24
私の王都不在期間は約二十日。そんなに長いこと留守にしてしまってどうしよう、奥さんに逃げられたなんて変な噂が広まったらクラウスが恥をかく……と思っていたら。
「領地視察、いかがでした?」
と、にこやかに使用人たちに尋ねられ、近くの壁に頭を打ち付けそうになるくらいよろめいた。私は馬鹿な家出妻ではなく、ファルマークの領地を領主に代わり視察に出かけた賢明な夫人になっていた。
さすがクラウス。嘘八百もここまで淀みなく並べればいっそ天晴である。
「やっぱり私よりクラウスの方が猫かぶりだしタヌキだと思うの」
「当り前だ。宮廷なんかタヌキとキツネとネコの化かし合いの場だからな。年季の入り方が違う」
「私ね、もう猫かぶりやめようと思う」
「賢明だな。はっきり言ってお前は向いていない」
まず真っ先に本当の自分をさらけ出しに行く相手は、もう決まっている。
シュゼット。
穏やかな笑顔の下に、鋭い幾つもの棘を隠し持っていた。
今振り返ってみてようやく気付く。底知れぬ悪意。
根も葉もない噂話。
いかがわしいサロン。
不安を煽るような、わざとらしく置かれた本。
友達だと思っていたよ、シュゼット。
そう信じていたのは、私だけだったのかな……。
マノーリの家を訪問すると、シュゼットは快く部屋に通してくれた。
「領地の視察に出ていたって本当なの? アラナ。私にだけは正直に話して。本当はどこに行っていたの?」
相変わらず、優しい笑顔だ。お洒落で、綺麗で、女の子らしいシュゼット。内緒話を持ち掛けるように、私に身をすり寄せて語りかけてくる。
実はね……と、秘密を明かしたくなるよ。少し前の私なら、ころっと騙されてあけすけに全部喋っていたに違いない。
「ラングレンに逃げた……なんて言ったら驚く?」
「まぁ! 本当なの? クラウス様と上手くいってないのね?」
「ううん。冗談。クラウスと仲良いよ。すごく。私はクラウスが好きだし、クラウスは……私をすごく大事にしてくれる」
「あら……」
のろけられたわね、と、シュゼットは苦笑した。
私よりよほど上手に被っている淑女の仮面が一瞬外れかけて、剥き出しの敵意が吹きつけて来たような気がした。
動機は何だろう?
ただ私が気に入らないだけ?
「ねぇ、シュゼット。私、正直にクラウスに言うよ。私がクラウスのこと誤解するに至った原因、全部シュゼットだって。イザベラ様のこととか。エヴァンス夫人のいかがわしいサロンとか。全部……発端はシュゼット」
「……何が言いたいの?」
聖母のような微笑みはまだ崩れない。形の良い唇は、相変わらず、角度まで計算し尽くした完璧な弧を描いている。
どうやら彼女は、私より遥かにしぶとく壊れにくい仮面の持ち主であったようだ。猫かぶりは私の専売特許だと思っていたのに……もっと嘘偽りの上手な人物が、ここにいた。
大変でしょ、剥がしてあげるよ、と私は思った。
本来の自分とかけ離れた偶像を演じることが、どれほどの負担になるか、今の私なら嫌と言うほどよくわかる。
忘れそうになる……「私」を。
嘘と、ふりと、その全てを受け入れて、自らの一部として昇華させることのできる人間は、きっと、片手の指で数えるほどもいないのだろう。
シュゼットの胸倉を両手でつかむ。
私の方が少し身長が低いので、迫力に欠けるのは否めないが、それでもシュゼットには十分な効果があったようだった。彼女は大きく目を見開いた。
「な、何……」
「こうするの!」
ばしっ、と、シュゼットの頬を引っ叩いた。
人に手を上げたのは初めてだ。掌がひりひりと痛む。力の加減がさっぱりわからなくて、結構強く叩いてしまった。
シュゼットは大丈夫だろうか。頬が真っ赤に腫れたりしたら、さすがにちょっと申し訳ない……。
「何すんのよ!」
シュゼットが手を振り上げた。思いっきり引っ叩かれた。あまりの勢いに数歩よろめいた。口の中に鉄錆の味が広がる。
咄嗟にこれだけ反撃できるなら問題ない。シュゼットは、私が予想した通り、大人しくか弱いだけの女の子ではなかった。
