第85話 親子の時間
「『愚者』の瞳? そんな……馬鹿な……」
目の前で起きたことに理解が追いつかないのでしょう。メンフィス宰相は、すでにマスターの『長い腕』による身体拘束を解除されているにもかかわらず、凍りついたようにその場に立ち尽くしていました。
「赤い瞳……『愚かなる隻眼』? あ、ああ……い、いや! いやあああ!」
一方、アリアンヌさんはと言えば、メルティの『隻眼』を目にした直後、錯乱したように叫び始めました。彼女の記憶にある『愚者』は、彼女の娘を飲み込んだ『惨禍のオロチ』、ただそれだけなのです。
だからこそ、メンフィス宰相よりもなお、アリアンヌさんにメルティを会わせることに関しては、特に慎重に行うべきでした。だというのに、このやり方は拙速だったのではないでしょうか。
もちろん、事前の打ち合わせにおいて、わたしやアンジェリカもその点についての懸念を示しはしたのですが、マスターは任せてほしいと言うばかりで、はっきりとした理由を教えてはくれませんでした。
「……まあ、言ったらきっと反対されるだろうからね」
というのがマスターの弁でしたが、結局のところ、メルティをこの国に連れて帰ってこれたのも彼の『考えた結果』があってこそなのです。わたしたちは、彼を信じることにしたのでした。
「アリアンヌさん? どうしたの? 大丈夫?」
しかし、様子のおかしいアリアンヌさんを心配して、メルティが彼女に近づこうとした、その時──
「動くな! それ以上、妻に近寄るんじゃない」
彼女の行く手を塞いだのは、メンフィス宰相です。彼はその目に苦々しげな光を宿しつつ、手に持った幅広の長剣を構えていました。
「う、ああ……ぐ、『愚者』! オロチ! メルティをメルティを返して!」
一方、アリアンヌさんは頭を抱え、なおも叫び声を上げ続けています。
「メンフィス、アリアンヌさんが……」
「いいから動くな! 言葉を話す『愚者』……か。まさかとは思うけど、君は『黒騎士アスタロト』なのか?」
さすがにメンフィス宰相は頭の回転が速いようです。目まぐるしい状況の変化の中でいち早く情報を整理し、すぐに彼女の『正体』を看破したようでした。
「アスタロト? 違うよ。わたしは、メルティだよ。それがほんとの名前だって、キョウヤが言ってたもん」
「……黙れ。娘を殺した『愚者』の仲間が、僕の娘の名を騙るな。キョウヤ君が何を考えてこんなことをしたのか知らないが……人の心をもてあそんだ報いは受けてもらうぞ」
彼の言葉の端々には、まるで空気を帯電させるかのような緊張感が漂っています。怒りに身体を震わせるメンフィス宰相の姿に、わたしたちは『失敗』を悟りました。すぐにでも飛び出して行って事情を説明しなければ、彼らの間に決定的な溝が生まれてしまうかもしれません。
「ヒイロ、何か言いたそうだね?」
「……いえ、マスターのお考えに口を挟む気はありません」
そんなつもりはなかったのですが、わたしのその返事には、若干の棘が含まれてしまったようです。しかし、それでもマスターは気にした様子もなく言葉を続けました。
「ことこの件に関してはね……なあなあも、あいまいも、うやむやも、あやふやも……欺瞞も虚偽も誤魔化しも、僕は許すつもりはないんだ」
「え?」
「じゃあ、始めようか」
マスターがぽつりと一言、そうつぶやいたのです。
すると、次の瞬間……
「キシャアアアアア!」
不気味な音と共に、霊園の一角にある地面が大きく盛り上がりました。
「な、なんだ?」
地面に伝わる振動に、メンフィス宰相が驚いてそちらを見ました。するとそこには、盛り上がった地面の中からそそり立つ、巨大な蛇の姿があったのです。
「キョ、キョウヤ! どういうつもりだ? あれは一体……」
アンジェリカが声を荒げて叫びました。わたしの【式】で声を遮断していなければ、メンフィス宰相たちにも聞こえていたかもしれないほどの大声です。
「ん? あれかい? あれはひとつの『依代』に百人ぐらいの人の『死者の力』を憑依させて作った《岩のオロチ》だよ。よくできてるだろ?」
「そ、そんなことを言っているのではない! あれでは……メルティが!」
