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 その日は朝から雨だった。

 正午を少し回ったばかりなのに、まるで冬の薄暮のように辺りは暗い。一向にやむ気配のない雨音ばかりが、ランカスターの堅固な石造りの建物を陰鬱に包み込む。

 いつも元気に飛び回っている子供たちも、今日に限っては外出する気力が湧かないようだった。宿舎に閉じ籠もったきり誰も出て来ない。神父様だけが、待機も兼ねて聖堂の奥の間で読書に勤しんでいる。

 聖書かと思ったら、ごく一般的な学術書だった。裏表紙に王立図書館の銘が入っている。ランカスターからはかなり遠いのに、わざわざ借りて来たらしい。

 そういえば、ユーノの贈り物はどうなったのだろう。鎖はちゃんと活用されているのだろうか。

 私はまじまじと神父様の上半身を観察した。法衣は襟が詰まっているので、外から見ただけではよくわからなかった。

「……アラナさん」

「はい」

「そうじっくりと観察されると、檻の中の珍獣にでもなったような気分で、落ち着きません」

「あ。すみません。つい」

「何か悩み事ですか」

「えっと……」

「伺いますよ。私で良ければ」

 ぱたん、と神父様が本を閉じた。

 実はさっきから話しかける隙を虎視眈々と窺っていた私である。……貴重な自由時間を邪魔してしまって申し訳ない。

「ずっと、天敵だ! と思っていた人が、実は私、好きだったみたいなんです。でも、散々ひどい事を言ったりやったりしてきた後なので、今更って感じで。神父様だったら、こういう時どうします? 告白しちゃいます?」

「困りましたねぇ……。私がそれをしたら、神の教義に背くことになりますね」

「ですよねぇ」

 何だかとっても呑気な会話になっているが、私としてはこれでも十分すぎるほどに真剣である。

 それにしても、恋愛も結婚もご法度の聖職者に対し惚れた腫れたを相談するなんて私くらいのものだろう……と思っていたら。

「たくさんいらっしゃいますよ」

 予想の斜め上を行く回答が返ってきた。

 その相談者が女性なら、二、三割は神父様本人が目当てではないかと疑念を持ったが、今は余計な事は考えまい……。


「その天敵だと思っていた人物とは?」

「旦那様です」

「それは迷うことなく告白ですね。めでたく夫婦円満です」

「やっぱり言った方が良いですか」

「きちんと伝えないと、ずっと天敵だと思われてしまいますよ。男は好きな女性に対しては意外に臆病なので、嫌われているかもしれないと感じれば、自分からは行動を起こしにくいものです」

「神父様もそういう経験あるのですか」

「それを素直に供述したら、いかに私が不良神父であるかを暴露することになりますね。黙秘権を行使します」

「聞きたいです。知りたいです。教えて下さい……!」


 にわかに、雨の静寂を打ち破り、騒々しい足音が近付いてきた。

 神父様が立ち上がり、やや急いた様子で聖堂へと向かった。

 貴女は残っていて下さい、と言われたが、異常事態に大人しく引き下がるなんて野性児たる私の矜持が許さない。

 とりあえず神父様の後を追いかけた。聖堂と廊下の境扉をそうっと開けて、隙間に顔を張り付けた。

 神父様はこちらに背を向けているにも関わらず、鋭く私の気配に気付いたらしい。ちらりと視線を横に流し、こらっ、とでも言いたげに眉を顰めた。

 眉間に皺を寄せると、クラウスにますます似ている。神父様。


 あれ、でも。

 クラウスよりも、もっと別の誰かに似ているような……。


「ルース・ノイラートはいるか?」


 無作法に聖堂に踏み込んできたのは四人。三人は兵士。一人は市井の取締官だった。


「私ですが」


 神父様が一歩前に進み出る。三人の兵士のうち二人がその両側に回り込み、まるで拘束するかのように肩に手を置いた。

 取締官が、偉そうに生やした顎髭を撫でつけながら、満足そうに頷く。

 私はたまらず飛び出して、役人の無作法な手を払い除けた。部外者の登場に取締官の男は一瞬鼻白んだ表情を浮かべたものの、私を問答無用で摘まみ出すような真似はしなかった。

「何用でしょうか」

 神父様はあくまでも静かに問いかける。さり気なく、私を役人たちから庇うように移動した。

「貴方が、身分を偽っているとの密告がありまして」

 取締官が、再び髭を撫でた。いちいち鬱陶しい髭だ。引っ張ってやりたいのは山々だが……反面、触りたくない。

「ロザリオはどうしました、ノイラート殿。失くしましたか」

「……」

 それには神父様は答えない。勝ち誇ったように男が笑った。

「調べたのですよ。貴方のことを。どの修道士会にもルース・ノイラートという名は無かった。あんたは聖職者でも何でもないのに、司祭と偽ってランカスターに潜り込んでいたわけだ。……目的は何かね?」

 いつの間にか、取締官は敬語を捨てていた。後ろの兵士を振り返り、これで宗門官(主に宗教関連の取り締まりをする高位の役人)に恩を売れるな、と隠そうともせず下卑た会話をしているのを耳にして、私は一気に頭に血が昇るのを感じた。

