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 ファルマーク邸の扉の全ての鍵の在り処を、クラウスが教えてくれた。

 鍵は鉄の輪に繋がれ、クラウスの部屋の机の引き出しに納められていた。その引き出しも普段は鍵がかけられ、元鍵をクラウスが持ち、一本だけある合鍵を私に渡してくれた。

 愛読書はわくわくするような冒険譚のこの私、鍵束なんて見たら試さずにはいられない。

 早速それを持って館中を回ってみた。

 壊れていたり錆び付いていたりする鍵もなく、部屋の扉はほとんどが抵抗もなく開いた。

 使用している痕跡のない室内も掃除は行き届いており、クラウスがしっかりしているのか、この館の家令がしっかりしているのか、密かに感心したものである。


 ただ、一つだけ、どの鍵も合わない扉があった。


 三階の北側の部屋だった。隣は階段下の物置になっているので、重要度は低そうだ。

 錠はしっかり掛かっているのに鍵が無いので、当然開かない。たまたま通りがかった使用人に訪ねてみると、もう何年も前から放置されているとのことだった。


(んー。気になる。後でクラウスに聞いてみよう)


 昔読んだ本に、嫁ぐ際に「この部屋の扉を開けてはいけない」と言われていたにも関わらず、好奇心に負けて開けてしまった駄目な嫁の逸話があった。

 彼女がそこで見たものは……。


(あれ。何だっけ)


 古い話なので忘れてしまった。後でちょっと調べてみよう。

 クラウスが帰宅した後、開かずの扉について聞いてみると、単純に鍵を失くしただけだった。これと言って用途もないので、そのままにしているのだという。


「ねー。クラウス。開けてはいけない扉を開けてしまった花嫁の話、知ってる? 中で見たの何だっけ?」

「死体だろ」


 事も無げに凄い答えを返された。

 花嫁の旦那は実は悪魔で、夜な夜な近隣の町の若い女の死肉を貪っていたという内容だった。

 そんなエグイ物語だったか……。


「クラウス、私を騙して食べたりしないよね」

「お前のすっとぼけた言動は今に始まったことではないが、未だに時々ひやりとさせられる自分が腹立たしい……」

「何のこと?」

「何でもない」


 夜の一時。寝台に入る前と、そして入った後と、何とはなしに喋っている。

 大概はどうでも良い事だ。今日はこんな事があったよ。こんな物を見たよ。

 あのね。それでね。そうしたらね……。


 そして喋り続ける私に痺れを切らして、うるさい早く寝ろ、とクラウスが背を向ける。

 枕の壁はもう無くて、手を伸ばせば届きそうなほど、その後ろ姿が近くに見える。


 本当に、いつか、そのうち、別れちゃうのかなぁ。

 ずっとこのままでもいいのに。


 それを言ったらクラウスが困りそうだから、喉まで出かかった声を私は押し止める。

 大輪の薔薇の花のように艶やかな公爵令嬢の姿が一瞬脳裏に浮かび、すぐ消えた。


 ねぇクラウス。

 彼女のことまだ好きなの?


 それなら。

 どうして。

 今、私と一緒にいるの……?






 翌日、シュゼットがイザベラ様のことで新しい情報を仕入れたと訪ねて来た。

 気にはなったけど、生憎と今日は孤児院に通う日だ。他の約束は違えても、楽しみに待っていてくれる子供たちの期待は裏切れない。

 用事があるからと断ると、じゃあ明日来るわと彼女は言った。気を使ってくれるのはありがたいが、イザベラ様の噂を聞いても落ち込むばかりで打ち負かす手段もない私にとって、もはや余計なお世話である。

 何とか話題を変えようと、私は一生懸命に知恵を絞った。


「そう言えばね。うちに開かずの扉があるのよ」


 シュゼットは、それがどうしたという顔をした。

 無理もない。言った当人の私ですらどうでもいいと思っている。


「鍵が無くて入れないの。もう何年も。何だか物語みたいよね」


 シュゼットは返答に窮したようだ。

 どうしてもその話題に触れたくない場合、あえて素っ頓狂な台詞を放つのも一つの手だと、このとき私は一つ賢くなった。

 

「クラウスに聞いたら、旦那様の正体が悪魔って童話があるんですって」


 丁度よく、外で待たしてある御者が呼びに来た。

 そろそろ行かなくちゃ、と私は得意の営業用の微笑を浮かべ、シュゼットから逃げ出した。


「明日も来るわね」


 シュゼットは帰った。晴れやかな笑みと穏やかならぬ約束を残して。

 孤児院へと向かう馬車の中、私はしばし考えた。

 来られるより、こちらから出向いた方が良いのではないか。訪ねて来た客人を無下に追い払うわけにはいかないが、自分が客になれば好きな時に帰れる。

 美味しくお菓子を頂いて、当たり障りない会話だけ楽しんで、雲行きが怪しくなってきたら脱出すれば良い。

 それで私の心の平穏は保たれる。


(なんで私がクラウスのことでこんなにヤキモキしなきゃいけないのよっ)


