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 ファルマーク伯爵家の家令は、ロディ・カートライトという。

 年はクラウスの二つ上。兄のように優しげな眉目の持ち主で、しかし大雑把な兄とは似ても似つかぬ細やかな仕事のできる人物でもある。屋敷の管理の良さ、使用人たちのてきぱきとした身のこなしを見ていれば、彼が有能であることは一目瞭然だった。


 その有能な執事殿が、朝から分厚い帳簿を持って家の中を歩き回っている。


 恐らく家財の点検をしているのだろう。家令が定期的に確認していると周囲に知らしめるだけでも、下の者への十分な牽制になる。

 ……牽制しなければならない手癖の悪い人間など、この屋敷にはただの一人もいそうにないけれど。

(お手伝い、出来ないかな?)

 彼の後をこそこそと追い回すこと、三十分。もはや美形の執事を背後から付け狙うただの変質者である。我ながら自分の行動が痛い。


(邪魔……だよね。きっと)


 ヴェルトナーの屋敷にいる時、私は家の中の手伝いを一切やらせてもらえなかった。

 令嬢のすべき事ではない、が表向きの理由だが、どうやら、たかが拾われ子の私に大きな顔をして欲しくない、が家令と侍女頭の紛うことなき本音だったらしい。

 何となく彼らの気持ちは理解できたので、私も出しゃばらないように極力気を付けた。結果、十一年も住んでいたにもかかわらず、未だヴェルトナーの館のどこに何があったのかよくわかっていない有様である。


