第93話 気高さとは何か?
「え?」
突然の呼びかけを受け、狼狽えたようにあたりを見渡すエレンシア嬢。しかし、声の主はもちろん、わたしたちがいる部屋の中ではなく、グラキエルの屋敷の応接間にいます。部屋の四隅におかれた観葉植物。そのうちのひとつに向けて、ベアトリーチェは当然のように話しかけてきたのです。
「エレン? このスキルって、相手にもバレるものなの?」
「……そんなはずはありませんわ。向こうから見れば、『こちら』はただの植物でしかないはずです」
エレンシア嬢は驚愕に声を震わせています。すると、ベアトリーチェからさらに呼びかけがありました。
『くふふ……。驚いているようじゃな? そちらの反応は手に取るようにわかるぞ。どんな手段かは知らぬが、その「植木の中」からお前たちがこちらを見ていることはな』
彼女は、なぜか嬉しそうに笑っています。無邪気に微笑むその姿は、つい先ほどまで、残虐な拷問を行っていた人物のものとは到底思えませんでした。
『人数も当ててみようか? ずばり、五人じゃな。可哀想に、どうやらそのうちの一人は気絶してしまったようじゃが……くふふ、すまなかったな。もっと早く気づいていれば、グラキエルの時も「見た目の刺激が少ない拷問」を選んでやれたのじゃが……』
血にまみれた無残な二つの死体が転がる部屋で、植物に向かって語りかける白銀の髪の聖女。今なお彼女には、一滴の血すら付着していません。少なくともその姿だけを見れば、依然として『清く穢れのない聖女様』のようでした。
〈何言ってるんだろうね。僕らは全部で六人なのに。人数までわかるって言うのは、やっぱりハッタリかな?〉
マスターが『早口は三億の得』でわたしにそう語り掛けてきましたが、しかし、わたしはそれに首を振ります。
〈いえ、マスター。気絶しているリズさんを認識できている以上、はったりではありません。わたしもこの状況では細かい解析まではできませんが、恐らく彼女は、『アカシャの使徒』としての魔力感知スキルでこちらを知覚しているのでしょう。そう考えれば、彼女が五人と言った理由……つまり、マスターのことだけを把握できていない理由もわかります〉
わたしがそう言うと、マスターは納得したように頷きました。
〈ああ、そうか。僕のスキル『わがままな女神の夢』のせいだね〉
○通常スキル(個人の適性の高さに依存)
『わがままな女神の夢』※ランクA(EX)
環境耐性スキル兼活動能力スキル(感覚強化型)の派生形。常に発動。世界全体の『集合的無意識』を掌握することで、以下の効果を得る。
1)自身に対する魔力感知の無効化。
2)自分が触れている『知性体』の精神的な未来予知(行動の先読み)。
3)器物に宿る記憶の想起。
このスキルのせいでベアトリーチェがこちらを『五人』だと判断しているとすれば、逆に考えて、彼女は使徒としてのスキルや魔法でこちらを探知していると考えるべきでしょう。
いずれにせよ、こちらから返事が返せるわけでもない以上、彼女が語る言葉を黙って聞くよりほかはありませんでした。
『だが、五人とも女の子でよかったのう。お前たちの中に、万が一にも汚らわしい男なんぞがいた日には……くくく! そやつには、わらわを「覗き見」した罪をあらん限りの苦痛をもって償ってもらわなければなるまいよ』
ベアトリーチェはそう言うと、何がおかしいのか、くすくすと笑い始めました。
〈うわ……やばいよ、ヒイロ。彼女、目がイっちゃってる……。せっかく物凄い美人さんなのに、もったいないなあ〉
〈……マスター〉
この状況で実に呑気なことを言うマスターに、わたしは呆れて肩を落としてしまいました。
しかし、この直後、ベアトリーチェからとんでもない言葉が飛び出しました。
『ふむ。「王魔」の女の子が三人に、人間の女の子が二人? ……いや、そのうち二人は少し不思議な気配じゃな。面白い。こちらからでは、お前たちの声を聞くことができなくて残念じゃわい。しかし……その「魔力」はもう覚えた。いつか機会があったら、また会おうぞ』
