23
※長いです。
ロドニー爺宅に居候して、はや十日が経った。
その間、食事を作り、風呂を用意し、部屋の掃除をした。時には調合の手伝いをして「こんな下手くそな人間は初めてだ」と言われたり、ハーブを摘みに行って「これは雑草じゃ馬鹿者!」と怒られたりもした。
……おかしい。私は何だ。爺さまの弟子か。
しかもハーブ摘みが思いのほか楽しくて、毎日外をうろついているうちに更に健康に磨きがかかってしまった私である。結婚に夢破れて修道女を目指す儚い女だったはずなのに……どうしてこうなった。
肌もツヤツヤ張りがあるし、日々よく働くせいか以前にも増して食欲はあるし、困ったものだ。もっと隠棲的というか、退廃的な雰囲気を……。
「あ。メレニみっけ」
珍しい貴重な野生ハーブを発見し、私はうきうきと足元に跪いた。小さな白い花を鈴なりに付けたこの植物は、爺さまの特別な香水には欠かせない貴重な逸品である。
根や茎を傷つけないように、慎重に一部の花だけを摘み取って……。
(ん?)
馬の嘶き声がした。無知な旅人が、そうとは知らずこのハーブの森に騎乗して侵入したのかもしれない。貴重な野草を踏みつけて滅茶苦茶にされる前に、自称森の管理人たる私がいっちょ喝を入れてやらなければ。
顔を上げた。きょろきょろと辺りを見回す。
少し離れた草むらに、黒い毛並みの馬がいた。鞍を乗せているので野生馬ではない。いや野生馬どころかハッキリとその馬には見覚えがあった。
私にちっとも懐かない気位の高い駿馬。アスレイド。
アスレイドがここに居るということは……。
「アラナ!?」
やっぱりいた。アスレイドの主。相変わらず黒い服と黒い馬がよく似合う。ああ、格好いいなぁ、と、とんでもなく場違いな感想を抱いてしまった。
……見惚れている場合ではない。逃げないと!
私はくるりと回れ右をした。花摘み用の籠を放り出し、猛然と駆け出した。
「待て、この……!」
そう言われて待つ人間は、世の中にほとんどいないと思う。
それにしても気のせいだろうか。声に明らかに怒気が含まれているような。
私、何か怒らせるような事やっただろうか。ファルマークの屋敷の物は何も持ち出していない。離婚に必要な書類は後日送ります、とちゃんと書き置きも残してきて……。
馬の蹄の音があっという間に迫ってきた。ふり向くと、ごく近くにクラウスがいた。馬で追いかけるなんてずるい!
というか、整地された走路でもないのに、障害物だってそれなりにあるのに、何その速さ!
横から伸びてきた腕に胴を抱え込まれた。圧迫感と同時に足が浮いた。すれ違いざま強引に馬上へと引き上げられる。離せ触るなと暴れてみたが、余計にきつく抱きしめられただけだった。
口塞がれながらそんな馬鹿力で拘束されたら、息が止まるってば!
「もう面倒だからこのまま攫って帰るか……」
聞き捨てならない言葉にぎょっとした。世話になっている……いや私が世話をしているのか? 爺さまに挨拶もせず忽然と消えるなんて、とんでもない!
