第90話 鏡の中のお前は誰だ
新たな展開があったのは、それから数日も経たないうちのことでした。そのきっかけとなったのは、エレンシア嬢のスキルによって得られた情報です。
いつものように、城内の一室に集まったわたしたちは、彼女の話に耳を傾けていました。
「『ニルヴァーナ』の商人の中でも、特に強欲だと噂される人物を中心に、彼の元に出入りする人間たちを監視していましたの」
エレンシア嬢は今や、この国ではトップレベルの情報通となっています。植物の存在するところすべてに彼女の目があり、彼女の耳があるのですから、それも当然でしょう。
そんな彼女にマークされていた『ニルヴァーナ』の商人の名は、グラキエル・サウド・ファフニル。家名からもわかるとおり、かつてマスターに絡んできていたレニード・スピラ・ファフニルの家に連なる人物です。
とはいえ、過去の家督相続の際に問題でもあったらしく、彼自身は貴族ではありません。分け与えられた財産を元に様々な商売に手を出すことで商人として成功したとのことですが、彼に関しては裏で黒い噂も飛び交っているとのことでした。
「黒い噂って?」
「人身売買。つまり、奴隷商ですわ。身寄りのない子供たちを仕入れては、『使い物』になるように『調教』して転売する。どうやら彼には、その手の才能があるようですわね」
エレンシア嬢は、その言葉を苦々しげな口調で吐き捨てました。彼女の生まれた国にも奴隷がいないわけではなかったはずですが、実物を見てしまえば、嫌悪感も湧くのでしょう。
「さすがに同族の『ニルヴァーナ』の子供を扱ったりはしていませんけど、国外から人間の子供を仕入れているようですわね」
「この国では奴隷制は禁止されているんだよね? よくそんなことをして捕まらないものだと思うけど」
マスターがそんな疑問を口にすると、同席していたアンジェリカがエレンシア嬢の代わりに答えました。
「禁止されているとはいえ、厳罰があるのは国民を奴隷にして売買することだ。他から仕入れた『奴隷』を転売しているだけだとなるとな……」
そうはいってもグラキエルの行為は、到底褒められたものではないでしょう。自国の民でさえなければよい、というのはきわめて野蛮な考え方です。
「罰されなければ悪いことをしてもいいとか、まるでお子様だね……って、うわわ!」
「子供じゃないもん!」
マスターが呆れたように言った言葉に反応したのか、メルティが彼の元へと飛びついてきました。
「悪いことは、怒られなくてもやっちゃ駄目。良いことは、褒められなくてもやらなきゃ駄目なんだよ?」
「あ、う、うん。そうだね。メルティは偉いねえ……ははは」
ソファに座ったまま、メルティにしがみつかれたマスターは、相変わらず動揺した様子で彼女の頭を撫でてあげていました。
「ふふふ! メルティさんも……どんどん成長していますね」
先ほどまでメルティの黒髪に櫛を通してあげていたリズさんは、そう言って嬉しそうに笑いました。どうやら彼女は、依然としてメルティの教育係を自任しているようです。
実のところ、メルティは家族水入らずの時間も過ごすようにはなったものの、日中の間はこうしてわたしたちと行動を共にすることが多いのです。夜は十五年ぶりの子育てに張り切るアリアンヌさんに任せるとしても、昼の間はリズさんが頑張るつもりなのかもしれません。
「相変わらず、メルティは可愛いですわね。……まあ、それはともかく、問題はここからですわ。ここ最近、彼の商館に頻繁に出入りする商人がいますの」
エレンシア嬢は、ここでようやく本題を切り出してきました。
「なるほど、ですが何故、その商人が怪しいと思われたのですか?」
わたしがそう聞くと、エレンシア嬢は軽く頷きを返してきました。
「それが、『奴隷を扱う商人に不自然なまでに接触を繰り返している』という以上の根拠はありませんの。ですので、わたくしだけではなく、皆さんにも『見て』いただければ……」
エレンシア嬢はそう言うと、マスターの方へ何かを言いたげな視線を向けました。
