
髪だってつまんない茶色で、豪華絢爛な金髪じゃないし、目だって紫とか紺碧とか綺麗な色じゃないし!
あああ。なんか色々考えすぎたらまた涙が……。
「バーカ」
ぼすん、と寝台に腰かけて、クラウスが言った。
ベッドの真ん中を占領している枕の一つを手に取り、投げた。
目に涙をいっぱいに溜めていた私の顔面に、枕は清々しく命中した。そして、妙にゆっくりと顔から剥がれて、あまりの出来事に硬直して動けない私の手元に、重力の法則に従って落ちた。
初夜の寝床で旦那様に枕をぶつけられてしまった。
どうしよう。どう反応すれば良いのだろう。
しかも馬鹿って。バーカ、だよ。馬と鹿の間を伸ばす棒で繋いだよ。
子供か、アンタ。軍団長クラウス様。一万の部下が嘆くぞ。告げ口してやったら、きっと大泣きするぞ!?
「そんな貧相な体に食指が動くわけないだろ。くだらん心配してないでさっさと寝ろ」
クラウスはそのまま私に背を向けて、一部崩れた枕壁の向こうに横になった。
やっぱり貧相って言われた! なんか悔しい。すごく悔しい。
仕方ないじゃないか。こればかりは猫かぶりでは誤魔化せない……!
「クラウスの……クラウスのバカーっ!」
馬鹿には馬鹿で応酬し、私もまた枕を投げた。むこうを向いて無防備な頭にぶつけるのは、たとえ相手が百戦錬磨の勇者と言えども簡単だった。洗濯板と言われた恨み、思い知れ!
「何するんだ、この馬鹿娘!」
クラウスががばりと跳ね起きた。
その時には既に私は第二、第三の枕を構える段階に入っており、立て続けに投げた。顔を狙ったのに、二つとも外れた。一つは避けられ、もう一つは受けられた。
反撃の枕が飛んできた。いや速いんだけど! こんなフワフワした軽い物体なのに、何だこの速度!?
「いいから寝ろ!」
「ぜ、前言撤回を求めるっ!」
「はぁ?」
「洗濯板よりはあるもんっ」
「いやそこまでは言っていない……」
「言った! 口調にそこはかとなく含まれていた!」
「考えすぎだ!」
「クラウスの考えていることくらいわかるもんっ。何さ見たこともないくせに!」
「見たこともって」
その恰好で言うのか?
クラウスに指摘されて、ようやく自分の薄っぺらい姿を思い出した。しかも、枕投げというちっとも頑張らなくても良い事を無駄に頑張ってしまい、肩ひもが腕の方にずり下がっている。
ぎゃー!
「ユミナのばかっ! だからこんなぺらい恰好嫌だって言ったのに」
「一番馬鹿なのは、俺でもユミナでもなく、間違いなくお前だ……」
せっかく築いた枕の壁を再構築する元気も出ず、私は今度こそ掛布を頭からかぶって寝台に突っ伏した。
布団の上から枕をぶつけられるのではないかと、ヒヤヒヤしながら攻撃を待ったが、さすがにクラウスはそこまで卑怯な真似はしないようだった。
……私ならたぶんしていた。むしろ好機到来とばかりにブンブン投げまくっていたに違いない。クラウスが公正な人物で良かった。
「どうしてこうお前は……」
ようやく訪れた長い沈黙の後、近くで人の声がした。
うとうとしかけていた私は、警戒心もなくそれを聞いていた。被った布の上から一瞬抱き締められたような気がするけど、それが夢なのか現実なのかはわからない。
ただ、あやすように背中に添えられた手の感触は優しく、温かかった。
拾われてすぐの頃、絶望感のあまり布団に潜って泣いていた私を励ましてくれた兄のそれに……なぜか、とてもよく似ていた。
「兄さま……?」
優しい手が、離れていった。
そして、その夜、二度と戻ってこなかった。
初めて二人で過ごす夜は、まさかの枕投げでした。
これから段々と仲良く……仲良く、なる、はず。




