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20 三年前(※イザベラ)

 私には、昔から、好きになってはいけない人を好きになってしまう悪い癖があった。


 私が腹違いの弟に初めて会ったとき、彼は十四歳、私は十五歳だった。

 公爵家のただ一人の直系男子でありながら、事情があって父の手元で育つことのできなかった弟は、年のわりには随分と大人びた印象の少年だった。

 自分が公爵家の隠された血筋であると知っても喜ぶ素振りを見せず、私に対してすら、「イザベラ様」というひどく他人行儀な言い方をなかなか覆さなかった。

 父は二人しかいない子供達が不仲になるのを恐れ、大義名分を設けては、私たちが共に過ごせる時間をよく作ってくれた。初めは露骨に警戒していた弟も、時を経るにつれ徐々に態度を軟化させてゆき、二年後、ようやく「姉上」と呼んでくれるようになった。


 私たちは、一見上手くいっていた。

 父も、弟自身も、きっとそう思っていたことだろう。麗しい家族愛に実は邪念が入り込んでいたことを知る者は、当時の私だけだった。


 いつの頃からか……もしかしたら初めからかも知れない……私は、弟を、赤の他人の異性として見るようになっていたのだ。


 間もなく私は嫁ぐことになり、この想いに蓋をした。いや、嫁ぐ嫁がないに関わらず、表に出して良い感情では無かったので、努めて無関心を装った。

 疎遠な関係は七年も続いた。善良な一人目、二人目の夫と、面白味はないが穏やかな日々を過ごすうち、私自身の意識が変化することを願わずにはいられなかった。

 実の弟への叶わない恋心は、誰よりも、何よりも、私自身が辛くてたまらなかったのだ。


 しかし、事態は、三人目の夫の登場で急変する。


 王弟殿下、などと呼ばれながらも、それに相応しい風格も品位も持ち合わせてはいなかった粗暴な男は、今は旧時代の遺物になりつつある決闘という野蛮な手段で、私を二人目の夫から引き離した。

 あのおぞましい暴君に触れられるたび、嫌悪のあまり人知れず首を括りたくなったが、死んだら本当の意味で負けなのだという思いが私を黄泉への誘惑から遠ざけた。

 窮地を父や弟に訴えれば、彼らは何をおいても助けてくれるとわかってはいたが、それは同時に愛する者たちを危険に晒すことにもなる。

 私は一人で逃げた。ラングレンへと。

 国王ですら蔑には出来ない……女神の威光に守られた聖域へと。






 月のない雨の夜、私は、王都の外壁門を潜りもしないうちから、早くも追い詰められていた。

 三人目の夫は、粗野であると同時に狡猾で、狂ってはいるが私への執着だけは本物だった。彼は私を見張っていたのだ……逃げ出さないように。逆らわないように。

 藁をも縋る思いで飛び込んだ先は、古い大きな教会だった。

 ランカスターという名称を……嵐のようなこの一夜が明けるまで、私は知らなかった。たくさんの身寄りのない子供たちが、ここで身を寄せ合って生きていることも。

 神父を務める男性は、何も聞かず、夫の追っ手を口先だけで追い払ってくれた。私を突き出した方が見返りもあるし、面倒事に関わらなくて済むだろうに、理由すら尋ねようとはしなかった。

 どこか飄々とした調子で、

「お困りのようでしたので」

 と、ゆるりと笑った。

「落ち着きますよ。どうぞ」

 差し出された飲み物は、ミルクを温めただけの簡素な物だった。

 自分の涙が混ざって味を感じるどころではないはずなのに、今まで口にしたどんな美酒よりも、甘く、優しく、それは冷えた体と心に染み渡った。


「お願いです」


 私は言った。一言口を開いてしまうと、後はもう堰を切ったように嗚咽が流れ出た。


「助けて下さい」


 私がそのまま過呼吸にでも陥りそうなほど取り乱していることに気が付いたのだろう。彼は私の真正面に座り、手を伸ばし、まるで幼い子供をあやすかのように優しく頭を撫でてくれた。


「大丈夫ですよ。ここに貴女を脅かす者はおりません」

「あいつが追って来るの。逃げても逃げても。もう嫌……死にたい」

「それはお勧めできませんね。貴女はまだ若い。どうせならとことん逃げる方を追求してみては如何ですか」

「逃げきれないの……!」

「でもどこかに向かうつもりで逃げてきたのでしょう。こんな所まで。向かう先は何処ですか。ラングレンですか」

 私は驚いて目を見張った。涙が一瞬完全に途切れた。

「どうして」

「貴女を見ていれば大方の想像はつきますよ。いつの時代も苦労するのは女性の方で、男としては申し訳なく思います」

「貴方って……」

 引っ込んだ涙が再び溢れ出すことはなく、私は、こんな状況にも関わらず、思わず笑ってしまった。

「面白い方ね」

「よく言われます」

「聖職者って、もっと堅いと思っていたわ」

「たぶん私は規格外です。私を基準にしてはいけませんよ」

「今、私の神父様の基準は貴方になったわ」

「それは困りましたね」


 私は語った。これまでの経緯を全て。


「では行きましょうか」


 彼は答えた。近所の店に買い物にでも行くような、何ら気負いのない様子だった。


「お供しますよ、ラングレンまで。さすがに一人で向かうのは貴女には無理でしょう」






 しばらく孤児院を留守にすると神父様が言うと、近所の人々が、子供らの世話なら任せておけと次々と名乗りを上げた。

 別の教会の聖職者も応援に駆け付け、大船に乗ったつもりでいなさいと胸を反らすのを見て、ああ、私は、偶然とはいえ素晴らしい方の助力を得ることが出来たのだと、この時初めて神に感謝した。

