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 最近、ふと考える。

 私は、果たして本当に兄が好きだったのか、と。

 いや、好きだったのは事実だ。それこそ祭壇に祭られた神のように崇拝していた。

 兄はヴェルトナーで唯一の味方だったし、嫌われた時点で突然道端に放り出される可能性も十分にあったわけで、そういう意味ではまさに私の生命線そのものだった。

 妻になれば、もう少し使用人たちも私のことを顧みてくれるかな……と、狡猾な計算が働いていたのもまた然りで。


(私って……。嫌な性格だな、おい……!)


 今までの自分を振り返ると、あまりの恥ずかしさに穴の中に隠れたくなる。

 だから友達もいないんだ。いっそシュゼットが愛想を尽かさずずっと付き合ってくれていることが、奇跡に近い。

 彼女は……いや彼女だけではなく、いま自分の周りに居てくれる人全員、大切にしよう。ユミナも、ロディも、神父様も。

 行儀見習いでファルマーク家に無理やり押し込まれて、ぷりぷり怒っていた我儘だというあの子とも、仲良くやっていけるような気がする。


「ごめんね、アラナ。無理言って付き合ってもらっちゃって」


 そのシュゼットからサロンのお誘いがあった時、だから私は断らなかった。

 サロンは最近売り出し中の若い画家を交えて近代美術について熱く語ろうというもので、正直、私は途中で寝てしまわないか不安だった。

 絵画鑑賞は嫌いではないが、そこに何派の手法云々という話が絡むと、途端に興味が薄れてしまう私である。

 無名有名問わず、綺麗な絵は理屈抜きにして眺めたい。眺めた結果、もっと知りたくなったら、そこで初めて学べばいい。

 そんな風に考えてしまう私は、たぶん、芸術サロンには不向きな人間なのだろう。

 主催はエヴァンス侯爵夫人だった。椅子に腰かけ、何気なく紅茶を口元に運ぶ所作すら、何だかイケナイ妄想をかき立てられてしまう艶冶な美女である。

 年の頃はわからない。じっと至近距離から見つめても本当にわからなかった。わかるのは、二十歳を超える大きな息子がいるということだけ。

 魔性の女、の文字が脳裏に浮かんだ。


「ここってハーレム?」

「なんてこと言うのよ、アラナ」


 シュゼットに怒られた。でも、そう表現せざるを得ない状況に見えるのは気のせいなのか……。

 売り出し中の画家とやらがたくさんいるのはわかるが、なぜみな若く、しかも顔の造作が良いのだろう。絵を描くために必要なのは腕と感性であって、見た目ではないと思うのだが。

 サロンの出席者の女性たちが、その若く美しい男どもに傅かれて、きゃっきゃウフフと華やかな笑い声を響かせている。

 ……何だコレ。ものすごく怖い。


「シュゼット……」


 いつの間にか、友人は席から消えていた。空いた所に、画家が一人すかさず滑り込んできた。

 自己紹介から始まって、画家の青年は実によく喋った。画家なのに、いっそ天晴なほど絵の話が出てこなかった。

「貴女のように可愛らしい方と一緒にいられたら……」

 と耳元で囁かれて、全身が総毛立った。いつの間にか、膝の上に置いていた手を握り締められていた。

 ソファになんか座るんじゃなかったと激しく後悔したが、後の祭りだった。一人掛けの椅子よりも遥かに距離を詰めやすい。


 嫌。

 嫌だ……!


 シュゼットが戻ってくるのを待ってあげなければ、という使命感を、男に対する嫌悪感が瞬く間に上回った。

「触らないでっ」

 自分でも驚くほど大きな声が出た。周囲の非難するような視線が突き刺さってくる。

 侯爵夫人のサロンで場違いな大声を出すなんて、明らかに非礼だ。もっと上手にいなすことも出来たはずなのに、場を丸く収める適切な台詞が全く浮かんでこなかった。

 何やっているんだろう、私……。

 居た堪れなくなってその場を逃げ出した。一層悪目立ちするとの自覚はあったが、とにかく一刻も早くこの馴れ馴れしい男を視界から消してしまいたかった。

 触られたところが気持ち悪い。いっそ皮膚を剥いでしまいたいほど。

 廊下に出て呼吸を整えていると、


「こちらへお出でなさい」


 声を掛けられた。

 はっとして振り返った先に、彼女はいた。黄金の薔薇。淑女の中の淑女。

 何気ない立居振る舞いにも、匂い立つような気品が伴う……生まれながらの高貴なる姫。


「イザベラ様……」

「貴女に話があります。付いていらっしゃい」


 公爵令嬢の招きを拒否できるはずもない。仄かに花の香を纏わせる彼女の背を、私はまるで忠実な僕のように追いかけた。






 着いた先は客間らしき空き部屋だった。

 迫力に気圧されてのこのこ付いて来てしまったが、よく考えれば正妻と愛人というとんでもない取り合わせである。しかも愛人の方が身分立場が上という……奇妙な構図。

 ニルヴァナ公爵は現国王の従兄君。その公爵様の一人娘がイザベラ様だ。三度も身の回りで婚姻にからむ愛憎劇を繰り返しながらも、未だ社交界の頂点に君臨し続けるのは、彼女がニルヴァナ公爵位に直接関わってくる重要人物であるからに他ならない。