〈……まさか! パウエルと同じ『世界を読み解く者』? いえ、会話もかわしていない相手の『魔力』を覚えてしまうだなんて、それ以上に高度なスキル?〉
まずいことになりました。もしパウエルに近いスキルを有しているとなれば、これで彼女は、わたしたちの居場所をいつでも把握できるということになります。『女神』の教会にこの情報を持ち帰られては、色々と面倒なことになりそうです。
『随分と動揺しているようじゃな? わらわのこの目とこの耳は、使い物にならなくなって久しいが、それでもわらわには、従前と同じようにこの世界を感じ、観測する力がある。……どころか、こうして己を知覚するすべての者の状態を感知できるのじゃ。従前以上に、というべきじゃろうな』
〈マスター、どうしますか? 彼女の所在はわかっているのです。今からでも先回りして、屋敷を出てくるところを確保しましょうか?〉
〈うーん、そうだね。確かに、彼女は危険な存在だ。目も耳も利かないのに、世界を感知できるだなんて、僕にとっては結構厄介な相手かもね〉
どうやらマスターは、わたしとは少し別の懸念を抱いているようです。とはいえ、このまま放置もできないでしょう。
『心配せずともお前たちのことは、わらわだけの秘密にしておいてやろう。……その方が、再会が楽しみじゃからな。その時はもちろん、無粋な輩に邪魔されず、男どもがはびこるこの醜い世界について、ゆっくりと語り合いたいものじゃな』
彼女はメイド用のエプロンドレスのスカートを両手で摘み上げ、優雅に一礼して見せました。
『それでは、名残は尽きないところじゃが、いつまでもここにいては面倒も起こりかねん。ここらで、おいとまさせていただこう。また会える日を楽しみに……ごきげんよう』
何から何まで完璧な聖女の気品をまとったまま、彼女は『こちら』に背を向け、部屋の出口に向けてゆっくりと歩き出しました。
絹糸のような白銀の三つ編みを二本を揺らして歩く後ろ姿は、思わず見とれてしまいそうなほど颯爽としています。
こうして、わたしたちは得体のしれない気高き聖女、ベアトリーチェとの最初の邂逅を終えたのでした。
……と、本来なら締めくくられるべき場面なのでしょう。しかし、ここで、この場の誰もが予想しえなかった、想像を絶する事態が起こったのです。
ズルリ、と音がしました。
ゴシャ、と音がしました。
わたしたちの視界の中では、たった今、部屋を出ていこうとしていたはずの『聖女ベアトリーチェ』が倒れています。彼女の身体は痙攣し、その身を襲った苦痛のほどが見てとれる有様でした。
「……えっと」
「……これは」
思わず声に出して言葉を交わす、わたしとマスター。
「コケた……みたいだね?」
「そうですね……。どうやらカーペットに染みこんだ血だまりが思った以上に広がっていたようです。恐らく、それに足を滑らせたのではないかと……」
そう……聖女様は、わたしたちの『目の前』で足を滑らせ、後ろにひっくりかえると、そのまま頭をカーペットの床にしたたかに打ちつけてしまったのです。多少は受け身もとったようですが、あれで痛くないはずがありません。
『……うう』
カーペットの上で横になったまま、自分の後頭部を押さえてうめく聖女様。わたしの見間違いでなければ、彼女はどうやら、思い切り涙目になっています。
「うわ、なんか可哀想……」
マスターが気の毒そうにそう言えば、
「……うう、だ、駄目ですわ。あんなに完璧に別れの挨拶まで決めておいて……ぷ! うふふ!」
エレンシア嬢が笑いをかみ殺し損ねています。
「あはははは! エレンシア! あらためて言葉にするな! お腹がよじれて死にそうだぞ! あはははは!」
アンジェリカに至っては大爆笑しています。
「みんな、楽しそう! みんなが楽しいと、メルティも楽しいな」
ただ一人、メルティだけが目の前の状況ではなく周囲の雰囲気に合わせて笑っているようでした。
「……みなさん。どうやら彼女に動きがあるようですよ?」
しばらく頭を押さえて横になっていた聖女様は、ようやくここで身体を起こしました。
『う、うう……ひっく! ぐす……』
「あ、泣いてる……大丈夫かな?」