「そんなに私が嫌いなら、そうやってわかりやすく態度で示せば良かったんだよ」
「何ですって……」
「動機は何? クラウスのこと好きだった? 嫉妬? 同い年で、同じデビューを飾って、友達だと思っていたのに……シュゼットは違ったんだね」
「同じデビューですって?」
頬を擦りながら、シュゼットは唸った。もう仮面はない。怒りに目をぎらつかせているシュゼットの形相には鬼気迫るものがあって、背筋が冷えた。……怖い。
でも、なんか、おかしな感想だけど、鮮やかだとも思った。生気に満ち溢れていて。可愛いだけの人形じゃなくて。
「同じじゃないわ。あんたのデビューでしょ。私はただの引き立て役! いいわよね、あんたは。素敵なお兄様二人に両側からかしずかれて。由緒正しきヴェルトナー侯爵家のご令嬢で! まるで姫君気取りだったわよ。次から次へとダンスの申し込みも断って。……結局クラウス様と踊っていたわね。見せつけるように。私なんか目じゃないって言わんばかりに。何よあれ。馬鹿にするにも程があるわ……!」
息をつぐ暇もない非難の羅列。
私はそれを唖然として聞いていた。開けっ放しの口をしばらく閉じるのも忘れていた。
かしずかれて?
いや、私が何か妙な真似をしでかさないように、兄二人が両側で目を光らせていただけだ。
ダンスの誘いも断って?
いや、レオ兄が来た者来た者睨むから、申し込む前にみんな逃げてしまっただけだ。
見せつけて?
いやいや、兄の眼力に脅えずその場に残ることの出来た猛者が、ただ一人、クラウスだっただけだ……!
「そして、そのクラウス様とあっさり結ばれて! 好きなのはレオニード様、レオ兄さまの妻になりたいって言っていたのに。……嘘つき!」
そう言えば、そんな事を言ったような気もするけど、そもそもレオ兄の眼中にはまるで無かった私である。
ダンスに申し込みに来た若者たちだって、別に私が好きだったわけではない。私にはたっぷりの持参金がくっ付いていたから、それが目当てだっただけ。
その証拠に、ごく少数の持参金なんて必要の無さそうな本物の貴公子たちは、みな私に見向きもしなかった。シュゼットの方に行ってしまった。金目当ての品位のない連中と一緒にされてはかなわない、とでも思ったのだろう。
その本物の貴公子たちと、楽しそうに踊っていたじゃないか、シュゼットは。
私にやきもちを焼くなんて、お門違いもいいところなのに……。
「そそっかしいなぁ、シュゼットは」
興奮してはぁはぁと息をしているシュゼットの肩を、私はぽんと叩いた。
彼女の頬は腫れていないみたいだった。良かった良かった。
「私の所に来たの、みーんな持参金目当ての奴ばかりだったんだよ。ちゃんとした人はシュゼットの方に行ってた」
「……は?」
「クラウスのことは……うん、ごめんね。私、馬鹿だから、自分の気持ちがよくわかっていなかった。シュゼットの気持ちも」
シュゼットはクラウスが好きで。
だから、そのクラウスの一番身近にいた私と、親しくなった。あの頃の私は、レオ兄一筋! なんて大騒ぎしていたせいで、恋敵になり得るなんて見なされてもいなかったのだろう。
それが、ある日突然、何の前触れもなくクラウスと結婚した。
そりゃあ、腹も立つよね。聞いてないよ!? って思うよね。
私がシュゼットでも裏切られたと感じるかもしれない。
実際には、彼女が考えたような相思相愛の状況で一緒になったわけじゃなかったんだけど……でも、そんなの、傍から見る限りわからない。
「あの夜会、主役はシュゼットだったよ。だって持参金なかったら、私の所には誰も来なかったもの。シュゼット、もしかして知らなかった? 私、養女って言っても、ヴェルトマーの親戚とかでも何でもないの。拾われた孤児なんだよ。孤児がこんな大きな家の養女になるなんて前代未聞だけど」
だからね、と、私は笑った。何かもう……笑うしかなかった。どんな表情をすればいいかわからない。
「お金がくっ付いてないと、価値が無いんだよ、私。クラウスだけがね、金なんかいらんって言ってくれたの」
