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ランカスター教会の歴史は古い。
元々は、三代国王ハイレオンが、当時国中に蔓延していた流行病の平癒祈願のために着工したのが始まりである。が、病はさほど猛威を振るわず意外に早く終息し、教会は未完成のまま一旦工事が打ち切られた。
そして、一代飛んで五代国王エドガー二世の御世、再開した。
今度は特筆すべき大義名分があったわけではなく、単なる公共事業の意味合いが強かった。建設途中で教会を放置するなど神への冒涜だ、という都民の怒りを無視できなかったのも、理由の一つとされている。
結果、王の声掛かりで建設されたにしては随分と質素な、けれど歴史だけはある奇妙な教会が、市街の片隅に誕生した。
教会の貧民救済制度が確立すると、古めかしいが十分に広さのあるランカスターには、五十人もの孤児が預けられることになった。
その中には、自力でろくすっぽ歩けないような幼子も含まれている。当然世話を焼く大人は複数いなければならないのだが、各地に聖職者を派遣している修道士会も、人手不足に喘いでいるような現状だ。
ランカスターに遣わされた神父様は、ルース様のみだった。
教会の維持と孤児院の経営、その両方をたった一人でこなせというのだから、世知辛い話である。朝から晩まで身を粉にして働いても、恐らくルース様にはほとんど休む暇などないだろう。
それでもいつも穏やかな笑みを絶やさない神父様に敬意を表する者は多く、私もその中の一人だった。
「周りの者がそうと思っているほど、私は無理はしておりませんよ」
庭の掃き掃除をしながら、神父様は微かに苦笑を滲ませる。たぶん、私以外にも、たくさんの信者たちから同じような心配をされているのだろう。
「こういう場所で生活している子供たちは、自然と自ら動くことを覚えます。私が至らない部分は、彼らが何も言わなくとも力を貸してくれます」
こっちは終わったよ、と、遠くで子供たちの声がした。
真っ黒になった雑巾を誇らしげに高く掲げて、ユーノとエイダが駆けてくる。彼らはこの孤児院では年長で、十二歳になる。二人とも大店への奉公が決まっていた。まもなく孤児院を卒業だ。
「神父様、聖堂の高い所の窓に蜘蛛の巣が張っているんだけど、届かないんだ。梯子借りてもいい?」
「どこですか?」
子供たちに案内されて聖堂に入ると、なるほど確かに隅の方の窓辺に大きな蜘蛛の巣が張っている。聖堂はほぼ毎朝まめに掃除をしているはずなので、蜘蛛は昨夜のうちに建物内に入り込み、一晩でこの見事な糸を紡いだのだろう。
網の目の中央に鎮座するヌシは堂々と大きく、背の模様がはっきりとわかるほど立派だった。あまりに立派すぎて、野性児の私でも手を出すのが躊躇われるほどだ。
「や、やっぱでかいな」
ユーノが呻いた。
「大きな蜘蛛ですねぇ。害虫をたくさん食べてくれそうです」
ルース神父が箒を掲げた。追い払うのかと思ったら、穂先でそっと掬い上げた。驚いた蜘蛛がものすごい速さで箒を駆け下りてくる。それには全く頓着せず、神父様はのんびりと出入り口に向かって歩き始めた。
庭の手ごろな樹木のそばに来た時には、蜘蛛は箒から持ち主の手の甲に這い上がっていた。
「神父様、蜘蛛! 蜘蛛っ!」
私とエイダが遠巻きに悲鳴を上げる。
「大丈夫ですよ。これは毒のない種類です。刺激しなければ咬まれることもありません」
神父様は蜘蛛を乗せた手を枝に添わせた。まるで意図が伝わったかのように、蜘蛛はすぐに木の枝へと移って行った。
「神父さま、かっこいー」
ユーノがほぅと息を吐く。エイダがその横腹にすかさず肘を打ち込んだ。
「あんたも見習いなさいよ。びびって逃げてないで」
「うっせーな。お前こそ人の背後に隠れてんじゃねーよ」
「小さいから隠れた気がしなかったわー。頭はみ出ちゃうんだもん」
「……いっぺん殺す」
「あら教会で問題発言。神父さまー。ユーノがねぇ……」
「わ。わ。エイダてめぇ!」
やいやいとじゃれ合いながら、二人は子犬のように駆けて行った。遠ざかる後姿に、
「宿題は忘れずにやるのですよー」
神父様が声を掛ける。
「神父さま……そんな優しく言ってもやらないと思います。特にユーノ」
思わず私が突っ込むと、
「さぼったところで宿題の量は減りません。明日、今日の分も加わって、遊ぶ時間が無くなるだけです」
笑顔と共に、結構容赦のない台詞が返ってきた。
神父さま、意外に黒いな……。優しいけど厳しい。
「ユーノが明日泣かないで済むよう、ちょっと見に行ってきますね」
「ついでに喝も入れてあげて下さい。アラナさんの『勉強しろ!』の一言は、私の小言よりも子供たちに効果があります」
「あ、あら。喝なんて。そんなレディらしくない事は……」
「ああ、そうでした。レディでしたね。ではレディらしく上品に一喝してやって下さい」
完全に私の正体ばれているな……。
いや、いいんだけどね。
神父様の前では、結構頑張ってネコ被ってきたつもりなんだけど。
兄よりずっと接している機会も時間も少ないのに、どうして見抜かれてしまったのだろう。さすがは神のご意志の代理人、誤魔化しは利かないということか。
もしかしたら、この神父様、クラウス以上に食えない御人かもしれない。
「私は本来ののびのびした貴女の方が好ましく思いますよ。それはご主人も恐らく同じでしょう」
箒を動かす手を止めず、神父様が言った。
初夏のこの季節、街のあちこちで花開いていたラーク(イグナーツに生える代表的な樹木)が一斉に散り、地面を鮮やかな紫色の花弁で覆う。そのまま放置しておくと朽ちた花が敷石を染めてしまうので、必ず神父様は日に数回掃き掃除をしていた。
「あの、クラウスに会ったこと……ありましたっけ?」
「いいえ。お目にかかったことはありません」
「でも、じゃあ、どうして」
「ご結婚されてからの方が、貴女は生き生きしていますので。大切にされているのは、見ていればわかります」
なんて答えて良いかわからず、私は大急ぎでその場を立ち去った。
神父様に背を向けて歩きながら、この場に子供たちが居ないことに心から感謝した。
(熱い……)
今の私は、大層からかい甲斐のある、熟れた林檎のような顔色をしているに違いない。
(だって、家のみんな優しいんだもの。クラウスだって……)
違う。
クラウスが、家の中で、たぶん一番優しい。
家の主のクラウスが優しいから、みんな、その奥方の私にも、優しくしてくれるんだ……。




