第4章 登場人物紹介(上)(キョウヤの過去)
王都ドラッケンに帰還する前の晩のこと。
野営のために張ったテントの中で、わたしはアンジェリカやエレンシア嬢、リズさんらを集めて話をしました。
「……皆さんに聞いてもらいたいのは、マスターの過去の話です。辛い内容になるかもしれませんが……マスターから許可はいただいています。今後も彼と行動を共にしていくつもりが皆さんにおありなら、できれば聞いておいていただきたいのです」
わたしの言葉に、彼女たちは神妙な顔で頷いてくれたのでした。
「……これはわたしが、彼の世界で様々な方面から行った情報収集の結果をもとに、まとめたものです。細部には違いがあるかもしれませんが、事実の相違はないものと考えています」
そう前置きして、わたしは語り始めました。
──来栖鏡也の人生は、十歳を迎えるころまで平穏なものだった。
裕福な資産家の家に生まれた彼は、貧困にあえぐこともなく、酷い虐待を受けるようなこともなく、何不自由のない生活を送ってきた。
欲しい物なら望めば与えられる。そうでなくともクリスマスや誕生日には、両親から『心』のこもったプレゼントを手渡される。優しい両親は、彼のことをいつも笑顔で見守ってくれていた。彼がいい子にしていれば褒めてくれて、彼が悪いことをすれば叱ってくれた。
二人の愛情をたっぷりと受け、甘やかされて育った彼ではあったが、挨拶やお礼などの日常生活に必要な最低限のマナーについては、しっかりとした教えを受けていた。そんな彼は、よその大人たちからは礼儀正しく、頭の良い子だと褒めそやされていた。
やがて私立の名門小学校に入学した彼は、その人の好さを十分に発揮し、クラスの中でも人気者となっていた。頭が良く、学校の先生からの信頼も厚かった彼は、当然のようにクラス委員に任命されていた。
自分の周りには愛情が満ち溢れ、自分の周りには優しいものしか存在しない。
彼はずっと、そう信じて生きてきた。
しかし、彼が信じていた『幸せな日常』は、『その日』を境に急速に足元から崩れ落ちていく。
きっかけは、ささいなことだ。友達との会話。自分の家族の話。
最初は、話が少し噛み合わない程度のものだった。頭の良い彼はそのことに違和感を覚えないではなかったが、その時点では何とも思わなかった。
だが、それが決定的となったのは、彼が友達の誕生日会に呼ばれた日のことだった。
そもそも、資産家の家の生まれである彼自身、自分の誕生日会に友達を家に招きたいと考えたことはあった。しかし、両親は『誕生日は家族だけで祝うもの』だと言って、認めてくれなかった。
彼はその理由に大いに納得しており、両親の言うことは『家族』というものを何より大事にしたいという意味だと理解していた。
しかし、彼が『友達の誕生日会』で見たもの──それは、あまりにも異常な光景だった。
友達の家に着くと、優しそうな年上の女性が出迎えてくれた。彼はそれを自分の家でいうところの『家政婦さん』だと考えた。
家の奥に案内されると、そこにはくつろいだ様子でソファに腰掛けた男性がいて『よく来たね。この子の誕生日をお祝いしてくれてありがとう』と声をかけてきた。彼はそれを自分の家でいうところの『たまに来るお客さま』だと考えた。
だが、誕生日会が始まって、彼は知る。
その友達は、女性に向かって『ママ』と呼びかけている。
その友達は、男性に向かって『パパ』と呼びかけている。
けれど……彼の知る『ママ』は動かない。彼の知る『パパ』は表情を変えない。いつだって二人は『変わらぬ笑顔』を浮かべ続け、時々姿勢を変えることはあっても、基本的には身動きしないものだ。『両親』というものは、そういうものだと思っていた。
だから、彼はそれを異常な光景だと思ってしまった。
異常なものを前にして、彼はそこから逃げ出すことしかできなくなっていた。
そうして家に帰りつけば、いつもと変わらぬ『両親』が自分に『お帰りなさい』を告げてくる。高い女性の声で……そして、いくぶん低い男性のような声で。
彼は何を言うのも忘れ、『あのヒト』に目を向けた。
血走った瞳。振り乱された髪。怒りに震える声。
恐怖、恐怖、恐怖、恐怖、恐怖、恐怖、恐怖、恐怖。
殴りつけられる。そして、再び『両親』から聞こえてくる『優しい声』。
『駄目でしょう? 鏡也。帰ってきたら、「ただいま」って言わないとね』
『そうだぞ。挨拶をきちんとしない子は、立派な大人になれないんだぞ』
耳慣れた声。愛情に満ちた言葉。
けれどそれは、誰よりも子供じみていて、そして、誰よりも狂気に満ちた声。