「よく言う。俺の前からはさっさといなくなったくせに」
「あ。あれは! クラウスのためを思って……」
「お前は根本的に認識がおかしい!」
「だってイザベラ様がいるのに!」
「あれは俺の姉だ!」
「……へっ?」
「イザベラは俺の姉だ。ああ、もう……一から全部説明する。黙って聞け!」
クラウスが馬から降りた。ついで私も降ろした。足が地面に着いた途端、私はへたりとその場に座り込んだ。「姉」の文字がぐるぐると脳裏を巡る。
お姉さん。姉弟。雛壇の飾り人形のようにお似合いだった二人の像が、この瞬間、全く違ったものに見えてきた。
クラウスを次の公爵に、という話は、イザベラ様と結婚して……という意味ではなく。
彼が、公爵様の血筋だから。息子だから。
そう。とんでもなく単純な話だった。
公爵様が、立派に成長した息子に、ただ跡目を譲ろうとしただけ……。
「だって、クラウスに縁談って……。それを断ったせいでクラウスが公爵を諦めたって……」
「ニルヴァナ公爵家の中には、突然現れた俺をよく思わない連中は当然いる。その反発を弱める意味で、父が俺に王家と縁続きの姫君とやらを紹介しただけだ。俺の方はもともと爵位に興味がないから断った。事情をよく知らないイザベラが何か間違った解釈をしたのだろう。……そもそもお前と一緒になる前の話だぞ」
私は思わず瞬きを繰り返した。
言いたい事は山ほどあったはずなのに、酸欠した金魚のように口がぱくぱくと動くばかりで、上手く言葉が出て来ない。
「私、クラウスの邪魔じゃないの?」
ようやくそれだけを言った。
「邪魔だったらわざわざこんな所まで迎えに来るか! 城の仕事全てレオに押し付けて……。今ごろ軍が崩壊していないか大いに不安だ」
「う……。さすがに崩壊はしていないと思うけど、きっと書類が机の上に山積み……」
「それを帰ったら俺が整理するのか。お前のせいだぞ、アラナ。潔く責任を取れ」
ぺしっ、と脳天を平手で叩かれた。いつもなら、何すんのよ! と叫ぶところだが、まさに私が諸悪の根源である今、反論の余地などあろうはずもない。私は殊勝に項垂れた。
「はい。取ります。すみませんでした。馬車馬のように奉公します。とりあえず何から始めれば……」
上目づかいに見上げれば、
「よく言った。なら一生俺に奉公しろ」
凄まじい要求を突きつけられた。
「い、一生奴隷のようにこき使う気!? 私にも人権ってものが」
「あまりにも予想通りの反応で、いっそ俺は嬉しいよ……」
クラウスが大きく溜息を吐いた。苦笑なのか、ただの微笑なのか、判然としない貌のまま、私の頭の後ろに手を回した。そのままぐいと引き寄せる。
頬が彼の胸に触れた。傾いた体を抱きこまれた。相変わらず居心地の良い腕の中で、なぜか無性に泣きたくなる。
戻ってもいいんだ。
隣にいてもいいんだ。
……いや待て。ほだされるな私。その前に確かめなければならない事がある。一生馬車馬扱いはさすがに嫌だ。
「誓っただろう? 病めるときも、健やかなる時も、死が二人を分かつまで……と。一生俺のそばにいろ」
「ば、馬車馬じゃなくて、奥さんとして?」
「当たり前だ。これ以上暴れ馬はいらん」
結婚式のとき、そういえば私はちゃんと誓えていたのだろうか。
私は泣いてしまい、クラウスはそれを見て怒ってしまい、何が何だかよくわからないままに、一生に一度しかない貴重な時は終わってしまっていた。
ひどく損をしたような。取り返しのつかない失敗を犯したような。
何とも言えない切ない気分。
病めるときも。健やかなるときも。
正確な祝詞なんて覚えていない。ここには神様の祭壇もない。手順を進めてくれる神父様もいない。
でも、代わりに、自分の言葉で、神様ではなく自分が信じる人に、何度でも誓いを立てることはできる。
病めるときも。健やかなるときも。
貴方を守り、支え、敬い――……。
「クラウス大好き」
「……足りない」
「ちょっと! そこは、大人の余裕と気遣いで、俺も、とか返すべきところじゃないの!?」
「何が好きだ。子供のごっこ遊びか」
「なんか私にとんでもないこと言わせようとしていない!?」
「察しているならさっさと言え」
「そっ、そういうのは男の人の方から言うものだと思うの!」
「俺は言ったぞ」
「は!? いつ!? 聞いてないよ。覚えがないよ。そんな大事なこと言われたら忘れるわけない……!」
「お前を初めて抱いた時に言った」
「そそそ、そんな人が前後不覚に陥っている時に言われたって……!」
「まぁ……確かにかなり意識飛ばしていたよな、お前は」
「誰のせい!?」
もう一度言って。今言って!
と訴えると、そのうちな、とかわされた。
また人が半分気絶している時に言うつもりじゃなかろうか。
私が正気の頭の時には、きっと口にする気がないんだ。やっぱり意地悪。ほんとに性悪……!
