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 朝、目が覚めると、ほとんど鼻と額がくっ付くような至近距離に、クラウスの裸の胸があった。寝惚け眼で恐る恐る上向くと、これまた吐息を感じるほど近くに、寝ていても綺麗な顔があった。

 変な寝心地の枕だな、と思ったら、クラウスの腕だった。なるほど自分は腕枕をされているのかと、一瞬で理解した。枕になっていない方の腕は、抱え込むように私の体の上に乗っている。


 何だろう。

 なんか、がっちり、捕獲されているような。


 さほど中身の詰まっていない私の頭だが、一応人間なのでそれなりの重量はある。こんな物をずっと乗せ続けて、腕が痺れてしまうのではないかと心配になった。


 ……いやほら、クラウスは騎士だから、剣を振るう腕は商売道具だしね! 大事にしないとね!


 聞かれてもいない言い訳を一生懸命考えながら、私はずりずりと下へ移動した。とりあえず腕枕から頭を外した。

 結果として掛布の中に潜っていた。……しまった。ますます身動きが取れない。


「……何やってんだ、お前は」


 呆れているような、面白がっているような、微かに笑いを含んだ声が降りてきた。ごそごそ蠢いているうちにクラウスを起こしてしまったらしい。

「お、おはようゴザイマス……」

 なぜか敬語になった。おまけに、語尾が完全にしぼんだ。

 ではそろそろ身支度を……と掛け布の中で反転しようとすると、

「まだ早い」

 腕だけではなく、クラウスの体そのものが上に圧し掛かってきた。


 いやいやいや。昨日……いや今日? あんなに頑張ったのに、まだ何かやる気ですか。私は冗談ではなく体が辛いのですよ。激しい運動はもうしたくないのです。

 ただ静かにくっ付いて時を過ごしていたいというかですね……。


 触れる程度の軽い口付けがこめかみや頬に降りてきて、そこで止まった。

「我慢するか……」

 私の密やかな抵抗は伝わったらしい。

 ぴたりと寄り添って、再び抱え込まれるようにして眠った。

 人肌の温かさを初めて知った。体に回された腕の重みも、ごく間近で感じる息遣いも、何もかもが……ただ心地良い。


「もう少し早く気付きたかったよ」


 クラウスが完全に眠っているのを確認してから、呟いた。


「大好き」


 でも、だからこそ、公爵になるという彼の道を閉ざしてはいけない。






 二度寝の後、

「……なんで今日は休みじゃないんだ」

 と子供のような事をぶつくさ言いながら、クラウスは城へと出勤して行った。

 私はしばらくぼんやりと過ごした後、ユミナに頼んで、朝食のような昼食のような半端な食事を部屋に運んでもらった。

 昨日から今日にかけて何があったか、ユミナならとうに見当がついているだろうに、彼女は何も言わない。ただ終始ニコニコしながら御膳に付き合ってくれた。

 妊娠初期に良いそうです、と聞いたこともないような薬草のお茶を勧められた時には、そのお茶を豪快に吹き出しそうになった。何とか吹き出さずに済んだが、代わりに激しく咳き込んだ。

 ……相変わらず先制攻撃が得意だね、ユミナ。貴女の手綱を完璧に握れるロディって凄い人なんだなぁ、と、改めて感心してしまったよ。


(赤ちゃんかぁ……)


 身籠るような行為を十二分にしたにも関わらず、なぜかその事が頭から綺麗に抜け落ちていた私である。我ながら呑気な……。

 いや大丈夫。きっと。たぶん。だって、一日だけだし。

 でももし本当に授かっていたとしたら……。

 不思議なことに、絶望感よりも、照れくさいような、こそばゆいような、ふわふわした感覚の方が強かった。本格的に産んで育てるとなれば、これまた苦労が群れを成して襲ってくるに違いないが、それを差し引いても……嬉しい。


