最終話 猫被り姫と黒の騎士
ところどころ、黄ばみの見え始めていた古い壁紙が、職人たちの手によって器用に剥がされてゆく。細やかな唐草模様の描かれたそれは、絹製ということで、切れ端でも何かに再利用したいほど美しかった。
「奥様。もっとこのお屋敷に相応しい格調高い壁紙があるのですが……」
往生際の悪い建築士が、ちくちくと文句を言っている。絹の後釜として私が選んだのは、ありきたりな紙製の壁紙だった。微かに翠かかったクリーム色で、目に優しそうなのでこれにした。
こんな安物もったいない、と建築士は嘆いたが、孤児院で華美ではないが温かみのある部屋を目にしてきた私には、豪華絢爛な絹の壁がちっともよく見えないのだ。万一汚した時の張り替えも簡単だし、紙で十分だと思う。
「では貼りますね」
職人たちが新しい壁紙を貼り始めた。さすがに手際が良い。……というか、私にも出来るのではないだろうか、これ。
試してみたくてウズウズしてきた。指示は飛ばすが自分で作業はしない建築士の隣に、私は胡散臭い笑顔を浮かべて忍び寄った。
「私もやってみていいかしら?」
「いけません」
即答された。想定済みなので驚きもしない。
クラウスがこの場にいなくて良かった。いたら私は小荷物のように脇に抱えられ、言い訳のいの句も告げられぬまま退場させられていたに違いない。いったん逃げて信用を失ったせいか、最近、クラウスの監視の目がとにかく厳しいのだ。
私は脚立を勝手に登り始めた。建築士と作業員から、同時に甲高い悲鳴が上がった。
「お、お、お、おやめ下さい! 危ないです!」
「平気よ。こう見えても運動神経良いんだから」
この時の私は、少々図に乗っていた。
昨日、これまで私を歯牙にもかけなかったアスレイドが、初めて私を背に乗せてくれたのだ。ヒン、と、馬鹿にしたように鼻息を引っ掛けられはしたが。
馬の方にも言い分はあれど、とにかく私を主人と認めてくれたらしい。
そう。私は舞い上がっていたのだ。
おだてれば何とかも木に登るというが、まさにその状態だった。しかも登っているのは木ではなく、安定感抜群の脚立である。一番上で背伸びのついでに小躍りしたって、ぐらりともしない。
貼りかけの壁紙に手をかけた時、不意に眩暈に襲われた。
健康には極めて自信があったのに、何だ急に。よりにもよってこんな時に……!
思わず神様と自分の不運を呪ったが、そうこうしている間にも体は傾き、重力の法則に忠実に従って落ちた。いや、落ちる前に、素早く伸びてきた強い腕に抱き止められた。
「この馬鹿娘!」
それが誰であるか、確かめるまでもない。
ああ、また、怒られるような原因を一つ作ってしまった。自業自得とはいえ……とほほ。
こうなったら潔く先に謝ってしまおうと下手に出るも、なぜか口が動かない。視界は黒く塗り潰され、自分が目を開けているか閉じているかも判然としなかった。
これはもしや重度の貧血かと、ようやく状況を把握した時、唐突に耳元で声がした。
(少しは大人しくしていてくれよ。無事に会えるのかな、俺……)
クラウスかと思った。声がよく似ているから。
でも、クラウスにしては言っている内容が少し……いやかなりおかしい。
会える?