 イザベラ様の夫が、次のニルヴァナ公爵になる。三番目の夫を強硬手段で離縁したのは、単に嫌っていただけではなく、決闘で女を手に入れるような粗暴な男を次の公爵にはすまい、という確固たる意志が根底にあったからだろう。


 こんな風に考えてしまうのは。

 目の前にいるイザベラ様が、あまりにも凛として……美しいから。


 刺々しい茨の姫を勝手に想像していた。が、こうして会った印象は、泥の中からでも逞しく咲き誇る、毅然とした蓮の花だった。


 ああ、この人が、クラウスの好きな人なんだ……。


「クラウスは優しい?」


 私にソファを勧めながら、彼女は言った。

 彼女自身はどこにも腰を落ち着けず、窓辺に立った。落日の光に彩られた女神のような輪郭を、なぜか私は惚れ惚れと眺めやっていた……。愛人に見惚れちゃ駄目じゃないか、自分。


「はい。あの……優しい、です」

「……そうでしょうね」

「す、すみません」

「貴女はその優しいクラウスに何を返してあげられるのかしら」


 返答に詰まった。少し前から、常々考えていたことだった。

 クラウスは私に居場所をくれた。結婚するずっとずっと前から、思えば私が私らしくいられる場所を、常に用意してくれていた気がする。

 私は、それに甘えてばかりで……何も、何一つ、まだ報いてあげていない。


「クラウスにニルヴァナ公爵位を継がせようという話があったの。条件はただ一つ。ある令嬢と婚姻を結ぶこと。クラウスはそれを断ったわ。貴女を妻に迎えるからその条件は呑めないと。わかる? 彼はね、貴女のために、手を伸ばせば届くはずだった公爵位を諦めたのよ」


 がん、と頭を殴られたような衝撃だった。

 同時に、私が持ちかけた浅はかな企みのもたらした結果に、心の底から戦慄した。


 クラウスが次代公爵。しかも、断った、ということは、単なる絵空事ではなく、具体的にその話が出ていたということになる。

 現公爵も、娘婿になったクラウスに地位を譲ることを了承していたのだろう。辺境伯家の次男ではあるが、嫡出子ではない彼にとっては、これ以上ないくらいの……良縁。


 それを、私が、台無しにした……?


「すみません」

 膝の上に置いた手が、自分の力ではどうしようもないほど震えた。

「クラウスの可能性を潰してしまったこと、必ず責任を取ります」

 窓辺に佇むほっそりとした人影が、わずかに小首を傾げた。きっと美しい眉を顰めて、呆れたように愚かな小娘を眺めやっているのだろう。

 表情が見えなくて良かった……。

 そのまま対峙していたら、涙腺が決壊したように大泣きしてしまいそうだったので、私は勢いよくソファから立ち上がった。

「申し訳ございません。友人を待たせておりますので、失礼いたします」

 よろめく足を励まして、部屋の出入り口まで歩いた。取っ手を掴み、ドアを押した。……開かなかった。

 入った時、そういえば扉を押していたことを思い出した。引いてみた。ちゃんと廊下に出ることが出来た。

「お待ちなさい。まだ話が……」

「いえ。仰りたい事は十分によくわかっているつもりです。自分の間違った行いには責任を取ります。クラウスのこと、よろしくお願いします」

 これ以上、一言でも喋ったら、絶対に泣く。情けないほど大洪水になる。

 引き際くらい格好良くさせてほしい。一旦泣いてしまったら、なりふり構わず公爵令嬢に突っかかってしまいそうな自分が怖い。


 クラウスと別れて下さい。

 クラウスに関わらないで下さい。


 クラウスを……私に下さい。






 シュゼットを玄関付近のホールで見つけた。

 いかがわしい雰囲気の蔓延するサロンを避けて通れたことに、安堵した。彼女を引き摺って外に出る。

「アラナ……顔色悪いわよ。何かあったの?」

「何でもないの」

 シュゼットは、妙な画家たちに絡まれることはなかったらしい。

 退屈だったわ、と、私にとってはある意味羨ましい感想を漏らしていた。

 

「アラナ。また付き合ってくれる?」


 もうその機会もないと思うよ、と、心の中で返事をした。


 こんな三か月程度で慌ただしく離縁されたら、格好の物笑いの種だ。実家のヴェルトナーにも帰れない。

 明日を生き抜けるかどうか、切実に不安だった。サロンなんて贅沢で無駄な集まりに顔を出している余裕など全くないに決まっている。


(いっそ修道女にでもなるか……)


 何となく浮かんだそれは、名案に思えた。




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