第80話 彼女の楽しみ
マスターに肩を掴んで揺さぶられ、ようやく『彼女』は目を覚ましました。
「ん? ふわぁ? あ、おはよう、キョウヤ」
「おはよう。メルティ」
マスターは当然のように、『彼女』のことをメルティと呼びました。すると『彼女』は、不思議そうに首をかしげます。
「メルティ?」
「うん。どうやらそれが、君の本当の名前らしい」
マスターがそう言うと、『彼女』は目をぱちくりと瞬かせた後、ゆっくりと体を起こしました。
「ふーん。……うん。わかった」
やはり、本当の名前に対しても『彼女』は大した反応を示しません。それを見て、アンジェリカの表情がますます悲しげに歪んでいきます。しかし、マスターはまったく気にした様子もなく、『彼女』に問いかけました。
「質問してもいいかい?」
「うん! 答えたら、遊んでくれる?」
『彼女』は今にも立ち上がりそうな勢いで、声を張り上げました。
「後でね。じゃあ、聞くけど……君はどうして、そんなに『遊び』のことばかり考えているのかな?」
思わせぶりに言っておきながら、マスターの質問はあまりにも意外、というか本題に関係ないように感じられるものです。しかし、一方の『彼女』はと言えば……その問いに真剣な顔で考え込んでいるようでした。
それからしばらく、沈黙の時間が続いた後、『彼女』はゆっくりと口を開きます。
「……楽しみだったの」
そう呟いた『彼女』の声は、先ほどまでとは打って変わって静かなものでした。
「もうすぐ……だったの。あともう少しだって、言われてたの」
「え?」
何かを思い出すかのようなその言葉に、アンジェリカは『彼女』のことを食い入るように見つめました。
「遊んであげてねって、言ってもらったの。嬉しかったの。だって、はじめての……『ともだち』になってくれるかもしれなかったから。だから、早く遊んであげたかったの」
「まさか……」
「待ってたの。……でも、待ちきれなかったの。すごく……すごく楽しみだったから」
「……う、嘘。そんな、それじゃあ……」
アンジェリカの金色の瞳には、再び大粒の涙が溢れ出していました。そんな彼女の肩をマスターは優しく撫でるようにして頷きました。
「小さい子にとって、身近なところで赤ちゃんが生まれるっていうのは、一大イベントなんだぜ? それこそ、そわそわしちゃって落ち着かなくなるくらいにね。彼女が君が生まれる場所についてきてしまった理由……そんなの、明らかじゃないか」
「あ、うう……」
とうとうアンジェリカは顔を押さえ、激しく身体を震わせながら泣き始めてしまいました。
「……メルティ。良かったね。君はやっと、楽しみにしていた相手と遊ぶことができたんだよ」
「本当? 嬉しい!」
『彼女』──メルティは、マスターの言葉に目を輝かせて笑います。
それは、どこまでも見る者を魅了する、素敵な笑顔でした。
「……アンジェリカちゃん。これでもまだ、彼女が死んでいた方が良かったって、思うかい?」
「……いじわる」
マスターに悪戯っぽく声を掛けられたアンジェリカは、顔の涙を拭きながら、恨みがましげにマスターを睨みました。そして、四つん這いの体勢で床を這うようにメルティの元に近づいていきます。
「……メルティ。ううん、メルティお姉ちゃん。これからも、わたしと遊んでくれる?」
目と鼻の先ほどの距離に近づき、アンジェリカは彼女にそう言って笑いかけます。すると彼女は、先ほどにもまして輝くような笑みを浮かべ、元気よく返事を返しました。
「うん! アンジェリカは、『ともだち』だから。また、遊ぼう!」
その笑顔を目の当たりにしてアンジェリカは感極まったのか、そのまま彼女の胸元に飛び込み、再び泣きじゃくり始めてしまったのでした。
──それからわたしたちは、メルティを連れて『アトラス』の砦を後にしました。800人以上いた彼らのうち、『死んでいない者』の数は500人を下回っています。死者のほとんどはアンジェリカの《スカーレット・ストーム》によるものか、メルティの乱入によるものです。