まるで子供がべそをかくように泣き始めた聖女様に、マスターは心配そうにつぶやいています。
『……な、泣かない。泣いてなど、いない。わ、わらわは……気高き聖女ぞ……』
自分に言い聞かせるように独り言を口にした彼女は、その薄紫の瞳から零れ落ちかけた涙を右手で拭う仕草をしました。
ところが……
『うう……うえ? あ、あ……』
彼女が起き上がる際に手をついた床には、カーペットに染み込んだ血だまりができていたのです。それはつまり、涙をぬぐおうと目の下を拭いた彼女の手にも、べっとりと血が付着しており、それはそのまま、彼女の顔に血が付いてしまったことを意味していました。
『き、汚い! ハ、ハンカチ! ハンカチは!?』
彼女は慌ててスカートのポケットをまさぐり、中からハンカチを見つけて顔を拭こうとします。しかし、慌てていたためか、彼女はそれを落としてしまいました。
『うう!』
動揺の収まらない声を上げ、ハンカチを拾おうとするベアトリーチェ。しかし、彼女はここで再び血だまりに足を取られ……今度こそ正真正銘全力で、血の海に向かってダイブしてしまったのです。
ベシャリ、という気持ち悪い音は、ぐしょぐしょに濡れたカーペットによるものでしょう。
『……………』
全身をべったりと血糊で汚したまま倒れ伏す聖女様。彼女はなぜか、ぴくりとも動きません。
〈えっと……なんか動かないんだけど、どうしたのかな?〉
〈さ、さあ……?〉
痛々しい沈黙が支配する空気の中、わたしたちは何も言えず、黙ってその様子を見守り続けていました。
するとしばらくして、ようやく彼女が起き上がる気配がします。
『…………』
無言のまま立ち上がった彼女は、もはや諦めたように全身の汚れを適当に拭うと、ちらりと『こちら』に目を向けてきました。
『そ……それでは、名残は尽きないところじゃが、いつまでもここにいては、……め、面倒も起こりかねん。……ここらで、おとま……ご、ごほん! お、おいとまさせていただこう。また会える日を楽しみに、ごきげんよう……』
血でべたべたに汚れたスカートを優雅(?)に広げ、こちらに頭を下げる彼女。
しかし、その姿はなお一層、アンジェリカやエレンシア嬢の笑いを誘うものでした。
〈ぷくく! だ、駄目だ! あの女、や、『やり直した』ぞ! 見たか、キョウヤ? あれだけ無様をさらしておいて、何事もなかったかのようにもう一度……ぷくくく!〉
〈だ、駄目ですわ、アンジェリカさん。彼女も威厳を保つのに必死なんです……ぷ! うふふふ! うう、お、お腹が……〉
まあ確かに、先ほどまでの完璧な立ち居振る舞いの後にこれを見せつけられては、彼女の『頑張ってる感』が、かえって笑いを誘う結果になってしまうのかもしれませんが……それにしても笑い過ぎではないでしょうか?
すると、案の定、ベアトリーチェもこれを無視することはできなかったようでした。
『うう! また、笑いの気配が強くなったのじゃ! よ、よくも……お、覚えておれよ! わ、わらわはもう、帰る!』
聖女様……否、可哀想な白銀の髪の少女は、ぷんぷんと頬を膨らませ、肩をいからせながらこちらに背を向けました。
しかし、そのすぐ後には、こんなつぶやきも聞こえてきます。
『……うう、後でお風呂に入らなきゃ。ううん、そもそも、こんなに汚い恰好で、どうやって帰ろう……』
途方に暮れたようにうつむき、とぼとぼと扉に向かって歩き出すベアトリーチェ。
気高い聖女の情けない後ろ姿は、わたしたちの心にも同情心を呼び起こさずにはいられないものでした。そして、そんな同情心を真っ先に口にしたのは、マスターです。
「うーん。あのままじゃ、可哀想だね。助けてあげようか?」
「え?」
しかし、後半の言葉の意味が分かりません。
もちろん、彼が腰の小物入れから『笛』らしきものを取り出した理由も、まったく理解できませんでした。
「発動対象、ベアトリーチェ」
しかし、彼はわたしの無理解などお構いなしに、彼女の名前を口にした後、その笛に口元を寄せたのでした。
次回「第94話 触れあう素肌」