高い女性の声と、それよりいくぶん低い……『男性のよう』な声。
彼は『そのヒト』が怖かった。『ママ』と『パパ』との生活の中で、彼に絶対的に課されていた唯一のもの。それは、『そのヒト』の望むとおりに振る舞うことだ。
『子供』として『いい子』でいれば、『ママ』が褒めてくれる。
『子供』として『悪いこと』をすれば、『パパ』が叱ってくれる。
けれど……彼が『子供』として『らしく』ない行動をとった時には、『そのヒト』からの激しい折檻が待っていた。
しかし、頭の良い子供だった彼は、すぐにその環境に順応する。……否、順応してしまった。この場合、順応などしない方が、百倍ましだっただろう。
彼はその結果、決められた通りに『パパ』と『ママ』とのやりとりをこなし、彼ら『両親』に甘えて過ごした。冷たく硬質な肌の感触を母の温もりと信じ、変わることのない笑顔を父の愛情だと感じて生きてきた。
しかし、その日、彼はそれらがすべて『間違い』だったことを知った。彼が愛してやまなかった両親は、物言わぬ『人形』だった。
褒めてくれる母に甘え、叱ってくれた父にしょげかえって頭を下げたあの日の思い出は、滑稽極まりない人形劇の一幕に過ぎなかったのだ。
彼の周りには『優しさ』などなく、彼の周りには『愛情』などなかった。
どころか、敵意や憎悪さえも持たず、ひたすらに虚ろな笑みを浮かべるだけの等身大の人形たち──彼の愛に応えるべきモノたちには、『心』さえ存在していなかった。
十年の時間は短いものではなく、ましてや生まれてから幼少期にかけてのその時間は、極めて貴重な人格の形成期に当たるものだ。そんな宝石のような十年間が、ただの石ころでしかなかったのだと知った時、彼はすでに『取り返しのつかない間違い』の中にいたのかもしれない。
──当時、彼の家には『家政婦』がいた。しかし、住み込みではなく、通いでやってくる彼女たちは、その光景の異常さに気付いても、そこに首を突っ込もうとはしない。仮にしたとしても、すぐにクビになるだけだ。だから、誰も気付かない。
取り返しのつかない十年間。それには当然、彼の『父』にも責任がある。
仕事でほとんど家にも寄り付かず、まともに子供の顔さえ見ようとしなかった『父』は、すでに他の女性との間に子をもうけていた。
その『父』にとって、彼や彼にとっての『そのヒト』など、世間体を繕うための道具でしかなく、それ以上の価値などなかった。
ビジネスの世界で辣腕を発揮し、その頭角を現しつつあった『父』は、自分の経済基盤の確立のため、強引な手段を用いて『資産家の令嬢』との政略結婚を行った。
その令嬢は、人形のように美しく、人形のように可憐だった。
しかし、問題だったのは、彼女がまさしく『箱入り娘のお嬢様』だったことだ。不自然な形での父の死後、まだ十代の若さでありながら、親戚の勧めによって自分よりはるかに年上の男性と婚姻を結ばされる。それは、甘やかされ放題に甘やかされて育ってきた彼女には、『認められない現実』だった。
彼女は結婚という大人の現実を前にしてもなお、『少女』の殻に籠ろうとした。しかし、夫となった男性にしてみれば、あからさまに怪しい結婚のタイミングに加え、子供の一人も生まれないのでは世間体に問題があった。
だから彼は、嫌がる妻に強引に子を産ませた。
そして、人形のように美しかったその『少女』は、『人形の子供』を作り出したのだった。
そう、それは彼女にとっての『人形遊び』だった。『家族ごっこ』だった。
自分は結婚なんかしていない。自分には子供なんかいない。
彼女自身がそう思うための、壮大な一人芝居であり、『人形劇』だったのだ。
けれど、子供は親の所有物ではない。ましてや、心を持たない『人形』などではない。十年もの間、そんな『人形劇』が破綻しないで済んだことの方が不思議だった。
もちろん、その『不思議』には答えがある。
しかしそれは、彼の頭が良かったからだ……などという馬鹿げた結論ではない。
人形にはスピーカーが仕込まれており、声の出所が巧妙にごまかされていたからだ……などというくだらない結論でもない。
それはむしろ、彼がある意味、愚直であったからこそ導き出されてしまった、悲しくもおぞましい結論だった。
──わたしは、そこまで語ったところで彼女たちを見渡しました。
「……だからキョウヤは、わたしとお父様のことをあんなにも気にかけてくれたのか」
うつむきながら、アンジェリカが小さく嗚咽を漏らしていました。
「キョウヤ様は、両親を愛しているわたくしを……尊敬しているって……。それは決して、自分にはできなかったことだからって……。でも、こんなの……無理よ。いったい誰が、そんな状況で『親』を愛せると言うの?」