「この……!」

「落ち着きましょう、アラナさん」

 他ならぬ神父様に止められた。

「私なら大丈夫ですよ。私は身分を偽ってはおりませんので」

「でも」

「修道士会に名が無いのは当然です。私はそこの所属ではありません」

 少しお待ちいただけますか、と、神父様はにこりと微笑んだ。

 笑顔なのに、有無を言わさぬ奇妙な威圧感があった。身を翻し、ドアの向こうに法衣姿が消えても、役人たちが誰も追おうとしなかったのはその迫力に気圧されたためだろう。


「何だ、あいつは……」


 神父様はすぐに戻って来た。手に、布に包まれた長い棒状の物を持っていた。


「これが、私が聖堂騎士会より賜った身分証です。神聖騎士の証……聖十字剣です」


 布を取り払って現れたのは、剣だった。

 鞘は見事な彫刻が施されているのに、それと比べて柄は随分と質素な印象を受ける。が、よくよく見ると、持ち手と刃の境部分に七つの星を戴く精巧な十字が彫られていることに気が付いた。

 七つの星は、聖書にも登場する七聖人を表しているのだろう。中央の十字こそ、この剣が十字剣と呼ばれる所以に違いなかった。

 実戦で使うのに、過多な装飾は邪魔なだけです、との神父様の言葉にはっとする。

 そうだ。神聖騎士は聖職者であると同時に武人でもあるのだ。有事の際には躊躇うことなく最前線にも出撃する。死を恐れない彼らは悪夢のように強い……呟いたクラウスの苦々しげな顔を、私は唐突に思い出していた。


「神聖騎士は、全員が司祭の資格を有しています。ランカスターを預かる身として、何ら不足はないと自負しております」


 カチン、と音がした。風を切る気配の一瞬の後には、抜身の剣先が呆然と佇む役人の喉元を捉えていた。

 刃が滑らかにぎらりと光る。けれど、その光沢に真新しさはなかった。何度も使われ、何度も人の血を啜った……、本物の剣の輝きだった。


「戦場から離れて久しいので、相当に腕が鈍っています。脅しのつもりが、うっかり手が滑って本当に斬ってしまいかねません。神聖騎士には、著しく名誉を傷つけられた場合、神の名のもとに相手に制裁を加えても許されるという、実に都合の良い特権があります。……私に関わらない方が賢明ですよ、取締官殿。聖堂騎士会には今回の件は報告しませんので、早々に立ち去りなさい」


 言われるまでもなく、役人たちは這う這うの体で逃げ出した。

 無抵抗の偽神父を一人捕まえて甘い汁を吸おうとしていたのが、とんだ大誤算に悪態を吐く気力も失せたようだった。覚えていろ! というお定まりの捨て台詞すら出てこない。

 いや、彼らも覚えていたくないのだ。神聖騎士と聖堂騎士会に喧嘩を売ったなどと、想像しただけで身震いの走る大失態であろう。


「神聖騎士……ルース様が」

「今まで通り、神父様、で構いませんよ。所属が騎士会というだけです。何も変わりません」

「でも……どうして隠していたのですか? 騎士の格好でいた方が、今回みたいに勘違いする人も出なくて良かったのでは……」

「隠していたわけではありません。騎士服は窮屈で好きではないだけです。慣れると法衣の方が楽でしてね」

「そ、そんな理由ですか」

「そんな理由です。後は……そうですね。下手に子供たちが神聖騎士などに憧れを抱かないように、でしょうか」

「? 清貧、貞潔、神への従順を守る素晴らしい騎士様でしょう? 憧れるのは良い事だと思いますが」

「アラナさん。もし貴女のご主人が神聖騎士だったら、どれほど貴女を想おうと、決して一緒にはなれません。神聖騎士が聖籍を抜ける方法はただ一つ、死のみです。そういう不自由さを、私は、いずれ大人になる子供たちに味わわせたくはないのですよ」


 真新しい鎖に繋がれた古いペンダントを、私は無意識のうちに握り締めていた。

 ロケット部分には、クラウスに面差しのよく似た、私の父かも知れない人物の絵が嵌め込まれてある。


(お父さん……?)


 神聖騎士は妻帯できない。妻がいないのだから、当然子もいるはずがない。だから、クラウス以上に絵の中の男の人にそっくりなルース様に、これは貴方ですか、などと言い掛かりを付けてはいけないのだ。絶対に。

 変な噂が広まったら、厳しい戒律の中に身を置いている神父様の立場……いや命すらも危ういかもしれない。


「雨。やんだみたいですよ」


 長い長い沈黙の後、口を付いて出たのは、そんなどうでも良い事だった。

 雨なんか降ろうが降るまいが関係ない。今気になることは一つだけなのに。……聞けない。


 深呼吸を一つして、笑った。

 猫を被っていた過去の自分に、初めて心から感謝した。とても上手に微笑んでいる自信がある。


「虹、出ているかなぁ。出ていたらいいなぁ」


 聖堂の大扉を開けた。雨は確かにやんでいたけど、雲は相変わらず重苦しく頭上に留まっていた。

 見上げたどこの空にも、虹はかかっていなかった。

 



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