ちなみに、集まってきていた『愚者』については、迎撃していた『アトラス』の大半をメルティが殲滅した時点で、いつの間にか蜘蛛の子を散らすようにいなくなっていました。彼らの行動原理だけは、未だに測りかねるところがあります。
そして、最後に砦に残されたのは、数百人に上る『存在意義』を失った『アトラス』たちです。互いを認識することすらできず、絶望の中で叫び続けていましたが、マスターのスキルの影響によるものか、わたしたちにはそんな姿を哀れに思う気持ちすら起こりません。
マスターとしては思うところがあったのか、彼らに関して、こんな言葉を口にしていました。
「本当に絶望すれば、自分で死ぬことはできるんだ。その死さえこの世界に影響しないとは言え、苦しみが永続するわけじゃない。楽になるかどうかは彼ら自身が決めればいいさ」
一方、同行させることになったメルティについてですが、大人しくしてもらうようになるまでには、色々と苦労もありました。なぜと言って彼女は、事あるごとにマスターやアンジェリカに『遊び』をせがんでくるのです。
そのため、最終的にはアンジェリカが『禁じられた魔の遊戯』の勝者の権利を使い、『正しい遊び方』を覚えるまで勝手な『遊び』は禁止だと命令することで事なきを得たのです。
移動中、せっかくなのでわたしたちは、メルティに様々な質問をぶつけてみました。実際のところ、彼女の幼さは『精神性』に関わる部分だけのようであり、理解力などの面では実年齢(十八歳)に近いものがありそうです。
もっとも、詳細な記憶を持たない彼女には、『オロチ』に飲み込まれた後、どんな紆余曲折を経たのかまでは説明できないようでしたが、それでもわかったことがあります。
どうやら彼女、『愚者の参集』に同行して暴れていたのは、『愚者』の本能によるものではなかったようです。
「だって、皆の言うことはよく聞きなさいって……言われてた気がするから」
彼女はおそらく、『愚者』の中で育ってきたのでしょう。意思疎通は不十分でも、彼女のスキル『砂漠に咲く一輪の花』には、力で圧倒した相手を従属させる効果があります。
日々の糧をそれら従属させた『愚者』に調達させつつ、『昔の言いつけ』に従い、周囲の『愚者』に同調するような行動をとってきた。それがエレンシア嬢の時や今回の時のような彼女の行動につながっていたようです。
「それにしても、マスターはどうして、彼女が『かつてのメルティ本人』であると考えたのですか? 彼女が盛んに『遊び』をしたがっていたというだけでは、マスターがそれを確信する理由としては弱いと思うのですが……」
わたしは道中、そのことが気になってマスターに尋ねました。すると彼は、事もなげに肩をすくめて言いました。
「そりゃあ、決まってるさ。彼女がしきりに言ってた言葉は、他にもあるだろ?」
「え?」
「ほら、『夜更かしはいけない』ってやつ。……アリアンヌさんが『人形の子供』を寝かしつけている時にも同じことを言ってたし、可能性は十分あると思ったのさ」
「……よく、そこまで何気ない言葉を覚えてらっしゃいましたね」
わたしがそう言うと、マスターは少し暗い顔で頷きました。
「まあ、あの時のことはね。少し僕にとっては衝撃の大きい場面だったからさ……」
そう言ったきり、黙り込んでしまうマスター。
あの場面を思い出したことで、己の忌まわしい過去について考えてしまったのでしょう。
「申し訳ありません。余計なことを聞いてしまいました」
「いや、いいんだよ。前にも言ったけど、僕は自分の過去を忘れたいわけじゃないんだ。ただ、思い出したりしたときには、どうしても気分が暗くなっちゃうだけでさ」
今までになく沈んだ表情のマスターに、わたしたちは何も声をかけることができず、顔を見合わせてしまいました。アンジェリカやエレンシア嬢に至っては、わたしに問いかけるような目を向けてきます。
