15
少し遅い昼食後、眠気を紛らわせるために庭の散歩に出た。
屋敷の大きな前庭を彩る薔薇の花が満開だった。品種改良しているとのことで、ここの薔薇は棘が無い。引っかかることもなく、するすると前に進めた。
裏庭には、原種に近い薔薇の畑がある。以前、そこを何も考えず歩き回って、スカートがボロボロになったことがあった。
クラウスにたいそう馬鹿にされたのが悔しく、
「こんなヒラヒラの服で歩ける人なんかいるはずない。いたら何でも言う事を聞いてやる!」
つい余計な啖呵を切ってしまった。
クラウスはにやりと笑い、
「……何でも、ね。その言葉忘れるな」
薄い儀礼用のマントを身に付けて、そこに障害物の存在など一切感じられない軽快な足取りで、彼は歩いた。茨の方が避けているのではないかと疑ってしまうほどだった。
後になって、薔薇園には散策用の順路があり、そこを進めば棘に捕まることもないのだというからくりを知った。
ずるい。
何でも言う事を聞くという約束は、反故にしても罰はあたらないと思う。
「あの……」
綺麗な花を素直に愛でていれば良いものを、クラウスの意地悪を思い出して勝手にむかっ腹を立てている私に、遠慮がちに声を掛けてくる人物がいた。
振り向くと、薔薇畑の外側に見慣れぬ少年が立っている。
「お屋敷の方ですよね?」
少年が薔薇畑の中に踏み込んできた。棘の無い薔薇なのに、なぜか彼は触りたくないようだった。
おっかなびっくり歩くものだから、足取りも覚束なく派手に転んだ。世の中には私より不器用な人間がいるらしい。
「大丈夫?」
助け起こそうとして近付くと、少年と目があった。彼はしばらく呆けたように私の顔を眺めていたが、やがてふいと視線を逸らし、自力で立ち上がった。
私が差し出した手を見ようともしない。そんな露骨に避けられるほど酷い事を言ったりやったりした覚えはないのだけど……。
ちょっと傷ついた。
「屋敷のご主人にお会いしたいのですが」
少年は俯き、帽子を脱ぐどころか更に庇を間深く引き下げた。人と対話する時は帽子は脱いだ方がいいですよ、と私が指摘すると、慌てて顔を上げ、被り物を取った。
顔が真っ赤だった。熱でもあるのだろうか。
具合が悪いのに無理をさせたら気の毒だ。話は手短に切り上げてあげよう。
ついでに風邪薬の一つでも持たせて……。
「主人は留守です」
「じゃあ、執事さんは……」
「……も留守です」
「そうですか」
少年は、喋りながらも落ち着きがない。そわそわと帽子を折り曲げたり捻ったりしている。私は気の毒な帽子を彼の手から取り上げた。
「私もこの屋敷の主の一人です。私が代わりに承りますが」
「え? あの……。あれ? 奥様? お嬢様じゃなくて?」
私の左手の指輪の存在に、ようやく彼は気付いたらしい。私はにこりと微笑んだ。
「頼りなく見えるかもしれませんが、間違いなく妻です。クラウスに何か御用ですか?」
「ああ……はい。奥様でしたか。何だ、お嬢様じゃなかったのか……。ええと、俺はシベール工房の者です。伯爵様にお伝え下さい。楽器の修理、終わりましたと。ヴァイオリンはすぐにでもお届けできますが、ピアノはどういたしましょう。大きいし、繊細な物なので、専門の運び手に任せた方がよろしいかと存じますが」
たぶん、この時の私は、ハトが豆鉄砲をくらったような顔をしていたに違いない。
瞬きを繰り返しながら、少年の言葉を反芻していた。
(楽器? 修理? 何のこと?)
クラウスは楽器の演奏は全くしない。出来ない。ピアノの鍵盤を見て、どれがドだ? と聞いていたことからも彼の音楽音痴は明らかだ。
そのクラウスが、ピアノやヴァイオリンを修理に出していたという。まさか私に内緒で練習していた……?
いやそれはない。自分で弾くよりも、私が弾いているのを見ている方が興味深い、と、常々口癖のように言っていた。
「それとも、ピアノは直接ルナミア教会に運びましょうか」
「教会?」
「はい。あれ? 最終的にはそちらに設置する予定と伺っておりますが」
私では埒が明かない、とでも思ったのか、少年は、また来ます、と一礼して去った。
承ります、などと言いながら、全く承れなかった自分の不甲斐なさに少々気持ちが挫けたが、それ以上に彼から聞いた内容が頭を離れず、心の表面にさざ波が立っていた。
(教会と……修理したピアノ?)
