第79話 焦熱地獄の女王
『彼女』の姿は、『美しい』の一言に尽きました。
その姿を見てしまえば、男女を問わず、それどころかあらゆる種族の生物を問わず、同様の感想を抱くに違いありません。それはまるで、この世の美という美をかき集め、そのもっとも純粋な部分のみを結晶にして磨き上げたかのようでした。
まず、目に飛び込んできたのは、黒く艶やかな髪です。伸び放題に伸ばされたその髪は、彼女の膝のあたりにまで達しています。白く美しい肌は珠のようになめらかで、纏わりつく黒髪とのコントラストも相まって、まるで光を放っているかのようでした。
鎧の下に纏っていたのは、胸の部分と腰の部分を申し訳程度に隠すだけの布きれです。ですが、そんなボロ布のようなものでさえ、彼女の美しさを引き立てているかのように見えてしまいます。
外見上から判断する限り、恐らく二十歳には達していないでしょう。しかし、一方でその身体は、この上なく女性らしい曲線を描いていました。胸の形や腰のくびれはもちろんのこと、肩のラインや脚線の美しさでさえ、もはや芸術レベルという他はありません。
「女の子だから綺麗だとか……そんなレベルじゃないね」
さすがにマスターも、彼女の美しさには見とれてしまっているようです。片時もその姿から目を離さないまま、ため息混じりに呟きました。
とはいえ、注目すべき点はそれだけではありません。
『彼女』の身体には、他にも大きな特徴がありました。
「あれは……『愚かなる隻眼』ですの?」
「ええ、光のスペクトルから言って、恐らく間違いはないかと」
エレンシア嬢の問いかけに対し、わたしは努めて平静を装った声で答えました。
「で、でも……あ、あんなに?」
そう、『あんなに』です。
『彼女』には、『愚かなる隻眼』がありました。
『惨禍』級以上の『愚者』には2個、実在が怪しまれている『絶禍』級に至っては3個、それぞれ保有しているとされる『愚者』特有の『魔力を減衰する魔法』の源たる真紅の瞳。
それが『彼女』には、『7個』も存在しているのです。
とはいえ、彼女の顔には『人としての通常の瞳』の位置に、宝石のように美しい黒い瞳がありました。
ではその7つがどこに存在しているのかと言えば……
額の中央、左右の鎖骨の上部、左右の肩の前面、左右の脇腹の計7か所です。
しかし、そのうち明らかに『瞳』と言える外見のものは、額の中央で縦長に開いた『眼窩』に収まったものだけです。その他の各部位に存在するそれは、『瞳』の形を模した金属板のようなものでした。
先ほどからの『彼女』の言動を聞く限り、どうやら全身を覆っていた鎧は、『愚かなる隻眼』による魔法の減衰効果にとっては、邪魔なものだったのかもしれません。
「……ふうん。そう考えると、ますますアンジェリカちゃんの魔法が効かなくなりそうだね。もしかして、彼女もそれが分かっていて『魔法禁止』を選ばなかったのかな?」
わたしの説明に頷きながら、マスターは少し難しい顔をしています。アンジェリカの魔法が効かないとなれば、身体能力で劣る彼女の勝ち目は、さらに薄くなってしまうでしょう。ましてや唯一の利点とも言うべき、背中の翼による飛行までもを封じられているのですから。
ふと見れば、アンジェリカも驚きのあまり身体を硬直させてしまっています。目を丸く見開き、小さく身体を震わせるその姿は、彼女の受けた衝撃の大きさを物語っているようでした。
「アンジェリカちゃん。大丈夫?」
マスターはアンジェリカに心配の声を掛けましたが、彼女はここで、ようやく我に返ったように首を振りました。
「あ、ああ……キョウヤ。わたしは……何が何でも彼女に負けるわけにはいかなくなった」
アンジェリカの声は、意外なほどに力強いものでした。
「……これは、一体何の冗談だ? どうしてこんなことが? わたしは、わたしは……」
ぶつぶつと呟き続けるアンジェリカ。するとここで、『彼女』が弾むような声で話しかけてきます。
「うん。これですっきりした。じゃあ、遊ぼう! アンジェリカ!」
『彼女』は大きく身を屈ませると、次の瞬間、解き放たれた矢のようにアンジェリカへと飛び掛かりました。白く華奢な手で握り拳をつくり、その拳に『先ほどまで大剣だったモノ』を鋭い刃のついた真紅の手甲に変えて装着すると、そのまま強烈な一撃をアンジェリカへと叩きこみます。
