18
ファルマーク邸には、かなり本格的な遊戯室がある。
中央に陣取っているのは、木目の美しい大きなビリヤード台だ。そこから一番近い壁際に、保管というよりはまるで飾りのように、幾本ものキューが吊り下がっている。
窓は決して大きくはないが、縦に長い形をして数も多く、昼の室内は明るかった。その窓を二つほど開けると、風が良い具合に吹き抜けてゆく。
部屋の奥に、古いピアノが一台安置されていた。
私が屋敷に来た当時、ピアノはそれを扱える者がおらず、長らく放置されていた。蓋を持ち上げると鍵盤が幾つか浮いていて、これはもう駄目かも知れないと危惧したものである。
その後、専門家を呼んで調律し、私がまめに弾くようになると、ピアノは本来の音を取り戻した。家と同じで、楽器も愛情を持って手入れしてやれば、人よりも遥かに長い時間を生き続けることが出来る。
(私がいなくなったら、このピアノも、またただの置物になっちゃうのかな……)
椅子に座り、鍵盤の上に指を滑らせた。
私は実はヴァイオリンよりピアノの方が得意だ。手が小さいので一オクターブを超える和音を多用する曲は厳しいが、ゆるやかに旋律を刻む小夜曲などは、上手い、と褒められることもある。
「それは何て曲だ?」
背後から声を掛けられて、思わず飛び上がった。指が譜面とは全く違う鍵盤を叩いて、的外れな音を立てた。
「び、びっくりした」
「驚きすぎだ」
「だって、クラウスったら気配もなく近付くんだもん」
「人を幽霊か痴漢みたいに言うな」
「普段のクラウスは存在感ありすぎて、どっちも無理だよね」
私はピアノの鍵盤蓋を閉めた。椅子から立ち上がると、クラウスが当てが外れたように首を傾げた。
「もうやめるのか? 俺のことは気にせず続けていいぞ」
「クラウスに見られていたら、緊張して練習できないよ」
「安心しろ。音を外しても俺にはわからん。そういう曲だと思うだけだ」
「お母様は音楽家なのに、どうして息子がこうなっちゃったんだろ……」
「悪かったな」
譜面を持って立ち去ろうとすると、クラウスに腕を掴まれた。
「アラナ」
「な、何?」
「何かあったのか? 最近少し様子がおかしいぞ」
どきりとした。ちゃんとした夫婦でもないのに、いつだってクラウスには微細な変化を見抜かれてしまう。
公爵令嬢との遭遇以降、ずっと考えていた……。いつクラウスに切り出そうかと。
そろそろ、夫婦ごっこ、終わりにしない?
イザベラ様と再婚してやり直すなら、早い方が良い。こんな言い方をしたら失礼かもしれないが、彼女ももう二十代の後半。跡継ぎが欲しいなら悠長に構えている時間などないだろう。
そもそも三度も結婚して子宝に恵まれなかったイザベラ様は、先天的に子供の授かりにくい体質という可能性も考えられる。新しい夫と過ごす時間は、幾らあっても有りすぎるということはないはずだった。
「離婚……いつ頃がいいかなって、考えていたの」
私は言った。言うと同時に、冷汗がどっと噴き出した。抱えた楽譜の音符が水気で滲んでしまうのではないかと心配になるほどだった。
「本気で言っているのか」
クラウスの顔つきが険しくなる。声も一層低くなった。
一年前の戦争で、彼と対峙した蛮族らの心情がわかる気がした。……どうしよう、怖い。
「だ、だって。元々そういう約束だし」
「だとしても、まだ半年も経っていない。すぐには無理だ」
「じゃあ、半年後ならいいのね?」
「……そんなに」
掴まれた腕に、更に力が加わった。痛い、と悲鳴を上げる前に、近くの壁に乱暴なほどの勢いで押し付けられた。
たぶん私を怖がらせるために、壁に手をつく際わざと大きな音を立てたのだろう。顔のすぐ横で響いた鼓膜を震わせる鋭い音に、一瞬で気力が萎えた。楽譜がばさばさと足元に落ちる。
「俺は別れる気はない」
訳が分からず、私はぽかんと間抜けな顔でクラウスを見上げた。
猛烈に怒っているだろうと確認するのが怖かった彼の表情は、意外にもさほど激高したものではなかった。今にも泣き出しそうな私より余程落ち着いている。
「何があった? アラナ」
「な、何がって。何も」
「……少しずつ、確実に歩み寄れていると思っていた。それが、急に頑なになった。何かあったと考える方が自然だろう」
「何もない。初めから。歩み寄れていたわけじゃない。慣れただけ。全部……全部、気のせい」
「お前は、自分で思っているほど器用な猫かぶりじゃない」
ふん、とクラウスは馬鹿にしたように肩を竦めた。
「肝心な時には失敗ばかりだ。……今もな」
夫婦ごっこを終わりしようという意見には賛成だ、とクラウスは呟いた。
「俺は特別性欲の旺盛な方ではないと思うが、さすがに疲れてきた」
横髪を掻き上げるようにして、クラウスの手が私の頬に触れた。手はそのまま顔の輪郭をなぞって降り、顎を持ち上げた。恥ずかしくなってきゅっと目を瞑った瞬間に、ごく自然に唇が重なった。
背中に回された強い腕が、足元から崩れ落ちそうになる体を支えてくれる。私自身の両手は、クラウスの服の胸元を所在なげに掴んでいた。まだ大胆に抱きつき返す勇気はない。
「抵抗しないなら」
唇が離れたわずかな隙に、クラウスが耳元に囁いた。
「このまま寝室に連れて行くぞ」
その後に待ち受けている行為については、さすがの私でも想像がついた。今ここで拒否しないと、体よりはむしろ心に、立ち直れないくらい深い傷を受けるだろうということも。
(傷……?)
ぼんやりと、左手の指輪を眺めた。これも置いて出て行くつもりだから、本当に何も残らないと思っていたけど……。
(傷じゃなくて……思い出、かな)
公爵令嬢に、クラウスを返す前に。一度だけ。
いや、それだって、イザベラ様にしてみれば許しがたい背徳行為なのかもしれないけれど。
好きな人と一つになるって、どんな感じだろう。
本の中で、遠巻きに憧れるばかりだった、恋慕、愛情、そういったものを私に教えることの出来る人は、今、目の前にいる彼だけで――……。
俯いたまま、私は、おずおずとクラウスの手を取った。とても目を合わせられない。気の利いた台詞も出て来ない。
自分の語彙の少なさが恨めしかった。憎まれ口ならぽんぽんと出てくるのに。
部屋に連れて行って下さい、と言えば良いのだろうか。
いや、もっと具体的に……だ、抱か……抱き……抱く……。
そんなものすごいこと口にできる勇気があるなら、初めからこんなに悩んでいないよ!
ふわ、と体が浮いた。結婚式の仕来りのように、気付けばクラウスに抱き上げられていた。
この状態で寝室に運ばれるのは、さすがに露骨すぎやしないかと足をばたつかせて抗議するも、全く取り合ってもらえなかった。肩に担がれる方がいいか? と意地悪く聞き返されて、私は慌てて首を左右に振った。
その日、いや次の日の朝まで、一歩も寝所の外に出してもらえなかった。
何が「性欲旺盛じゃない」だ。
……クラウスの大嘘つき。
やっと両想い?