「ん? ああ、アレをするんだね。いいよ、わかった」
マスターはメルティにしがみつかれたまま、心得たとばかりにソファから立ち上がると、わたしたち全員を見渡して言いました。
「みんな、僕に皆の身体をくれないかい?」
「ええ!?」
驚きの声を上げたのは、アンジェリカとリズさんの二人でした。特にアンジェリカは何かを激しく誤解しているらしく、顔を真っ赤にしてうろたえています。
「マスター、それを言うなら身体の一部……もっと言えば、『髪の毛を一本もらえないか』というべきです。みんなびっくりしているじゃないですか」
「ん? ああ、そっか。ごめんごめん。髪の毛でいいよ」
明らかに確信犯の顔つきで笑うマスターでした。
それはさておき、彼はメンバー全員分の髪の毛を手に掴み、宣言します。
「『いびつに歪む線条痕』。……『鏡の中のお前は誰だ』の効果のうち、『肉体感覚』の共有を『視覚・聴覚』に変更」
マスターは、次のスキル効果の一部を変質して発動したようです。
『鏡の中のお前は誰だ』
『知性体』の肉体の一部(髪の毛など)を入手した場合のみ発動可。対象の姿を自身の存在に写し取り、互いの肉体感覚を自由に共有する。効果時間は最大で24時間。スキル使用後、入手した肉体の一部は消滅する。
「ああ、あらかじめ言っておくと……目は閉じておいた方がいいよ。慣れないうちは、僕が送るエレンの植物を通じて見る景色と肉眼で見る景色とが混じっちゃうだろうしね」
つまり、『世界に一つだけの花』によってエレンシア嬢が遠隔感知した情報を、歪めた『鏡の中のお前は誰だ』のスキルによって彼女たちと共有するということなのでしょう。
「もっとも、本来のこのスキルの使い道は……『自己同一性の破壊』なんだけどね」
取って付けたように彼が口にしたその言葉に、背筋を寒くしたわたしたちは、慌てて目を閉じたのでした。
すると、目の前に徐々にではありますが、ぼんやりと見えてくるものがあります。
「……ちょうど、この時間に面談の約束が入っているはずですので、しばらくこの応接間の観葉植物の視点で固定しますわ」
聞こえてくる声もエレンシア嬢この言葉を最後に、『応接間』のものに切り替えられました。わたしの場合、多元的並列情報処理が可能であるため、皆が目を瞑っている間も周囲への警戒は続けることにしています。
それはさておき、しばらく待っていると、応接間に一人の人物が姿を現しました。
『今日の来客は誰だったかな?』
豪奢なソファを軋ませながら、でっぷりと太った身体で腰を下ろしたのは、中年の男性です。姿からして、彼が『ニルヴァーナ』の商人グラキエルなのでしょう。すでに日が暮れた時間であるせいか、彼の首の周りには、竜のたてがみのような毛が生えていました。
『はい。ウェルナート帝国の商人、ウルバン・ランスリッド殿です』
ソファに座る彼の傍らに立ち、手元の資料を見ながら話している男性は、恐らく彼の執事なのでしょう。上等そうな布地であつらえられた執事服を見る限り、腹心の部下といったところでしょうか。
『ああ、最近やたらと贈り物を持ってくる奴だったかな?』
ソファでふんぞり返る彼の目の前では、肉付きの良い身体つきのメイドが酒の用意を始めています。彼はそんな彼女の腰のあたりをじっとりとした目で見つめつつ、にやにやと笑っていました。
『ええ、そうですね。あの国は二十年前に我らがドラグーン王国に敗北して以降、帝国とは名ばかりに衰退の一途をたどっております。労働力に奴隷を使うというのは、追い詰められた国にありがちなことです』
『ふむ。やはり、俺の「裏の顔」を知ってのことだな。だとすれば、わざわざ「この時間」を指定したのも、ようやく本題に入る気になったということか』
『左様でございます』
『まあ、いい。落ち目の国の商人ごときが、俺の「調教技術」にどの程度の値段を付けてこれるのか、まずはお手並み拝見と行こうじゃないか』
そう言ってげらげらと笑うグラキエルは、目の前のテーブルに酒杯を並べ終えたメイドの女性の尻を撫でました。
『きゃ!』