焦ったように指さす彼女の手の先には、メルティの姿があります。彼女にとって、いくら憑依する『死者の力』の数が多かろうと、ただの『死んだ人間』の寄せ集め程度では相手にもならないはずです。
ところが……
「あ、ああ……」
その『大蛇』の姿を見た途端、メルティは怯えるように首を振ったのです。顔色は見る間に蒼醒め、全身はガクガクと震え出しています。
「キョウヤ様? メルティの様子がおかしいですわ」
エレンシア嬢がマスターの袖をつかむようにして言いました。しかし、マスターはさも当然のように頷きます。
「うん。やっぱり、トラウマはあるみたいでね。前回の『遊び』の際に試した時も、同じ感じだった」
「それではキョウヤさんは……メルティちゃんがああなることを承知でこんなことを?」
リズさんが少しだけ声に怒りを滲ませて言います。
「必要だと思ったからね。まあ、言えば反対されると思ってたから……黙ってたけど」
「……その言い方は卑怯です」
「ごめん。でも、もう少し様子を見ていてほしい」
マスターとリズさんのやり取りが続く最中にも、巨大な《岩のオロチ》はメルティに向けて徐々に間合いを詰めていきます。
「あ、ああ……い、いや! へ、蛇……蛇は……いやああ!」
とうとう尻餅をついて倒れ込み、頭を抱えるメルティ。その頭上では、《岩のオロチ》が巨大な咢を大きく開いていました。
「な、何なんだ? いったい、何が……」
メンフィス宰相は訳も分からず、唖然としたままメルティの怯える姿を見つめています。その手には虹色の長剣が握られているのですが、その剣先は彼の迷いを表すように小刻みに揺れていました。
「あ、ああ……やだ! いや! 怖い! 怖いよう!」
バクバクと口を開閉する《岩のオロチ》に対し、メルティは見ているこちらの胸が痛くなるほどに怯えきっているようです。
「……メルティ?」
ここでようやく、それまで頭を抱えて叫んでいたアリアンヌさんが異常に気付いたように顔を上げました。そんな彼女の瞳に飛び込んできたものは、今まさに少女を飲み込まんとして咢を開く巨大な《オロチ》と、怯えてうずくまり、頭を抱える少女の姿。
そして……
「怖い! 怖いよ! 助けて! ……ママ! パパ!」
少女の悲痛な叫び声があたりに響き、鎌首をもたげていた《オロチ》の頭が彼女めがけて降りていこうとした、その時でした。
「メルティ!」
霊園の中に、青い閃光が走りました。全身に青く輝くプレートメイルを出現させたアリアンヌさんは、全速力で彼女の前まで駆け寄ると、その背中で《オロチ》の牙を受けとめたのです。
「大丈夫? メルティ!」
病み上がりの身体に鞭を打ったせいか、苦しそうな声を出すアリアンヌさん。しかし、それでも先ほど錯乱していた時からは考えられない程、力強い声でした。
「あ、ああ……うん。だ、大丈夫……」
呆けたように目の前の女性を見上げ、頷きを返すメルティ。
「そう……ふふふ。良かったわ。あなたが……無事で……」
地べたに座り込んだまま自分を見上げる黒髪の少女を前にして、アリアンヌさんは慈愛の眼差しで微笑んでいます。
「く……くそ! 僕は、何をやっているんだ! ……オロチ! 僕の……僕の大事な『家族』に手を出すなあああ!」
虹色の剣に魔力を集めながら、メンフィス宰相は猛烈な勢いで《岩のオロチ》に斬りかかりました。振りかざされた刀身には、わたしの魔力感知センサーを使わなくとも視認できるレベルで濃密な魔力が集約されています。そして、それはそのまま、《岩のオロチ》の身体に叩きつけられることで一気に爆発しました。
粉々に吹き飛ぶ《岩のオロチ》の身体。もうもうと立ち込める土煙の中、青い鎧を纏ったアリアンヌさんと虹色の剣を手に提げたメンフィス宰相の立ち姿が見えてきました。
メルティはそんな二人のことを、びっくりしたような目で見上げています。
「……うん。どうやら『決まった』みたいだね。行こうか?」
「あ、は、はい……」
マスターの合図を受けて、わたしは《ステルス・チャフ》を解除しました。すると当然、わたしたち五人の姿が肉眼で確認できるようになります。メンフィス宰相たちからすれば、わたしたち五人の姿がいきなり出現したように見えたことでしょうが、彼らはお互いの状況以外、眼中にないようでした。
