12
宿舎の部屋の中にユーノはいなかった。同室の子らに聞くと、算術の本を持って外に行ったという。
行先は容易にわかる。建物の裏に回ると、果たして、ユーノとエイダがそこにいた。地面の上に開いた本の周りに、木の棒で書きつけた数字が隙間なく並んでいる。
安価な紙やインクは幾らでもあるのに、それすらも勿体ないからと、孤児院の子供たちはこうして地面を帳面代わりに勉強する。最後の最後に、出来上がった解法と答えのみ紙に書き写し、神父様に提出するのだ。
「後もうちょっと……」
一点で止まっていたユーノの木の棒が、再び動き始めた。
「答えは五!」
「違うよ。十二」
エイダは算数が得意だ。ユーノは膨れっ面を作って地面に寝転がった。
「ちょっと休憩……」
「さっきからそればっか」
「だってアラナも来たし」
ユーノが起き上がり、私の元に駆け寄ってきた。手を掴んでぐいぐいと引っ張る力が、思いのほか強い。こういう時、やっぱり男の子だな、と思う。
「アラナ。これから買い物付き合って」
「宿題は?」
「帰ったらやるよ」
「今やった方がいいよ」
「ちぇ。アラナまでエイダみたいなこと言うなよな」
大事な用事なんだ、と、ユーノは声を潜めた。
「神父様の誕生日の贈り物、買いに行くんだ。大事な用事だろ?」
ここの子供たちに、自由に使える小遣いなど無いはず。どうやって資金を溜めたのかと首を捻っていると、出所は付近の店々と判明した。
神父様に日頃世話になっている礼をしたいと相談したところ、駄賃をやるから手伝いをしないかという話になったらしい。
塵も積もればとはよく言ったもので、十人を超える子供たちが半年かけてコツコツと溜めたお金は、銀貨数枚分にも達した。ちょっとした服飾品ならつり銭が来るほどの金額だ。
「何を買うの?」
「鎖」
「鎖? 神父様が鎖なんて何に使うの」
「ちげーよ。ペンダントの鎖だよ。神父様、一年くらい前からかなぁ、急にペンダントしなくなっちゃったから。きっと鎖が切れたんだよ」
「ペンダント?」
そういえば、ルース神父がロザリオを提げているのを見たことがない。他の教会の神父様は必ず肌身離さず身に付けているのに。
ロザリオは修道士会から支給されている身分証のような物だ。通常は体から外さない。失くしたら始末書どころの騒ぎでは済まないだろう。
「ペンダントの鎖かぁ。それなら神父様も受け取ってくれるかな?」
ユーノのことだから、駄目だと言っても一人で飛び出して行ってしまうに違いない。どうせ止められないなら、同行して、さっさと目当ての物を手に入れて昼の明るいうちに帰った方が良さそうだ。
「いいわよ。一緒に行きましょうか」
そうこなくっちゃ! と弾む足取りのユーノの後を、私は慌てて追いかけた。
太陽はまだ高い位置にある。
(あれ?)
ふと、神父様の誕生日をなぜユーノが知っているのか、と疑問が湧いた。
以前、私も神父様について尋ねたことがある。が、昔のことはよく覚えていないと、ひどく曖昧な答えを返されただけだった。
「ねぇ、ユーノ。神父様って……お幾つなのかな?」
「今度の誕生日で三十八……だったかな」
「え。あ……そうなの」
「? どうかした? アラナ」
「な、何でもないわ」
神父様、お若く見えるわよね、と私は適当なことを言って笑った。
ユーノにくっついてきたエイダが、さすがに女の子らしくこの手の話には敏感で、
「もてるんだよぉ。神父様。一週間に一度くらいかな、ものすごく綺麗な女の人が神父様に会いに来てるの」
「ばーか。懺悔に来てるだけだよ。女って、すぐそういう風に考えるのな」
「表向きは懺悔だけど、あの女の人は絶対に神父様のこと好きだと思う!」
「神父は彼女作っちゃ駄目なんだから、好きも嫌いもないだろ!」
またユーノとエイダが喧嘩を始めた。
仲が良いのか悪いのか。
ふん! と私を挟んでお互いにそっぽを向き合った二人に、ふと、何だか妙な既視感を覚えた。
私とクラウス。
傍から見たらこんな感じなのかもしれない。
私が駄々をこねる。クラウスが諌める。でも大抵は受け入れてくれる。
私が無謀な行動を取る。クラウスが叱る。でも最後まで必ず見守ってくれる。
私が泣き喚く。クラウスは何も言わない。私の癇癪がおさまった後、ただ一言。
気は済んだか?