悶々と悩んでいると、不意打ちのように、さりげなく、けれど一生忘れられない一言が頭の上に降ってきた。
「愛している、アラナ。二度と俺から離れるな」
クラウスがローエン辺境伯に預けられることになった経緯を教えてくれた。
クラウスの母ルシア様は、ニルヴァナ公爵の愛人だった。ただ、どうやら男性よりもピアノに情熱を傾けるような真の芸術家肌の人で、ほとんど一方的に彼女に惚れ込んだ公爵が、金と権力にモノを言わせて強引に囲っていたというのが実情らしい。
そのルシア様はクラウスを出産後、一年もしないうちに病気で亡くなった。当然、彼女の忘れ形見でありただ一人の息子でもあるクラウスを、公爵は手元に置きたがったが……。
「セレシア夫人……イザベラの母君に遠慮したのだろうな。いや、遠慮したというよりは、恐れたと言うべきか」
「え?」
「相当気性の激しい方だったようだ、セレシア夫人は。愛人の子なんか引き取ったら、首を絞めて殺しかねないほどに」
危険を感じた公爵は、迷った末、クラウスを信頼のおける友人に託すことにした。十分な教育と愛情を息子に与え、なおかつ万一の場合は強力な後ろ盾となって守ってくれる……そんな人物に。
白羽の矢を立てた方こそ、ローエン辺境伯だった。
「素晴らしい方だ、ローエン伯は。その夫人も。子供たちも。あの家に引き取られなければ今の俺はない」
ローエン伯がどれほど高潔な人物であるかは、クラウスがファルマークの爵位を引き継いだことからも窺える。
ファルマークはもともとニルヴァナ公爵家の持ち領だった。クラウスを辺境伯様が引き取った際、代償として密かに彼に譲り渡されていたのだ。
が、ローエン伯は増えた地を私有化することなく、成人したクラウスにそっくりそのまま返した。彼は言ったそうだ。自分はただ預かっただけ、と。
遠慮することはない。負い目を感じることもない。お前は正当な持ち主なのだから、堂々と胸を張れ。
どうしても考え込んでしまうのならば、その労力は、仕える臣と民のためにあれ……、と。
「辺境伯様が、クラウスにとっての父親なんだね」
「そうだな。あの方から学ぶことは多かった」
クラウスが十四歳の時、セレシア夫人が亡くなった。公爵は長年離れ離れだった息子を今度こそ迎え入れようとしたが、他ならぬ息子本人に拒絶された。
突然現れた愛人の子が攫うように家督を持って行ってしまったら、一族から不満が溶岩流のごとく噴出する。自分は何も望まない……そっとしておいて欲しい、と。
何年も水面下でのやり取りが続いた。
初めの二年ほどが特に大変だった、と、クラウスは、決して愉快ではない記憶を無理やり掘り起こそうとするかのように、眉を顰めた。
「俺は辺境伯領に住んでいたからな……。十六で準騎士から正騎士に上がって都に移ったが、それまでは辺境伯領と王都を行ったり来たりしていた。……休みと言えば馬を走らせていた気がする」
その騎乗経験が、クラウスを軍団長の地位まで押し上げたのだろうか。遊牧民をも上回るクラウスの乗馬技術は、騎士らの中でも群を抜いている。
アスレイドと人馬一体になって戦場を駆け抜ける様は、味方にとってはこの上もなく頼もしく、そして敵にとっては悪夢のごとく恐ろしい光景だろう。
(辺境伯領?)
何かが心の奥底に引っかかった。
拾われ子の私が住んでいた町が、ローエン辺境伯領にあった。私を拾ってくれた人物は、治るかどうかも定かではない私の目の治療のために、辺鄙な町から王都へと私を連れ出してくれたのだ。
私は当然それを兄だと思っていた。目が見えるようになったとき、私がいたのはヴェルトナーの屋敷だったからだ。
でも、よく考えれば、その頃兄は既に宮廷から離れられない騎士団の一員だった。遠い辺境伯領に一人でポツリといるはずがない。
(もう大丈夫だ。辛かったな)
地面に転がっている私を抱き上げて、助けてくれたあの人は。
綺麗な宿に連れて行って、温かい飲み物をくれた優しい手の持ち主は。
「クラウス……?」
「え?」
「レオ兄様じゃない……。私を拾ってくれた人。だって、十一年前、兄様が一人で辺境伯領にいるはずがないもの」
「……」
「クラウスよね? 今自分で言った。王都と辺境伯領を休みの度に行ったり来たりしていたって」
「……お前は」
クラウスは大きく息を吐き出した。
「馬鹿なのか賢いのか、わからんな」
「公爵様が自分を辺境伯様に託したように、クラウスも、拾った私を信頼できるレオ兄様に預けたんじゃないの? クラウスが辺境伯家の養子なら、自分で私を引き取ることは出来ないもの。その後も、自分の拾った子がちゃんと幸せになっているか見届けたくて、私に目を配ってくれていたんじゃないの?」
古い一つの約束があった。
誰に明かすつもりも無かったその内容を、クラウスは、躊躇いながらも教えてくれた。
面白くもない話だぞ、と呟いた彼の横顔に、そんな事ないよと私は答える。
私が今こうして恵まれた生を歩んでいる原点が、そこにある。複雑に絡まった過去を紐解いて、私は全てを知らなければならないのだ。
私を見つけてくれた人、守ってくれた人、支えてくれた人、バラバラに見えていたその人たちを、今この瞬間、ただ一人に集束させるために……真実を知りたい。
(半年でいい。この子を預かってくれないか、レオ)
(半年?)