 私自身も、唯一の味方であろう弟に手紙を書いた。少し心臓の悪い父には事情を伏せた。

 弟はランカスターに飛んで来て、自分がラングレンまで付き添うと申し出てくれたが、私はそれを断った。

 あれほど想い続けた男の言葉なのに、ひどく冷静に対応できている自分に驚いた。弟の顔を見ても、もう、針で刺すような胸の痛みを感じない。


「ルース様がいらっしゃるから大丈夫よ」


 女神の膝元までの二週間の旅が、むしろ楽しみで仕方ない。

 籠の鳥が大空へと羽ばたく時、こんな高揚した気分になるのだろうか。一人きりなら不安で途方に暮れていたに違いない旅路が、今、先導してくれる力強い鳳のおかげで、少しも恐ろしいとは思わなかった。


「心配しないで。私なら大丈夫よ」


 弟は難しい顔つきで考え込んでいたが、やがてわかりましたと頷いた。

 神父様に向き直る。

「ルース殿……。こんな事に巻き込んでしまって申し訳ない。姉を……頼みます」

「私は不良騎士ですので、勝算の無い戦いはしない主義です。お二方が思っているほど深刻な旅にはなりませんよ。ご安心ください」

「いえ……。貴方は騎士の中の騎士ですよ。こんな危険で何の見返りもない申し出を受けるなんて。それを感じたからこそ、姉も全ての事情を貴方に打ち明けたのでしょう」

「……ご武運を」

 ルース様が弟に言い、私は訝しげに傍らの神聖騎士を見上げた。弟がこれから旅立つ私たちにそれを言うならわかるが、なぜ逆になるのかが不思議だった。

「ラングレンに逃げ込んでも、そういう異常な男が相手では終わりにはなりません。むしろ始まると言っても過言ではないでしょう」

 弟が答えた。

「薄々あの男の危険性には気付いていました。……陛下も。今、その証拠集めに奔走中です。近いうち……姉は本当の意味で解放されるでしょう」

「重畳ですね。聞きましたか、イザベラ殿。貴女は間もなく自由の身です。慣れない旅は辛いかもしれませんが、弱音は無しの方向で願いますよ」

「辛くないわ」

 私は、ごく自然に、ルース様の腕に手を置いた。

 彼は聖職者だ。しかも、一生神の教義から逃れられない神聖騎士だ。わかっているのに……芽生えた想いは自分でも驚くほど強く、容易に消し去れそうもなかった。


「貴方が一緒にいて下さるなら辛くないわ。いいえ、むしろ、楽しみなほど」


 弟は、万一の場合はすぐに行動できるよう、忙しい身にも関わらず二週間もの休暇を取ってくれた。

 更に、私が無事ラングレンに辿り着き、父の願いにより還俗した後は、あの恐ろしい王弟を罪人として幽閉するその日まで、常に私の傍らにいてくれた。

 口さがない者たちが、

「あの二人は付き合っているらしい」

「金の薔薇姫の色香にさすがの黒騎士も陥落したか」

 などと不愉快極まりない噂を垂れ流していたが、誰に何と言われようと構わない、と、毅然として私の盾になる姿勢を貫き通してくれた。


「ありがとう。クラウス。姉として……貴方を誇りに思います」











 かつて弟を愛した。

 次に心惹かれたのは、愛は神以外に捧げてはいけない神聖騎士だった。


 私は、きっと、一生報われぬ恋に泣く運命なのだろう。


 だからこそ腹が立った。

 エヴァンス夫人のいかがわしいサロンに、何ら恥じ入る様子もなく堂々と顔を出しているあの娘に。


 私がどんなに望んでも叶わなかったクラウスの正妻という立場を射止めておきながら、愛人を見繕うため(・・・・・・・・)の集まりに居るとはどういうことだ。クラウスに不満があるとでも言うのか。不満があるというなら、さっさと別れてくれれば良いのに。

 弟には、父が勧める縁談が持ち上がっていたのだ。相手は、申し分のない身分立場の令嬢だった。


 言わずにはいられなかった。

 冷静になって考えれば、あの子がサロンの真の意味を理解していなかったのは明白なのに……醜い嫉妬が、私の目を曇らせた。


「貴女のために公爵位をも捨てた男に、貴女は何を返せるの……?」




姉でした。

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