『おっと、悪い悪い。手が滑った。がははは! 続きは夜にしてやる。よく身体を洗ってから来いよ?』
『……し、失礼します』
顔を赤くして出ていくメイドを見送ると、グラキエルは途端に鋭い目つきで執事の方に目を向けました。
『ベルクマン、「音響」の準備はできているな?』
『はい。ぬかりはございません』
ベルクマンと呼ばれた執事の男は、うやうやしく頭を下げて言いました。
『まあ、貧乏商人が相手では「支配音波」なんぞ使うまでもないだろうが、万が一ということもある。いい金づるになりそうなら、備えておくに越したことはないからな』
そう言って自分ひとり、酒杯を傾け始めるグラキエル。それから間もなくして、部屋の扉がノックされました。
『入れ』
執事の男が許可すると同時、扉が開かれ、案内役の使用人が二人の人物を連れて中へと入ってきました。
『このたびはお忙しい中、グラキエル殿の貴重なお時間を頂戴いたしまして、ありがとうございます。先日もご挨拶させていただきました、ウルバン・ランスリッドでございます』
二人のうち、先頭に立って歩いてきたのは、グラキエルと同年配に見える男性です。しかし、横に太いグラキエルとは対照的に、縦にひょろ長い印象のある痩せ細った人物でした。
『おお、よくぞいらっしゃった。ささ、向かい側にかけてくれたまえ』
グラキエルは愛想よく笑いながら来客者に着座を勧めていますが、その顔には相手のみすぼらしい風貌に対する侮蔑の色が浮かんでいます。
一方、ソファに腰掛けたウルバンの後ろに立ったのは、まだ年若い少女です。とはいえ、茶色の髪を三つ編みで二つにまとめ、特に装飾もされていない灰色のエプロンドレスを身に着けているだけで、特に目立った特徴はありません。
立ち位置や服装などから言って、ウルバンの使用人なのでしょうが、グラキエルの執事に比べれば、側近としては見劣りするようです。
『おや、そちらのお嬢さんは、秘書……いや、使用人ですか?』
グラキエルも同じことを感じたのか、軽蔑をあらわにした声で言いました。
『はい。お恥ずかしながら、ここのところの経営難を受けまして、以前の秘書が辞めてしまいましてね。使用人の中から一番まともそうな娘を急きょ秘書役に仕立てたのですが……』
言葉の通り、彼は恥ずかしそうに頭を掻いて見せました。すると、グラキエルは露骨に失望した顔になり、気だるげに言葉を返します。
『なるほど、それはお気の毒に。で? 本日の御用件は?』
相手には金がない。それが分かった途端、彼の態度は不愛想なものに変化していました。
『え? あ、は、はい。……ほら、お前、資料を出しなさい』
唐突に言われて、慌てて斜め後ろに立つ少女に手を差し出すウルバン。
『……は、はい。旦那様、こ、これを……あ』
しかし、少女は小脇に抱えたバッグから資料を取り出そうとして失敗し、床にその中身を全てぶちまけてしまいました。
『あ……す、すみません……』
床に散乱した書類や小物を見下ろし、おとおろと立ち尽くす少女。
『まったく、何をやっておるか! このグズめ! わたしに恥をかかせおって! さっさと拾え!』
『はい。申し訳ありません……』
少女はウルバンに怒鳴られ、ようやく動き出します。しかし、その動作は依然としてのろのろとしたもので、ウルバンは苛立たしげに少女の背中を見下ろしていました。
『ははは、いやいや、時間はたっぷりあるのです。そう急かさなくてもよろしいですぞ』
グラキエルは相手の醜態を前に優越感に満ちた声で笑っています。しかし、楽しげに少女の姿を見下ろす視線は、床に這いつくばって書類を集める彼女のうなじや胸元に集中しているようです。
『も、申し訳ございません。お見苦しいところを……。いかに急きょ任命した仕事とはいえ、わたしもこやつがここまで粗忽者だとは思わなかったものでして……』
ウルバンは手にしたハンカチで顔の汗を拭きつつ、弁解の言葉を口にします。
『なかなかに一生懸命で、可愛らしいお嬢さんではないですか。よく見なければ気づかないが、磨けばそれなりには仕上がりそうな素材ですぞ?』
