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「最近家に居ないことが多いけど、どこ行っているの?」


 この一言を、上手く切り出す自信が無い。機会も無い。どう取り繕っても、言われた方は、まるで問い詰められているように感じてしまうだろう。

 お前には関係ない、と手厳しく拒絶され、危うい均衡で成り立っている今の関係を崩すのが怖かった。

 ふりから始まった結婚生活が、緩やかに本物に変化してゆくことを、いつの間にか私は期待していた。口では「らぶらぶな妻の役を演じる」なんて嘯いておきながら、ただ演じるだけでは物足りなくなってしまった自分がいる。


 こういう時、何て言えば良いのだろう。

 ちゃんとした奥さんにして下さい、で意味が通じるのだろうか。


 相談できる人がいなかった。内容が内容だけに、袖すれ違っただけの他人に迂闊に口を滑らせるわけにもいかない。そもそも長年本性を隠し続けてきた私に、秘密を共有できる親しい友人などいるはずもなかった。

 猫を被るということは、他人に対して壁を作るということと同義語なのだと、今更ながらに思い知らされる。

 寂しい、という感情を、生まれて初めて知った気がした。


(愛人、かぁ)


 上流階級では珍しくもない話のようだ。政略結婚が圧倒的に多く、自分の意思を差し挟む余地など無いからだろう。

 時には一人の女性を複数の男で囲う事もあるという。考えただけで怖気が走るが、その例が信じられないくらい身近にあった。

 クラウスのお母さま、ルシア様。黒髪の美しいピアニストだった彼女は、クラウスの父君ローエン辺境伯と、もう一人、かなり高位貴族の男性を支援者に持ち……要は二人の男の愛人だった。

 これらの話を、私はクラウスから聞いたわけではない。懇切丁寧に教えてくれたのはシュゼットだった。


「妻なのにそんな事も教えてもらっていないなんて、おかしいわ」


 と、彼女は言った。当然、夫であるクラウスがそれを初めに説明すべきだと。


 そういうものだろうか。

 クラウスの母君がどんな女性であろうと気にならない私は、普通ではないのか。


 そもそも彼女はクラウスを産んですぐに亡くなっている。私にしてみれば、愛人云々の故人にとっては掘り返されたくない過去よりも、好きだったピアノ曲でも教えてくれた方が遥かにありがたい。

 その曲を一生懸命練習して、弾いて聴かせてあげれば、クラウスも喜んでくれるんじゃないかな……。


(クラウスと仲直りしたいなぁ。いや別に喧嘩しているわけじゃないから、仲直りってのは変かも知れないけど)


 他人と一緒に眠ることに慣れていなかった私は、初めの頃、緊張のあまりよく眠れなかった。それが、時間を経るに従って、傍らに人の体温があることが当たり前になっていた。

 今では、一人で過ごすベッドの方を寂しく感じる。

 布団の中で、取り留めのない会話をするのが私は好きだった。私のオチも無ければ山もない退屈な話を、クラウスはなんだかんだ言っても辛抱強く聞いてくれる。


 あれこれと考えているうちに、自然と瞼が重くなってきた。

 今夜もクラウスはいない。他の誰と一緒にいるのだろうか。

 膨れ上がってきた黒い思いを、私は努めて頭から追い出した。これ以上モヤモヤするのは嫌だ。






 深夜、ふと、物音で目を覚ました。


 絨毯を踏みしめる音。上着を椅子の背に掛ける音。衣擦れの音。

 ぎし、とベッドがたわみ、近くに人の気配が滑り込んできた。クラウスが戻って来たんだ。元恋人の家に泊まりではなかったのか。

 寝返りを打つと、暗闇の中に背中が見えた。何だか妙に嬉しくなって、その背中に抱きついた。

 びく、と相手の体が強張るのがわかった。一万を指揮する軍団長様ともあろう方が、私みたいなか弱い女の子に後ろから飛びつかれたくらいで吃驚するなんて、ひどく意外な気がした。

「おかえりなさい」

「……お前、まだ寝てなかったのか」

「今起きたの」

 いつもみたいに話をしようよ、と言おうとして、やめた。

 クラウスの顔を見てほっとしたせいだろうか。急速に眠気が差してきた。……瞼が重い。

 ひょっとして、私は、今の今までちゃんと寝ていなかったのかもしれない。意識と無意識の境界線上をふわふわと漂っていただけで。

「アラナ」

「ん?」

「……離れろ。襲われたいのか」

「そんな気全然ないくせに」

「……」

「どうせ色っぽくないもん」

「やはり真正の馬鹿だったか……」

「どうせ馬鹿だよ」

 ぐ、と突然肩に重みが加わった。闇が濃くて何が起きたかわからないうちに、上体が倒れ、頭が枕に沈んだ。

 見上げた先にあるものは、視界を覆う、私より一回り以上も大きな影。飲み込まれてしまいそうな存在感に、圧倒された。

 気が付けば、魚拓を取る魚みたいに寝台の上に磔にされていた。……全く身動きが取れない。


「お、重いよ」

「当り前だ。重くしている」

「安眠妨害……」

「むかつくからとことん妨害してやることに決めた」

「ひどい」

「ひどいのはお前だ」


 唇に何かが降りてきた。結婚式の時と同じ感触なのに、あの時とは全く違って、ぞくぞくした何かが背筋を這い上がる。

 それが気持ちよく感じられて、そう感じた自分に急に怖くなった。

 もういい、と訴えようとして口を開いた時、わずかな隙間を縫って、温かく湿ったものが侵入してきた。

 全く自分の意のままにならない、それどころか勝手に動き回る異物を口内に迎えたのは初めてだった。舌まで強引に絡め取られて息が出来ない。

「……ふ」

 眠い上に酸欠。これで起きていられるはずがない。

 頭の奥に霞がかかる。糸の切れた繰り人形のように、唐突に体から力が抜けた。


「この状況でいきなり寝るか、普通……」


 そんなこと言われても、眠いものは眠い。

 睡眠は生物の原始的欲求だと思うのだ。抗っても良いことはない。


「そんなに眠いなら初めから寝てろ」


 怒られた。舌打ち付きで。

 最近……いや最近でもなく昔からだけど……怒られてばかりだ。

 童話の中の王子様みたいに、たまには優しい言葉の一つもかけてくれればいいのに。減るものでもなし。

 いや、もしかして私に掛けたら減る、もったいない、とでも思われているのだろうか。ひどい誤解だ。


 十七歳のうら若き乙女としては、好きだ、とか、愛してる、とか、綿菓子みたいに甘い台詞もちょっとは期待してしまうわけで。


 なのにクラウスときたら、口を開けば、

「馬鹿娘」

 あんまりだ。


 クラウスがちゃんと帰ってきたから、嬉しくて、ほっとして、気が抜けちゃったんだよ。


 言い訳を明確に声にする前に、完全に夢の中に落ちた。今度は朝まで一度も目が覚めなかった。




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