「奥様。屋敷の品々に興味がおありですか?」


 声を掛けられて、私はびくりと肩を縮めた。曲がり角の壁から恐る恐る顔を覗かせると、思いのほか近い場所に、柔らかな微笑を湛えて家令の青年が佇んでいた。


「あの。お手伝い出来ること、何かないかな、と思って……」

「ございますよ。ですが、お手伝い、はいけません。補佐は私の役目です。奥様は、屋敷の状態を把握したいから説明せよ、と、どうぞお命じ下さい」

「あ……。でも、私、三か月前に来たばかりで。まだわからない事ばかり」

「はい。そのために私がおります。何なりとお申し付けください」


 こちらへどうぞ、と促されるまま付いて行った先は、書庫だった。

 私が見ている前で、彼は書棚の奥に隠された金庫を顕わにし、重い金属扉を開けた。暗証番号まで躊躇うことなく口にするので、聞いている私の方が焦ってしまった。

「ク、クラウスに怒られちゃうんじゃ……!」

「いえ。旦那さまから承っていることです。奥様が家の管理に興味を持つようであれば、そのお手伝いをするように、と」

「クラウス……が? 私に?」

「はい。奥様は活発な方なので、いずれ役割を求めるようになるだろうと」

 金庫の中には何冊もの簿冊が入っていた。全てが革張りで厚みがあり、開くと、家に伝わるあらゆる財が丁寧に細分化されて記してあった。


「奥様にこの管理をお願いしてもよろしいでしょうか」


 とくん、と心臓が跳ねた。掌がじんわりと湿り気を帯びてくる。

 こんな大切なものを任されるなんて初めてだ。ヴェルトナーでは、自分の部屋に敷く絨毯の一つすら自由には決められなかった。

 与えられた物をただ従順に受け入れるだけの日々。貴女は養女なのですから、と言われれば、そこに反論の余地は一切ない。

 兄は私を可愛がってくれたが、可愛がってくれたからこそ、我が儘など言えるはずもなかった。


「いえ、あの。こんな大事な物、私が扱うわけには……」

「我がファルマークの奥方様だからこそ、お願いするのです。他の誰にもお任せ出来ません」


 でも、私は偽物なんだよ、という言葉を、寸でのところで飲み込んだ。

 ファルマークの奥方様。その呼び方に、すっかり違和感のなくなってしまった自分がいる。


 暗証番号を忘れてしまったら、まずは旦那様ではなく私にお尋ね下さいね、と執事が屈託なく笑い、その心遣いに危うく涙が出そうになった。

 クラウス様は厳しい方なので、たった六桁の数字くらいきっちり覚えろと、きっと怒るに違いありませんから……。


「そうなの。クラウスったら、すぐバカバカ言うのよ」

「旦那様は愛情表現まで手厳しいですね」

「ロディは優しそう……」

「いえ、たぶん私も厳しい部類に入ると思いますよ。おかげで侍女長を筆頭にすっかり皆に恐れられています」

「貴方が? 何だか信じられない」

「怒ると怖いとよく言われますね……。最近では、主にユミナに天敵扱いされています」


 それは私とクラウスの関係みたいね、とひとしきり笑った後で、ふと、ロディが真面目な顔で呟いた。


「ユミナで思い出しました。一つ彼女から頼まれていたことがありまして。……奥様のお力をお借りしてもよろしいでしょうか」






 使用人部屋のある棟に行くと、裏口近くのホールに人だかりが出来ていた。

 床に広げた敷物の上に恰幅の良い商人風の男が座り、その周りを使用人の女性たちが取り囲んでいる。男はなぜか随分と疲労した表情で、女たちの前に幾つもの布の切れ端を広げていた。

 服飾屋かしらと私が首を傾げると、


「内装関連の専門家です。あれはカーテン生地ですね。屋敷の一室を改装することになったのですが……」


 要するにこういう事だった。

 部屋の改装などにいちいち時間を割いていられないクラウスは、適当にやってくれと家令と侍女長に全権を丸投げした。家令であるロディは資金管理や交渉事には長けていたが、意匠に関しては全くの素人だったため、女性の感性を信じて侍女長に一任した。

 侍女長は、一人より沢山で考えた方が良案も生まれようと、片っ端から若い使用人に声を掛けたが、これがそもそもの間違いだった。

 ああでもない、こうでもない、と全く方針が決まらないのである。特に行儀見習いで入った娘が我が強く、自分の意見を押し通そうとするので手を焼いているのだという。

 ついに、ユミナから、

「カートライト様が全てビシッと決めて下さい! もうやってられません!」

 と叱責され……いや頼まれて、さてどうしたものかと思案している最中に、彼にとっては都合良く私が現れたというわけである。


「奥様に選んで頂ければ、その鶴の一声で決定です。……旦那様も初めから奥様にお願いすれば良かったのに」


 私が野生児であることを知っているクラウスは、私に一任したら壁が蛇のウロコ模様に、椅子が切り出してきた丸太にでもなりかねない、と危惧したのだろう。失礼な話である。


「そのお部屋の改装、私がやってもいいの?」

「もちろんです」


 改装する部屋は何だろう? ただの客間だろうか。書斎や談話室など、目的のある部屋だろうか。それとも……。

 今はいないけど、子供部屋?

(いやいやいや。ないないない!)

 頭の中に浮かんだとんでもない想像を、私は慌てて打ち消した。隣で赤くなったり青くなったり不審極まりない私に、執事が怪訝な表情を向けてくる。


「奥様?」

「ないないない!」

「は?」

「何でもないの」


 私がにっこり微笑んで、お部屋の改装の件、任せてもらえるかしらと進み出ると、やや殺気立っていた現場が嘘のように落ち着いた。

 我儘だという行儀見習いの女の子だけ、面白くなさそうに口をへの字にひん曲げていたが、侍女長などは心底ほっとしたように何度も頷いている。

 本館に戻る途中、ロディにも礼を言われた。


「ありがとうございます。奥様。おかげでようやく騒ぎが収まりました」

「いえ。私、何もやっていないような……」

「そんな事はありませんよ。声掛けと気配りこそ、女主人の最も大切な役割です」

「私が話しかけて、みんなの仕事の邪魔になったりしない……?」

「喜び過ぎて、手が止まる人間はいるかもしれませんね。目に余るようでしたら私にお教え下さい。灸を据えに行きますので」


 遠慮は無用ですよ、と、彼は笑った。


「この屋敷には随分と長く女主人がおりませんでした。私たちは皆、アラナ様が来て下さったことが本当に嬉しいのです。気兼ねなくお過ごし下さい。それが、クラウス様の望みでもあるのですから」




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