舌なめずりでもせんばかりに笑うグラキエル。
『ははは……まさか、このような者がグラキエル様に気に入っていただけるとは思いませんでしたが……』
『まあ、これは性分でね。磨き上げられた宝石より、色のくすんだ原石をどう輝かせるかを考える方が好きなのですよ』
『な、なるほど、さすがはグラキエル殿。わたしのような凡人とは、発想からして違いますな』
ウルバンは追従の言葉を口にしながら、ようやく少女が拾い上げた書類の中から目当てのものを見つけ出し、テーブルの上に広げたのでした。
『む? これは何ですかな?』
『はい。実は我が国では、このところ逃亡する奴隷たちが後を絶ちませんでして……人手不足が慢性化しておるのです』
『奴隷……とな? ウルバン殿も知っていようが、わが国では奴隷制は禁止されておる』
『はい。わかっておりますとも。しかし、風の噂では、グラキエル様は素晴らしい技能をお持ちだと聞いておりまして、そこで是非、お力をお借りしたいのです』
だんだんと話の雲行きが怪しくなってきました。もし、このウルバンという商人が『王魔』の子供の略取を狙う『女神』の教会の人間だとすれば、奴隷を扱うグラキエルを狙ってくること自体は筋が通っているように思います。
しかし、グラキエルはあくまで『仕入れた奴隷』を調教するだけで、自国の『王魔』を『奴隷に仕立てて』いるわけではないのです。だとすれば、このまま取り入っても彼らの望む展開に持っていくのも難しいはずでした。
ですが、彼が『アカシャの使徒』であり、相手を洗脳する能力を有しているのであれば、話は別です。わたしたちは、それを油断なく見守る必要があるでしょう。
『この資料なのですが……これは我が国における「奴隷不足」の状況を示したものです。さらに言えば、どこの貴族、どこの商家が、どんな奴隷を求めていて、どんな扱いをするのかも、逐一詳細に記載されています』
『なんですと? それはすごい』
ここで俄然、グラキエルは目を輝かせて身を乗り出しました。奴隷を扱う商人としては、その手の情報は喉から手が出るほどに欲しいもののはずです。
『だが、そんな情報をどうやって入手したのかも気になりますな。これが本物だという証拠もない』
などと言いつつ、話の内容はいつの間にか、その情報の価値を論じる方向に向かっていました。ここまでくれば、もう明らかです。これまでの話の流れはすべて、ウルバンの思うつぼに違いありません。
そもそも、最初にみすぼらしい印象を相手に与え、自分の価値を低めて見せたところに逆転の一手を提示するというやり方は、交渉ごとに手慣れた人間の考えることです。そう考えれば、あえて出来の悪い少女を連れてきたのも、相手の優越感を刺激するための手段だったのでしょう。
『実は……ここだけの話なのですが、我が商会では逃亡奴隷をかくまう取り組みを行っているのです。ここのところの経営難もそのためでして……』
『ほう……どうしてそんなことを?』
すでにグラキエルは、ウルバンの話に引き込まれています。
『この情報を得るためです。奴隷たちの信用を得ることで、元の勤め先の情報を仕入れることができるのですよ』
いかにも得意げな顔で笑うウルバンに、今度こそグラキエルは驚愕の目を向けました。
『な、なるほど……いやいや、ウルバン殿も人が悪い。だとすれば、この情報……まさに宝の山ですな。ふむ、確かにこれなら……わたしの「特技」も生かせようというものだ』
どうやら、いよいよ本題に入りそうなところまでたどり着きました。ここまでのやり取りを『見守って』いたわたしたちは、ウルバンが次に何を言うのか、あるいは何を『仕掛けるのか』に意識を集中しています。
『アカシャの使徒』による対象の洗脳方法がわかれば、今後の対処の仕方も随分違うものになるはずです。
『……《バインド・ノイズ》』
しかし、グラキエルが巨体を揺すって笑いつつ、そう言った次の瞬間、室内に不思議な音が響き渡ったのでした。
次回「第91話 神聖なる純白の雪花」