(半年後に俺は正騎士に叙任される。そうすれば、もう辺境伯家の居候じゃない。完全に自立できる。この子を正式に引き取って、俺が面倒見ようと思う)
(なぜお前がそこまでする? 施設に預ければ……)
(目が見えないんだ)
(なに?)
(盲目なんだ。アラナは。それに、ひどく衰弱している。一人では階段も降りられないんだ)
兄はクラウスの頼みを受け入れた。
ただし、一つの条件付きで。
(正騎士になったら、私の部隊に入ってくれ、クラウス)
(所属は俺が決められることじゃない)
(それは大丈夫だ。私が裏から手を回す)
(お前な……)
(私は絶対に軍の頂点に登り詰めてみせる。その時、お前に隣にいて欲しいんだ)
(……)
(イグナーツ軍副総帥になれ、クラウス。上がって来い。お前なら出来る。そして、実力で必ず私の隣に立て!)
クラウスは兄との約束を守った。
十年の時間をかけて、交わされた言葉のままに、総帥である兄の隣に立った。
そして、十一年後。
交わされた言葉以上のものを、私にくれた。
「それで、全部?」
「全部だ。お前に下手に黙っていたら、かえって面倒なことになると今回ばかりは痛感した。その妙なところだけ異様に決断力ある性格、少しは何とかならんのか」
「いいでしょ。次の行動が読めなくて。一生退屈させないよ。刺激という名の心の潤いって、大事よね」
「俺は平和に平穏に過ごす方がいい……」
「じゃあ全部白状しないと。クラウスはまだ全部言っていない」
「何の話だ。他に隠し事なんか……」
明らかに怯んだ様子のクラウスの顔の真ん前に、私は立てた人さし指をすっと差し出した。
私が妙なところで決断力のある女なら、クラウスは妙なところで照れ屋な男だ。むしろ誇らしげに自慢しても良い事なのに、自分の口からは決して全てを語ろうとしない。
だから、種明かしは、私がしてあげないと。
ああもう。私よりずっと大人なのに。どうして男の人ってこうなんだろう。
単純なくせに複雑で。意地悪かと思えば優しくて。時々ひどく面倒くさくて。でも、どうしようもなく心惹かれる。どうしても離れられない。
「ファルマークの開かずの部屋の中身。中に隠してあるもの、楽器でしょ。寄付用の、中古の楽器。修理から戻って来たのを保管しているの。違う?」
降参、と言わんばかりに、クラウスは両手を上げた。
「これまでの馬鹿娘呼ばわりは全面的に撤回する。お前は大した奴かもしれない……」
森を抜けた。
私の帰りが遅い事を心配して、爺さまが入り口付近まで迎えに来てくれていた。
クラウスを一目見るなり、
「やっとこの子を迎えに来おったか。あんまり遅いから待ち草臥れたわ」
そう言って、杖を肩に担いで歩き始めた。
とっくに治っていたんだ、足。爺さま、嘘が上手すぎるよ……。
「じきに日も暮れる。今日は泊まってゆけ。ただし! この爺の家で孫娘に手を出すのはいかんぞ。こんな可愛い娘を女神の膝元を目指すほどに追いつめた、お前さんへの罰じゃ」
どう考えてもクラウスにとっては理不尽な言い掛かりなのに、彼はなぜか反論もせず、はいはい、と素直に耳を傾けている。
お爺さんがいなくなった後の反動が怖いからやめて、と私が内心かなりビクビクしていると、まるでその心の声を聞き取ったかのように、黒い騎士はおもむろに振り向いた。
目があった。
後で覚えていろ、と、その唇が動いた気がして、たちまち心拍数が跳ね上がった。……あああ、いやな予感。
翌日、お爺さん手製の香水をたくさんお土産にもらって、私たちは王都へ向けて出発した。
一つ目の宿で、後で覚えていろ、の無音の宣誓通り、早速ひどい目に遭わされた。
いや、違う。
ちっともひどくなかった。
ちょっと大変だったけど、その瞬間、私は国で一番幸せな女の子だったように思う。
アラナ嬢完全勝利。
クラウスでも勝てなかったですね…。