ルナミアもランカスターに負けず劣らず古い教会だ。敷地だけは広いので、ここにも孤児がたくさん預けられている。
そこに一台しかないピアノが、随分前から壊れて音が出なくなっていた。修理しようにも不足の部品が多すぎて、新品を買うくらうの値になってしまうという。
そんな贅沢は神も望まないでしょうとのルナミアの神父様を慮り、それでは中古の良品を、と探していたのだが……。
(クラウス、が?)
彼は、私の教会での活動については興味が無いと思っていた。
いつでも協力するとわかりやすく好意を示してくれる兄とは対照的に、何も言わなかったから。
私がやっている事なんて、そもそも知りたくもないだろうと……。
(助けてくれていたの?)
クラウスの帰宅を待った。
同じく一連の流れを把握していそうなロディに尋ねなかったのは、クラウスの口から真実を聞きたかったからだった。
が、それよりも先に、先程の楽器工房の少年が戻ってきてしまった。ひどく慌てた様子で、
「俺が今日ここに来たこと、全部忘れて下さい!」
面食らって返事が出来ないでいると、彼は腰を九十度に折ったまま、すみません! ともう一度叫んだ。
「親方に言われました。楽器の件、伯爵様と執事様以外の方には他言無用、ってなっていたんです。奥様にぺらぺら喋ったことが知れたら、俺……」
握り締めた帽子は完全に変形していた。真夏の炎天下にいるわけでもないのに、額には玉の汗が浮いていた。……余程急いで走ってきたのだろう。
それを拭う彼の手は、まだ若いながらも一端の職人であることを示すかのように傷と肉刺だらけだった。
朝から晩まで修行に明け暮れているらしい努力家の少年に、余計な叱責を与えるのは私としても忍びない……。
「お客さんと大切な話をするときは、それが口に出して良い事がどうか、十分に吟味した方がいいですよ」
忘れるわ、と私は言った。
「何も見ていないし、聞いていない。それでいいのよね?」
「ありがとうございます……!」
何度も何度も振り返りながら、少年は帰って行った。そそっかしいけど何となく憎めない彼の背中を見送りながら、私は、人知れずただ溜息を吐くしかなかった。
「聞けなくなっちゃった……。クラウスに」
一週間後、ルナミア教会の神父様から便りがあった。
私の活動を支持しているという匿名の人間から、非常に状態の良いピアノが寄贈されたのだという。
私はすぐにルナミアに行き、ピアノを見せてもらった。それはフラベルという有名な職人の手による品で、古いが名器だった。
贈られたピアノには、見覚えのあるメッセージカードが一枚添えられていた。
あの時と同じ。五十台ものヴァイオリンを贈ってくれた、無名にして無償の好意を示してくれた……何処の誰とも知れないあの人と。
「クラウス……!」
かつて、五十台の楽器の寄贈は、切っ掛けとなった。それを聞いた国王陛下はいたく感動し、それを知った富裕層がこぞって支援や慈善事業に乗り出したのだ。
今、親のいない子供たちに手を差し伸べる運動は、既に私の手を離れ、専門の団体によって着実に広まりつつある。私は大きな流れは彼らに任せ、身近なところで、算数と読み書きと音楽をささやかに教えているに過ぎない。
その方が自分には向いているし、身の丈に合っていると思うのだ。
「ねぇ、クラウス。クラウスが私にくれるものは大きすぎて、何を返せばいいかわからないよ……」
現実ではない夢の世界で、私は彼に問いかける。ここでなら、どんな言葉も恐れずに口にすることが出来る。
他人の目を常に気にして仮面を被り続けてきた私は、本心でぶつかって行くことに慣れていなかった。ずっと本音で付き合ってきたクラウスにさえ……いやクラウスだからこそ、拒絶されるのが怖くてたまらない。
偽物じゃなくて、本物の奥さんになりたいの。
一つ、一つ、自分の心を覆っていた固い殻が、剥がれてゆくような感覚。
中で縮こまっているのは、捨てられるのを恐れるあまり、ちっとも素直になれなかった幼いままの私。
ああ、そうだ。まずは私がちゃんとした大人にならないと。
猫なんか被らなくても、周りがそうと認めてくれる……本物の品格ある女性にならないと。
そうして初めて、釣り合いが取れる気がする。クラウスと。
その時こそ、怖がらずに……。




