25 薄闇と薄明り(※イザベラ)
徐々に満ちてゆく光を追いかけるように、私は東に向かっていた。
間もなく夜が完全に明ける。街角に、一つ、二つと、確実に人影が増えてゆく。今日初めて見た新聞配達の少年が、おはようございます! とすれ違いざま元気よく声を掛けてきた。
下町は荒んでいると社交界ではもっぱらの噂だったけれど、何度も通っているうちに、その認識がいかに誤っているかを知るに至った。
何時でも、何処でも、人の心は変わらない。宮廷で豪奢に着飾った貴人たちの方が、市井で汗水流して働いている民よりも優れているなどと……思い上がっていたあの頃の自分が、今はただ恥ずかしい。
薄闇と薄明かりが交差する中、私はランカスターの門をくぐった。
目指す先は、聖堂でも居住棟でもない。建物は避けて真っ直ぐに墓地へと向かう。
山の稜線より顔を出したばかりの朝日を背にして、ランカスターの神聖騎士が一つの墓石の前に佇んでいた。
毎月、十四日、彼は子供たちがまだ誰も起きていないこの一時、欠かさず同じ墓標を訪れる。
私が彼の月参りを知ったのは、偶然だった。子供たちに気兼ねなく話をしたいから、深夜か早朝に訪ねたいと持ち掛けたのだ。
いつでもどうぞ、と彼は言ってから、毎月十四日の早朝以外なら、と付け加えた。
私は当然、その日に何があるのかを聞いた。大切な人の命日なのです、と彼は答えた。
そのために、この朝だけは時間を空けておきたいのだと。
墓石に刻まれていた名はリディア・カーソン。
「私の妻です」
神聖騎士は、悪びれる様子もなく、はっきりとそう言った。
弟の勧めにより、私は、この秋、正式に公爵位を継ぐことになった。
一方で、父はクラウスを自らの実子であると社交界に大々的に発表した。私に四度目の結婚の意思がないことを肌で感じ取り、予防線を張ったようだった。
私自身が子宝に恵まれなくとも、これでニルヴァナ公爵家の血筋が絶えることはない。いずれクラウスの子が滞りなく跡を継ぐだろう。
(妻……)
公爵位を継ぐにあたり、私はルースに近従にならないかと持ち掛けた。無論、ただの従者ではない。実質は内縁の夫になれと言っているようなものだった。
私は、私自身が思っていたよりも遥かに強く、彼に惹かれていたのだ。取り乱し、縋りついた。子供のように泣きじゃくり、彼をひどく困らせた。
私は四度目の結婚をしたくなかったわけではない。四度目の結婚をしたい相手に、ただ振られてしまっただけだった。
今でも妻が好きなんですよ、と、愛した男は少し寂しげに見える顔で呟いた。
あれから十八年も経つのに、まだ忘れられないのだと。
「どんな女性だったの? リディアは」
「そうですね。よく言えば明るくて元気で……。悪く言えば無鉄砲で考えなしでしたね」
「……十八年も想われ続ける素敵な女性にさっぱり聞こえないのが凄いわ」
「当時の私も、なぜ彼女が好きなのか、常々不思議に思っていたくらいでしたからねぇ」
「アラナは母親に似たのね……」
「おや。よく御存じで」
クラウスと、ルースと、アラナは二人の男に大切にされている。その二人ともが、私が特別に心許した掛け替えのない者たちだ。怒るのは理不尽とわかってはいても、私は、二度彼女を困らせるような事を口走らずにはいられなかった。
貴女は黒騎士の妻。聖騎士とは少し距離を置くべきだろう。
愛する騎士は一人いれば十分なはず。黒騎士は既に貴方のもの……だから、どうか、聖騎士だけは私の手元に残して欲しい、と。
アラナはしばらくの間返答に窮していたが、やがて観念したように私の前に古いペンダントを差し出した。蓋を開け、私の父なんです、と泣き出しそうな声で呟いた。
(名乗りをする気はありません。そんな事をしたら、神父様が大変なことになってしまいます。ただ、たまにでいいから会いたいんです。私からランカスターを取り上げないで下さい……)
それ以上、私から言うべき事は何もなかった。
二人の男は、確かにアラナを強く想っていた。
一人は妻として。
一人は……娘として。
「でも、ルース……。貴方は父親じゃないわ」
「……それもご存知でしたか」
「アラナが生まれた年といえば、北方蛮族との大乱の真っただ中ですもの。その頃神聖騎士として最前線で戦っていた貴方が父親になれるはずがないわ」
「聖堂騎士会の記録書を読んだのですね。出征した騎士の名前まで綴ってあるのだから、迷惑な話です」
「アラナの父親は誰?」
「私にとって、それはさほど重要な問題ではないのですよ」
十八年前、北方蛮族が国内に雪崩れ込んできて、治安が著しく悪化した。蹂躙された村や町が幾つもあったという。
例えばそれらの小さな集落に、愛らしい顔貌の若い娘がいたらどうなるだろう。
北の民には、今なお略奪婚の風習が根強く残る。強い男であればあるほど、まるで戦利品のごとく気に入った娘を敵陣からでも奪い去って行くのだ。
考えたくもない結論に、私は思わず身震いした。
これは触れてはならない禁忌の領域だ。誰一人として、真実を知ったからと言って得るものなど何もない。
「完全に明けましたね」
頭上には快晴の空が広がっている。
子供たちはじきに起き出してくるだろう。ゆったりと母屋に向かって歩き始めたルースの隣に、私も並んだ。
自分の想いが、行動が、迷惑になるとの自覚は十分にあった。だが、それでも、私は彼に訴えずにはいられなかった。
「私、またここに来ても良いかしら……」
「遠慮せずどうぞ。私がこの先ランカスターより動くことはありません。お話はいつでも伺いますよ」
七年前、ルースは、騎士会に直談判までして自らランカスターの責任者になることを志願した。
リディアがここに居ることを知ったからだった。
もともとリディアは辺境伯領の半ば潰れかけた教会に葬られていた。アラナを引き取ったヴェルトナーの当主が、母子が遠く離れ離れになることを不憫に思い、交通の便の良い都内に亡骸を移したのだ。
アラナは母親の墓参りに頻繁にランカスターを訪れることになる。孤児院の手伝いをしようと心に決めたとき、その行先として、馴染んだランカスターを選んだのは当然だった。
会うべくして会ったのだ。ルースとアラナは。
私が割り込める余地など、初めからあるはずもなかった……。
「一生ここから動かないなんて……まるで墓守だわ」
「その通りです。私はここに墓守をしに来たのですよ」
「女公爵が墓守に恋するなんて前代未聞だわ」
「もう少し先のある相手を見つけた方が良いと、私も思いますね」
「いいわ。こうなったら一緒に墓守をするわ。持久戦よ」
「どうしてそういう妙なところだけ前向きなんですか……」
早起きの子供が一人、ひょっこりと姿を現した。
並んで歩く私たちを認め、
「神父様がカノジョと一緒に歩いているよー!」
私にとってはたいそう微笑ましい雄叫びを上げて駆けて行った。
「いつも寝坊なのに、なぜこういう時だけユーノが……」
ルースが呻く。
「これも運命よねぇ」
私は笑った。
「私にもまだ望みはあるかしら」
いつか、この手強い墓守を墓場から引っ張り出せる時が来るだろうか。
それまでは……。
不本意ながら、過去の亡霊に勝ちを譲ってやろう。
次回最終回です。