翡翠の瞳から大粒の涙をこぼし、エレンシア嬢が首を振りました。
「……ヒイロさん。あなたが考える、その『不思議』の結論は、何なのでしょう?」
ただ一人、リズさんだけが涙をこらえ、わたしに問いかけてきました。
「はい。それは……『愛してほしかった』からではないでしょうか?」
「…………」
きっとリズさんも、同じ結論に達していたのでしょう。何も言わず、ただ黙って頷いてくれました。
考えてみれば、それはおかしな話ではありません。
親を頼らねば生きられない幼子に、『自分の母』がわからないはずがないのです。物心ついたころから『人形の子供』であることを強いられ、物言わぬ人形をママと呼び、パパと呼ぶよう躾けられてきたのだとしても、彼のいちばん身近にいて、彼の面倒を見てきた人物は、間違いなく『彼女』なのですから。
人形に食事を食べさせてもらうことはできません。人形に服を着替えさせてもらうことはできません。人形に髪を整えてもらうことも、人形に歯を磨いてもらうことも、人形にお風呂に入れてもらうことも……できるはずがないのです。
彼女が『人形のよう』に彼の『手入れ』をしていたのだとしても、彼がそれを無意識のうちに『母のぬくもり』だと感じることは、当然の成り行きなのです。
それでもなお、彼が『人形の子供』を演じ続けてきた理由。『心なき人形』をママと呼びパパと呼んで、甘えて慕ったその理由。それは、そうしなければ……自分が『愛してもらえない』ということを本能的に悟っていたからなのです。
彼は、彼女が怖かったのではありません。
彼が本当に恐れたもの。恐怖したことは、彼女に『愛されない』ことでした。
自分が彼女の『人形遊び』に相応しい人形を演じている限り、彼女は自分を愛してくれる。母に愛されたい一心で、彼は無意識のうちに『心なき者の子』を演じ続けてきたのです。
なんて悲しくて、なんておぞましい十年間なのでしょうか。
しかし、取り返しのつかない間違いの中にいた彼の人生は、ここでの『気づき』によって軌道修正されることはありませんでした。
母親からの激しい折檻によって大怪我をした息子の姿を見て、『父』はようやく問題の大きさに気が付きました。
ところが、世間体を考えれば、この事態が明るみに出ることは避けねばなりません。もちろん、妻との離婚など論外であり、同時に息子が虐待され続けることにも問題があります。
そこで『父』は、妻が息子を虐待しないよう、監視する人物を住み込みで働かせることにしたのです。しかし、結局、口が堅いことを条件に採用されたその人物は、ただの『監視役』でしかなく、母子の関係改善に気を利かせることができるような者ではありませんでした。
一方、『母』からすれば、『人形遊び』の終焉は、そのまま辛い現実に直面させられるということを意味します。
それまで『彼女の家庭』は幸せで、人形劇の『親子の愛』は麗しく、つつましやかで慈しみに満ちたものでした。そんな彼女にとって、来栖鏡也という少年は、『愛してもいない男との間に生まれた自分の子供』という、最も直視したくない現実だったのです。
しかし、彼女の思い通りに動く都合のいい『人形の子供』は、すでに『壊れて』しまっていました。だから、彼女には他に逃げ場はありません。
そこで彼女は、彼を殺そうとしました。まるで殺してしまえばその現実がなくなるとでも思っているかのように、執拗に彼の命を狙い続けました。
彼が死なずに済んだのは、『監視役』のおかげでもありましたが、何より彼自身が『母』から一時たりとも目を離さなかったおかげでもあります。
『人形の子供』であることをやめ、実の母から命を狙われることになった彼が、何を思ってその後の日々を過ごしてきたのかは、わたしの調査でもわかりませんでした。
中学校に入学した彼は、『人並み』に勉強し、漫画を読み、ゲームをして、ネットを嗜む日々を過ごしたようです。他人の真似をすることで、失われた時間を取り戻せると思ったのか、あるいは自分が『人形』ではなく、『人間』であることを実感したかったのか……そこまではわかりません。
ただ、思い出されるのは、わたしがマスターと初めて接触したあの日、彼が口にしたあの言葉です。
──恨みで人を殺すほど、僕は『人間ができて』いないんだ。
いずれにせよ、彼があれほどまでに『人の心』の在り方を重視するようになったのには、彼のこうした生い立ちが影響していることは間違いないでしょう。
次回「第4章登場人物紹介(下)(ヒイロによる情報整理)」