同じじゃないな。私だけが子供のままだ……。
「そんなモタモタしていたら、取られちゃうんだから!」
急に耳に飛び込んできた声に、はっとして顔を上げた。店頭に並んだ様々な商品に目移りしていたユーノが、迷っているうちに、横からこれはという逸品を攫われてしまったらしい。
三か月だけお姉さんのエイダが、大人ぶった調子でユーノを叱り飛ばしているのを、私は神妙な面持ちで聞いていた。話題に上っているのは全く別のことなのに、まるで自分について言われているような、不思議な気分だった。
「もー。運命の出会いだったのに! ああいうのはね、一度逃しちゃったら二度と手に入らないんだからねっ」
見た目よりは強度を重視して、ペンダント用の鎖を一本買った。子供たちの手元にはまだ十分な現金があり、もう一つ何か買おうかと彼らは相談していたが、必要ないと私が止めた。
「これだけで十分よ」
あの方は高価な物は望まない。このペンダントの鎖だって、実物よりも、子供たちが自分のために選んでくれたというその事実の方を尊ぶだろう。
極端な話、道端で摘んできた一輪の花でも良いのだ。神父様はそういう方だ。
「喜んでくれるかな?」
「とってもね」
一時間程度で済ますつもりだった買い物が、予想外に長引いた。この時期は日が長いのでまだ暗くはないが、夕食の時刻は確実に迫っている。
子供たちの背を押して、急かしながら私は歩いた。近道の路地を抜ける際、視界の端を過ぎった闇色に、思わず足を止め振り返った。
(クラウス?)
人影はちょうどこちらに背を向けているので、顔は見えない。ただ、後姿と言えどもすらりとした長身には見覚えがあった。
彼の傍らには見事な金髪を薄い紫色の紗で覆った女性が佇んでいる。女性の目元が遠目からでも潤んでいるのがわかって、どきりとした。
彼女が上向き、クラウスが上体を屈め、二つの人影がいっそう近くに溶け合った。こんな街中の雑踏の中なのに……そこだけゆっくりと時間が流れているような、奇妙な感覚。
「アラナー。早く帰ろうよ」
いつの間にか随分先を歩いていた子供たちに声を掛けられ、現実に引き戻された。
孤児院は目と鼻の先だけど、先に行って、とは言えない。私には、この子たちを院の敷地内まで無事に送り届ける義務がある。
彼らの手を掴むと、私は猛然と駆け出した。
「わ。速っ。アラナ速いよ!」
ユーノが悲鳴を上げたが、それを悪いと思う余裕もない。門の付近に迎えに出ていた神父様に子供たちを託すと、私は急いで元の場所に戻った。
クラウスと金髪の女性は、既にいなくなっていた。
(クラウス様とイザベラ様、外で会っているみたいなのよ……)
シュゼットの声が頭の中に不吉に響く。
ああ、そうか。そういうことか。
ランカスターの在るこの一帯は下町も近く、様々な施設が混在する。劇場も。酒場も。遊び場には事欠かない。大人な彼らには相応しい……もっと親密に過ごせる色宿だって、歩いて行ける範囲にあるわけで。
(ああ、うん。そうだよね。だって、私、本物の奥さんじゃないし)
本物の妻なら、夫の胸ぐらを掴んで揺さぶって、「ちょっとどういう事!?」と問い詰めてもきっと許されるのだろう。でも、自ら偽りの妻と言い放った私には、その資格すらない。
(や。うん。クラウスかっこいいし。もてるし。こんな色気の欠片もない奥さんじゃ食べる気起きないのも当然だし。その分の食欲を外で満たそうとするのは、仕方ないというか、本能というか)
思わず、自分のお世辞にも豊かとはいえない前身ごろを、確かめるようにぽんぽんと叩いてしまった。
握り拳を作り、ぎゅうと鎖骨の下を押さえたのは、その辺りに、鉛でも閊えているような重苦しい何かを感じたからだった。
(もう少し、私がイザベラ様みたいに美人で大人っぽかったら……)
美貌の公爵令嬢の艶姿が、ぐるぐると脳裏を巡る。滝のように流れる豪奢な鬱金の髪。湖水の瞳。
彼女を初めて見かけたのは、一年以上前、私が社交界にデビューしたその夜会の席だった。しぶしぶと私のダンスの相手を務めたクラウスが、仕切り直しと言わんばかりに次に手を取ったのが、悪女の二つ名すら称賛になり得る美しい彼女だった。
淡い紫色のドレスの裳裾が、目の前で軽やかに翻る様を、焦りにも似た羨望の眼差しで、じっと見つめていたことを覚えている。私が逆立ちしたって着こなせない……高貴な女性の纏う色。
(紫……)
唐突に、先程の、紗を被った女性の像と、記憶の中の公爵令嬢の姿が重なった。
(イザベラ様だ)
こういう時、きっと、賢い女は、取り乱したりはしないのだろう。
私は何も見ていません、と悠然と微笑んで、平静を保ち、いつものように旦那様を迎えて……。
(泣くなっ。元はと言えば、全部自分が悪いんだからっ)
屋敷に戻ると、鏡の前で、何度も何度も笑顔の練習をした。クラウス相手に猫を被るなんて上手く出来るのかと不安だったが、喜ぶべきか悲しむべきか、それすらも杞憂に終わった。
クラウスが、屋敷に戻ってこなかったのだ。
その日を境に、彼は、度々、行先を告げず外泊するようになった。