「やあ、メンフィスさん。こんにちは」
何とも言えない空気の中、気楽な調子でそう言ったのは、もちろんマスターです。
「……キョウヤ君。これは、やっぱり君の差し金か」
脱力したように大きく息を吐くメンフィス宰相。
「うん。どうやら、『わかって』もらえたみたいで何よりだよ」
「……いくらなんでも、やり方が酷過ぎはしないか?」
「前にも言ったけど、僕は正直、メンフィスさんのために行動しているつもりはないからね。今回のことは、あくまでメルティのためだ。できれば彼女にも自分で思い出してほしかったし、……自分のすべてを受け入れてくれない親なら、彼女には必要ないからね」
マスターはそう言いながら、未だに尻餅をついて座り込むメルティの元に歩み寄っていきます。
「ごめんね、メルティ。怖い思いをさせてしまって」
ぽかんとした顔で自分を見上げるメルティに手を差し伸べ、謝罪の言葉を口にするマスター。どうやら彼は、あくまでもメンフィス宰相たちに対しては謝らないつもりのようです。
「キョウヤ! ううー! 怖かったよう……」
メルティは助け起こされた後、すぐさまマスターの胸元に飛び込み、彼の身体をぎゅっと抱きしめました。
「ははは。ちょっと苦しいかな? 僕じゃなかったら、骨まで壊れてしまいそうな感じだよ。もう少し、手加減しようか?」
「あ……うん! ごめんなさい」
慌てて力を緩めるメルティ。
「……ごめんなさい。メンフィス。ほんとはすぐにでも、あなたに話してあげたかったんだけど……」
代わりにメンフィス宰相に謝ったのは、アンジェリカでした。しかし、メンフィス宰相は、申し訳なさそうに項垂れるアンジェリカの頭を撫で、小さく首を振りました。
「いや、いいよ。それより、事情を説明してほしい。本当に……彼女は、僕たちの娘、メルティなのか?」
震える声で問いかけるメンフィス宰相ですが、彼の妻、アリアンヌさんは違いました。
「ええ、間違いないわ。メンフィス。あの時、護れなかったわたしの娘。見たこともない大蛇に怯えて……わたしに助けを求めてきたあの子の声。全部、あの時のままですもの。……あの時、届かなかった手がようやく届いたんだわ。わたしは……この子を護ることが……できたのね」
魔法で生み出した鎧を消したアリアンヌさんは、確信に満ちた目でメルティを見つめています。
「ああ、それは僕にもわかる。僕だってここ何日か、彼女と一緒に過ごしているんだからね。……でも、どうして『愚者』なんだ? いったい何があった?」
「そこまでは、わたしにもわからないの。わたしたちが追っていた『黒騎士』が実は彼女だったということはわかっても、どうしてそうなったのかまでは……」
アンジェリカはそう前置きして、わたしたちがメルティを連れ帰るに至った経緯を説明しました。
「……彼女は、ヴァリアントの魔法まで使えるのか。それなら……身も心も『愚者』になってしまったというわけではないのかな」
小さく安堵の息を吐くメンフィス宰相。かつてアリアンヌさんが持っていた三歳の頃の彼女を模した人形は、淡い金色に蒼が混じる色合いの髪でした。それが艶やかな黒髪に変わり、その身体には『愚者』しか持ちえない『隻眼』まであるのです。彼の心配も無理からぬところでしょう。
「……ああ、メルティ。本当に、本当に……生きていてくれたのね?」
すでにアリアンヌさんの目からは、ぽろぽろと大粒の涙が溢れ出しています。
「ほら、メルティ。君のことを十五年間ずっと、思い続けてくれていた……君のママとパパだよ」
マスターは彼女を二人に向き直らせ、その背中を軽く押すようにしながら言いました。
「ママ? パパ?」
ふらふらと歩きながら、メルティは戸惑い気味に二人の顔へと交互に目を向けています。
「……メルティ。ああ! メルティ!」
「良かった! 本当に良かった! 君が生きていてくれて……本当に良かった!」
感極まった父と母は、そのまま一斉にメルティへと駆け寄り、彼女の身体をしっかりと抱きしめました。
「ママ、パパ。……ただいま」
そのぬくもりに何を感じたのか、メルティも今度は戸惑うことなく、はっきりと「ただいま」を言って、二人を抱きしめ返したのでした。
次回「第86話 夕食の時間」