……マスターの許可がある以上、むしろこの件は彼女たちにも伝えておいた方がいいのかもしれません。知らないままで彼の心の傷に不用意に触れてしまうことは、彼女たち自身にとっても避けたいことに違いはないでしょう。
気まずい雰囲気が漂う中、それを打破したのは、この中では最も空気が読めない彼女でした。
「キョウヤ、寂しそう……」
「え? ああ、メルティ。大丈夫だよ。心配してくれて、ありがとう」
マスターは力なく微笑んでそう言いましたが、メルティはそんな彼を見て、軽く小首をかしげています。
「……やっぱり、寂しそう。うん。寂しい時……こうするとあったかくなるよ」
彼女はひとつ頷くと、周囲に流れる景色をぼんやりと見つめるマスターの前まで身体を移動させました。
「え?」
「はい。これで寂しくないでしょ?」
彼女は優しく笑いながら、マスターの顔を自分の胸元にしっかりと抱きしめました。
「あ」
わたしたちは、思わず間の抜けた声を出してしまいました。
言動の幼さに忘れてしまいがちですが、メルティの胸は十分に大きく、張りのある肌艶はどんな男性でも生唾を飲み込むほどの美しさがあります。そんな彼女が裸同然の恰好のまま、マスターの顔を胸元に埋めさせるようにして抱きしめたのです。
これはきっと、マスターが大喜びで彼女の胸に顔を擦り付けるに違いない。それがこの瞬間における、わたしたち四人の共通認識でした。
ところがです。
「……う、うわあああ! ちょ、ちょっと? は、離れよう! ほら、ね? っていうか、目のやり場に困るし、誰か……ほら、ヒイロ! なんか服を出してあげて!」
思い切り狼狽えた声を上げ、マスターは無理やりメルティの身体を自分から引き離したのです。これには一同、唖然としてしまいました。
「えっと……マスター? どうしたのですか?」
わたしは思わず、そんな質問をしてしまったのですが、マスターはそれどころではないようです。
「いや、どうしたもこうしたも……服、お願いできる?」
切実な顔で言ってくるマスターの要望は無視できません。わたしは手早くメルティのための服を【因子演算式】で作り出しました。
それから、わたしたちはマスターを除く四人がかりで嫌がる彼女にどうにか服を着せつつ、あらためてマスターに問いかけました。
「いつもならこんな場面では大喜びしそうなのに、今回はどうしたんだ?」
「そうですよ。キョウヤさんなら、これ幸いとばかりに頬ずりの二、三回はするでしょうに」
「キョウヤ様? 大丈夫ですの? 熱など、ありませんこと?」
「やはり、この前の【因子干渉】が早すぎたのでしょうか……」
四人それぞれの言葉に対し、マスターは少しだけ傷ついたような顔になりました。
「みんなが僕のことをどんな目で見てるのか、よーくわかったよ……」
まあ、それは自業自得というものでしょう。
「……なんて言うかさ」
マスターは、着せられたシャツと悪戦苦闘するメルティを横目で見つつ、ため息を吐きました。
「僕としては……『頭脳は子供、身体は大人』みたいな女の子に恥じらいも何もなく抱きしめられるとか……かえって罪悪感がわいてきたりして、恥ずかしいんだよね。もうちょっとこう……恥ずかしがってくれないと」
「……………………」
全員、この台詞には絶句するしかありません。これまでわたしは、『恥ずかしがる女の子を見るのが好きだ』というマスターの趣味嗜好は、まったく理解できないというほどに変態じみているとまでは思ってはいませんでした。しかし、ここにきて見方を変える必要がありそうです。
「あれ? なんでみんなして、微妙な表情してるの?」
一人、きょとんとした顔をするマスターに、わたしたちは一斉に肩を落としてため息を吐いてしまうのでした。
第4章最終話です。
次回「第4章登場人物紹介(上)(キョウヤの過去)」