頬が何だかじんじんと痛んできた。
もしかして私の方が怪我が大きいんじゃないだろうか。
シュゼットが何かを言いかけ、やめた。
両手で顔を覆うと、その場にへたりと座り込んでしまった。私が着ている物よりずっと手の込んだ華やかな衣装が、絨毯の上に花のように広がった。
「あんたなんか嫌いよ」
彼女の声は震えていた。
「いつだってそうやって一人でいい子で。夜会だってサロンだって、あんたの周りはいつだって人がたくさん……!」
「勉強したからねぇ。面白い話題提供できるように。毎回ネタ仕入れるの本当に大変だったわ」
「みんな、あんたのこと天使か妖精みたいに可愛いって、称賛して! ちやほやして!」
「そりゃあ、軍総帥がうちの妹は天使か妖精みたいだろ!? って話ふってきたら、そうですね、って言わざるを得ないでしょ。ごめんね、すごい妹馬鹿な兄で。そういうお茶目な人だと思って許してやって」
「なっ……」
涙でシュゼットの化粧が剥げてきてしまっている。銀粉が混ざっているのだろうか、目元に塗ってある色粉は。涙がいっそうキラキラと光って見える。
私相手にそこまでビシッと体裁整える必要なんてないのに。
いや違う。これはただの飾りじゃない。……これは、彼女の武装。心の鎧。
「まぁ、そういうわけで、なんか色々誤解があったみたいだから訂正しておく。……ああ、そうだ。天使か妖精みたいに可愛くて、話題豊富で、社交界の人気者のアラナはもういないから、安心していいよ。本当の私は、遠駆けや剣の稽古が好きで、お貴族様と腹の探り合いしているよりも孤児院の子供たちと遊んでいる方が楽しくて、品位の欠片もない口喧嘩をいっつもクラウスとしている、野生児だから。シュゼットの敵にもならないよ」
座り込んでいるシュゼットを助け起こしてあげたかったけど、それをしたら、余計なことしないで! とかえって逆鱗に触れそうな気がしたので、私はそのまま立ち去ることにした。
「さよなら、シュゼット。……でも、私、やっぱり結構あなたが好きだったよ」
夜会やサロンと言えば、いつも二人でつるんでいた私とシュゼットは、それ以降、一緒にいることはなくなった。
けれど、何となく、互いに申し合わせたわけでもないのに、ちらりと流した視線が交差することがある。
「クラウス様より素敵な殿方を見つけてみせるわ。楽しみに待っていることね」
「そんな素敵な人、そうはいないと思うけど。まぁせいぜい頑張って」
すれ違いざまに、そんな会話が取り交わされる。
「お式には呼んであげてもよくってよ」
「あらぁ。ありがと。でも私、天使か妖精だから、花嫁さんより目立ってしまうんじゃないかしら。申し訳ないわぁ」
「安心して? そんな張りぼての天使か妖精に騙される人、はっきり言っていないから」
「うふふ。言うようになったわねぇ、シュゼットも。クラウス以上に本気で戦える天敵が出来て嬉しいわ」
「ほほほ。そうね。私もよ」
もう、お互い気になって気になって、無視できない。
「素直に仲直りしろよ……」
クラウスが心底呆れている。
仲たがいの最大の原因が何を言っているか。もとはと言えば、私とシュゼット、二人ともにクラウスを好きになったことが発端じゃないか。
「お前らの間に、もう俺なんて一欠片もいないと思うぞ……」
そうかもしれない。
でも良いのだ。私と彼女の関係は、これで。
たぶん老女になっても、今の調子で、私たちは遠慮なく意見を戦わせてゆくのだろう。
この腐れ縁は死ぬまで続く。お互い子供が生まれて、孫も出来て、あの婆さんまだ生きてんのか、と言われるような年になっても、果てしなく続くのだ。
「勝手にやってくれ。他人様に迷惑をかけない程度にな」
でもなぁ。
クラウスは笑う。
そして私に気付かせる。
人生の最後の最後まで本音で喧嘩できる相手なんて、滅多にいないぞ?
「大事にしてやれ。死ぬ間際に振り返って、あれが親友だったのかと気付くことになるかも知れないからな」