「誰……?」
声は二度しなかった。クラウスの腕の中で、私は今度こそ完全に意識を手放した。
次に目が覚めると、自分の部屋のベッドの上だった。
クラウスがしかめっ面で上から覗き込んでいる。その隣に、初老の品の良い男性が立っていた。
ファルマークの主治医だ。貧血くらいで忙しい先生を呼ぶなんて、クラウスも心配性な……。寝ていれば治るのに。
「気が付かれたようですね。もう大丈夫ですよ。精の付くものをたくさん食べて、後はゆっくり休んで下さいね。無理は禁物ですよ」
医師は終始にこにこしながら、なぜかそそくさと立ち去った。後には、私とクラウスのみが残される。
クラウスは、寝台の端、横になっている私のすぐ傍らに腰を下ろした。頬に張り付いていた私の髪を、邪魔にならないように長い指で除けてくれた。
「お前……このところ体調がおかしいとか、何か感じなかったか?」
「体調? ううん、絶好調だよ」
「健康すぎるというのも善し悪しだな……。絶対に何らかの兆候はあったと思うんだが」
「何の話?」
クラウスの言わんとしていることが、全然、さっぱり、わからない。
とりあえず体を起こした。
夕刻を過ぎた秋の空気は、思いのほか冷たかった。薄い部屋着に包まれた肩に、ひやりとした悪寒が走る。小さく身を竦ませた私に、クラウスが温かい羽織物を掛けてくれた。
「寒くないか?」
「寒くないけど……体調ってなに? 私病気? まさか不治の病!?」
「こんな元気な不治の病人がいてたまるか」
「だよねぇ……」
眉間に皺を寄せて首を捻っていると、クラウスは疲れたように天を仰いだ。その後、私を横目に見ながら吐き出した溜息には、もはや隠しようもない諦念が含まれていた。
「お前は妊娠しているそうだ。医師の話だと、もう三か月目に入っているだろうと」
私は瞬きを繰り返した。しばらく経ってから、この上もなく間抜けな声を出した。
「はぇ?」
「狐につままれたような顔をしたいのは俺の方だ。普通は本人が気付くもんじゃないのか?」
例えば、わかりやすく吐き気とか。
じろりと睨むクラウスの隣で、私は、ここ三か月ばかりの自分を振り返っていた。
吐き気。つわり? あったっけ? そう言えば、何度か気持ち悪くなったような、ならないような……。
いやでも。食べ過ぎかな、程度にしか思わなかった。それで納得できてしまうくらい、軽かった。
「味覚が変わるとか」
「いつでも何でも食べ物は美味しいよ」
「体が怠いとか、熱っぽいとか……」
「全然」
「太ったとか」
「胸がちょっと大きくなった気がしたから喜んでた」
「月一回くるものが来ないんだから、気付け!」
「……そういうのもありかなって」
がっくりと項垂れた後、クラウスは、お前なら本当に十人は生めそうだ、と呟いた。
クラウス、子供が十人も欲しかったのか。そんなに父性本能旺盛だとはついぞ知らなかった。……私も色々頑張らねば。
「いくらお前が呆れるほどの健康体でも、負担になりすぎる。十人もいらん」
「そう? 私はたくさんいてもいいよ。ランカスターみたいに賑やかになるし」
「そういう台詞は、一人目を無事に生んでからにしてくれ」
普通、初めての子供を授かったら、もっとこう……感動的な何かがあっても良いのではないだろうか。
なのに、クラウスときたら呆れるし、馬鹿にするし、私は驚くし、そもそも今一つ実感もないし。……いいのかこんなんで。
ごめんよ、赤ちゃん。困った両親だけど、貴方に会えるのを楽しみに待っているから、どうか無事に生まれて来てね。
「本当に大事にしろよ。これだけは俺は代われないんだ」
ゆっくりと、まるで脆い硝子細工を扱うかのように慎重に、クラウスが私を引き寄せた。
こんなに遠慮がちな触れ方はたぶん初めてだ。私が、私と、もう一人と、二つ分の命を抱えていることが、彼には急にとんでもない奇跡に思えてきたようだった。
そんなに気を遣わなくても、壊れたりしないのに。私も。この子も。
私は百二十歳まで生きかねないくらい頑丈だし、この子は、まだ人の形も整っていないうちから鈍い私に語りかけて来るほど、強い運と生命力の持ち主だ。
(少しは大人しくしていてくれよ)
「うん……ごめんね、気を付ける。そっかぁ……。君は男の子かぁ」
不本意ながら未来の公爵だ。
頭の中を過ぎった声は、夢か、現か。
未来からの、予知をも凌ぐ、明らかな約束か……。
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私は知っているよ。
ちゃんと気付いているよ。
私が、私には勿体ないくらい、素晴らしい二人の黒騎士に愛され、慈しまれていることを。
一人は、幼い頃は妹として、成長してからは、恋人として、妻として、私を大切にしてくれる。
もう一人は、血の繋がりが無いにも関わらず、変わることなく、迷うことなく、娘としての私を見守ってくれている。
私が彼らから惜しみなく注がれた愛情は、今、この胎内に宿る息子へと引き継がれ、そして、この息子も、いつかどこかで、きっと誰かを愛するのだろう。
「ありがとう。私は幸せだよ」
どんな言葉も陳腐に聞こえる。
私が与えられたものは大きすぎて。
抱えきれない。表しきれない。溢れ出て……止まらない。
愛しているよ。
何度でも言うよ。
みんなみんな、愛しているよ。
この先もずっと、永遠に、幸せでいようね。
猫被り姫と黒の騎士、完結しました。
最後までお届けできて良かった……本当にほっとしています。
少しでも、面白かった、と思ってもらえたら嬉しいです。
今まで応援して下さった皆さま、本当にありがとうございました^^