 漠然とその理由には心当たりがあったが、気付かないふりを決め込んだ。






 シュゼットはマノーリ子爵家の令嬢だ。

 このマノーリ家、階級こそ高級官僚の意味合いの強い子爵だが、とにかく歴史が古い。遡ればその系譜の長さはヴェルトナーと肩を並べる。

 イグナーツにおける子爵は、公領や所領の政務を代行する者たちの総称である。そしてマノーリが代理支配しているのは公領だ。

 つまり王室直轄地の管理を任されているわけである。これは強い。


 シュゼットは、そのマノーリ家の長女。十五歳のとき、私は彼女と知り合った。


 記念すべき社交界のデビュー戦。同じ夜会に、同じく初お披露目の彼女がいた。

 私は両側を兄とクラウスに挟まれ、声を掛けてくる貴公子はみな揃いも揃って物々しい軍人二人に怯えていた。一方で、シュゼットは、数多の蝶を引き寄せる香り高い花のように広間の中央で光り輝いていた。

 よし、私も負けずに得意のダンスなど披露してみようと気合を入れるも、なぜか年の近いご子息たちは青くなって逃げてゆく。

 結局、仕方なくクラウスを誘った。彼のダンスパートナーを務めるには、当時の私は少し身長が足りなかったが、そこは根性と技術で補うことにした。

 ちなみに、このとき兄ではなくクラウスに白羽の矢を立てたのは、事前に「俺は選ぶな。お子様の相手はごめんだ」と、憎ったらしい言葉を頂戴していたからである。

 そんなこと言われたら、指名しないわけにはいかないじゃないか。ふっ。


 その日の夜会でデビューを飾ったのは私とシュゼットのみだったので、以後、自然と親しくなった。


 シュゼットはおっとりとした子で、流行の本とか、役者の顔の好みとか、ちょっとした恋愛話とか、他愛ないお喋りを楽しむ仲だったのだけど……。


「クラウス様とイザベラ様、どうやら外で会っているみたいなのよ……」


 最近、こんな話題ばかりだ。

 友人付き合いは貴婦人の嗜みとはいえ。

 はー……。気が重い。






 翌日、シュゼットの屋敷を訪ねると、彼女は三十分くらい所用で手を離せないとのことだった。

 そのまま執事に彼女の部屋に通された。

 椅子に所在なげに座っているのも何なので、ぷらぷらと室内を見て回った。

 棚にたくさんの人形が並んでいる。どれも凄まじく手の込んだ衣装を身に付けていた。ほとんどは使用人や仕立て屋に作らせたものに違いないが、たぶん何枚かは自作だろう。

 彼女はレース編みや刺繍の達人だ。綺麗な物、可愛い物、美味しい物が大好きで、実に女の子らしい。

 普段身に付けているドレスや小物も、全て自分で選んでいるとのことだった。面倒なのでユミナに丸投げしている私とはえらい違いである。

 窓辺に寄ると、花瓶に飾られた造花から仄かに甘い匂いを感じた。生花ではないのに何故香るのかと上から覗き込んでみると、小さな匂い袋が外から見えないように仕込んであった。

 こういうのを心憎い演出というのだろう。さすがシュゼット。


 傍らに一冊の本が置かれてある。吸い寄せられるように手に取った。


 『開かない扉』という題名が妙に気になった。頁を早送りしながら読み進める。

 要するに旦那が妻に隠れて浮気をする話だった。開かない扉の向こう側には、愛人との思い出の品が後生大事に保管されているという……。


 私はぱたんと本を閉じた。

 ……嫌なものを見てしまった。忘れよう。


 待つこと更に十五分。


 シュゼットは未だ現れない。あまりに暇で、つい、先程読むのをやめた本に再び手を伸ばしてしまった。

 読書の方法としてはやや反則だけど、最後の章だけ先に目を通した。

 旦那様に裏切られた正妻はどうなるのだろう。私は悲しい話や辛い結末は好きではないので、最後はお互いに信頼と愛情を取り戻して幸せになって欲しいけど……。

「……」

 旦那と愛人は、出会った瞬間に強烈に惹かれ合う運命の恋人同士で、正妻は親が勝手に決めた政略結婚の相手だった。愛されない形だけの妻はどう足掻いても叶わない恋に絶望して、身を引いた。

 はっきりとした記述は無いものの、そこはかとなく自害を匂わせる……、実に後味の悪い終わり方だった。


 今度こそ後悔した。

 読まなきゃ良かった。


 人の本を勝手に盗み見るからこういう目に遭うんだ。シュゼットが来たらなるべく楽しい話をして、気が滅入るような記憶の数々は早々に脳の隅に押しやろう。

 こんな話題はどうかな?


 実家のヴェルトナーの庭師が可愛がっている猫が子猫を生んだの。四匹も。今度、一緒に見に行かない……?


 しばらく待って、シュゼットではなく執事が現れた。

 お嬢さまは急用でお会い出来なくなりました、との予想もしなかった彼の言葉に、しばし開いた口が塞がらなかった。

 腰を九十度に曲げて謝り続ける彼を責めるわけにもいかず、


「出来れば、こんなに待つことになる前に教えて欲しかったです……」


 と、それだけを返した。

 怒って文句を言ってもいいような気がしたけど、クラウスのためにも、兄のためにも、他の貴族との揉め事は極力避けた方が良い。


 割り切れないものを胸に抱きつつ、私は帰途についた。


 聞きたくなかったクラウスとイザベラ様の噂話は耳に入れないで済んだけど……気持ちは一向に晴れなかった。




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