 食べ終わると、何だか元気が湧いてきた。

 元気が出てくると、はっきりと、自分がこれからどうすべきかが見えてきた。


「ラングレン女神殿、か」


 唯一、既婚女性が修道女の誓いを立てられる神殿だ。誓いを立てた時点で、問答無用で現夫との婚姻関係は解消される。

 イザベラ様との邂逅以後、私なりにラングレンについて調べてみた。入殿するには纏まった額の金銭が必要と知って、何だか意外に俗っぽいなとちょっとがっかりしたのは、敬虔な信者様には決して言えない秘密である。

 幸いにして、私には十分な資金があった。兄が私に付けた持参金である。クラウスがそんな物はいらんと撥ねつけたので、かなりの金額が行き場を失って宙に浮いていた。結局、兄とクラウスで話し合って、私の個人資産として信託口座に預けられたのだ。

 この一部を取り崩せば、女神の館に堂々と入信できる。出所が兄のお金なので、少々申し訳ない気がしないでもないが……背に腹は代えられぬ、と割り切ることにした。ありがたく使わせてもらおう。


「徒歩だと二週間くらいかな。遠いなぁ。女神殿に向かう旅人を狙って、盗賊の類も出るようだし……道も慎重に選ばないと」


 あれやこれやと考える。

 考えながら、ふと、あの生まれながらの貴婦人たるイザベラ様が、過酷な徒歩の旅をどうやって独りで切り抜けたのかと疑問が湧いた。

 野生児の私ならともかく、普通の令嬢には旅など難しいだろう。宿の申し込み、店での買い物、どれ一つを取っても、深窓の姫君にまともにこなせるとは思えない。

 でも、現実にイザベラ様は見事ラングレンに逃げ込んだ。逃げ込んで、粗暴な夫と縁を切った。


(誰か手引き……協力した?)


 クラウスかも知れない、と、背筋が冷たくなった。

 三年前、クラウスは突然二週間もの休暇を取ったことがある。夏期や冬期の定められた休養日以外で、軍の責任者の一人がそれほどの期間城を空けるのは稀な事態だ。

 そのころ私はまだ子供だったため、何の疑問も抱かずただクラウスが不在なことを残念がった。つまんない、と膨れっ面を作る私に、では私のところに遊びに来い、と兄がしきりに誘っていたことは、今となっては微笑ましい思い出だ。

 冷静に記憶を手繰り寄せれば、ちょうどイザベラ様の離縁騒動の時期と重なる。彼女がまだ人妻だった頃から繋がりがあったのだ……。


 初めから勝ち目など無かった。初めから、私だけが一人で空回っていた。


(本当に真正の馬鹿だ……私)


 最後に、クラウスに宛てて手紙を書いた。

 これがまた難問だった。何度書き直しても納得のゆく文面にならない。

 ついに諦めて必要な事だけを簡潔に伝えることにした。一時間も唸って試行錯誤して、できた文章がこれか、と、何だか無性に寂しい気持ちになった。

 いいか。

 誘拐されたとか、神隠しにあったとか、事件だと大騒ぎされないための置手紙である。

 自分の意思でいなくなったとわかる内容なら十分だろう。




『お世話になりました。

 短い間ですが、とても幸せでした。

 良い公爵様になって下さい。

 離婚届は、後日手元に届くと思います。


 本当に色々ありがとう』




 ユミナとロディにも書いた。いつも綺麗に庭の手入れをしてくれる庭師のお爺さんにも。

 ランカスターまで毎回馬車を出してくれる御者のおじさんにも。

 どんな変な時間に頼んでも、魔法のように出来立ての美味しい食事を作ってくれる料理長にも。

 

 ありがとう、を伝えたい人がこの屋敷には多すぎて、書いても書いても、足りない。


 ああ、私、本当に、ファルマークの皆が大好きだったんだ……。


 孤児院に行ってきます、と嘘を吐いて家を出た。

 十分に離れた場所に来てから、振り返り、丁寧に屋敷に礼をした。




逃げました(ぇ

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