「うあああ!」
アンジェリカの《クイーン・インフェルノ》の効力も、真紅の輝きを放つ7つの『隻眼』によってほぼ無効化されてしまったようです。彼女は両手を交差するようにしてガードしたものの、恐ろしい勢いで後方に吹き飛ばされてしまいました。
腕から小さく血しぶきを上げながらも、すぐに一転して起き上がり、続く追撃を横に跳んで回避するアンジェリカ。
「アンジェリカさん! どうしましょう、キョウヤ様……」
アンジェリカを襲う立て続けのピンチに、リズさんが焦りの声を上げてマスターの袖口を掴みました。
「大丈夫だよ。……彼女は絶対に勝つ。だから、信じて待とう」
実を言えば、数百人の『アトラス』を『殺害』したマスターには、今やこの空間を『どうにかする』ことのできそうなスキルも備わっています。しかし、彼にその気がない以上、黙って見守るしかなさそうでした。
そうしている間にも、『彼女』は再び跳躍し、一瞬でアンジェリカとの間合いを詰めてしまっていました。
「く!」
立て続けに繰り出される攻撃は、大振りだった大剣から小回りが利く拳に変わった分だけ、回避しづらくなったようです。アンジェリカの身体を時折、鋭い突起のついた拳がかすめ、次々と出血箇所が増えていきます。
「どうしたの? もっと遊ぼうよ!」
立て続けに繰り出される攻撃をかわすだけかわしながら、反撃をしようともしないアンジェリカに、不満げな声を上げる『彼女』。
「……ひとつ聞きたい」
「なあに?」
攻撃の手は休めないまま、『彼女』はアンジェリカに返事をしました。
「お前は、自分のことを何も知らないのか? 名前も生まれも?」
空を飛ぶことを禁止されているアンジェリカですが、地上で羽根を使った体勢制御を行うことぐらいであれば、『禁止事項』に抵触しないようです。問答の最中も、彼女はそうして身体能力の不利を補いつつ、回避を続けていました。
「名前? 『アトラス』は悪魔とかアスタロトとかって呼ぶけど……名前なんて、どうでもいい。生まれ? 知らない! アスタロトは遊べれば、それでいい!」
「……そうか。ならお前は……やっぱり、別のモノなのか」
少し悲しげな顔をしたアンジェリカは、その直後、大きく飛び上がりました。
「あ! 飛んじゃダメって言ったのに!」
宙を舞うアンジェリカを見上げ、悔しげに声を上げる『彼女』。黒い長髪を振り乱し、地面を砕かんばかりに素足で地団太を踏んでいます。
「残念だが、これは飛んでいるわけじゃない。空気の勢いで『跳ねた』だけだ」
そう、たった今アンジェリカがやったことは、空気の熱膨張を利用して、自分の身体を高く跳ね上げるという荒業でした。熱を操ることは、空気を操ることに通じる。これもまた、彼女の《クイーン・インフェルノ》の有効な使い方なのでしょう。
とはいえ、『跳ね飛ばされた』だけで、羽根の使用はできないとなれば、本来、空中での身動きはできないはずです。
「よーっし! じゃあ、アスタロトも跳ねる!」
それを理解してのことかは不明ですが、一声叫ぶや否や、『彼女』は大きく膝を曲げ、勢いよく跳躍しました。しかし、それでもアンジェリカが今いる高度には届きません。
「伸びろー!」
ところがここで、『彼女』は手に巻いた手甲を鞭のように長く伸ばし、宙を舞うアンジェリカの身体に叩きつけようとしました。
「《クイーン・インフェルノ》……わたしの『想い』を加熱する! わたしには……長く鋭い『オリハルコンの爪』がある!」
風を切って迫りくる『真紅の鞭』に対し、アンジェリカは特殊スキル『悪魔は嘘を吐かない』によって生み出した『長く伸びた虹色の爪』を叩きつけました。すると、それまでどんな魔法にも熱にも影響を受けなかった『彼女』の武器は、甲高い音と共に斬り裂かれ、半ばから先を失ってしまったのです。
さらにアンジェリカは、自分の身体を何度も熱操作による膨張空気にバウンドさせながら、跳躍が終わって落下体勢に入った『彼女』へと迫ります。
「これでわたしの勝ちだ!」
空中で身動きの取れない『彼女』は、とっさに自分の武器を扇形に変えようとしましたが、一度半分に切られているためか、思うような形に変化できませんでした。
「形に依存しない分、想定しない形に弱い! それが万能に見える『ヴァリアント』唯一の欠点だ!」
アンジェリカは自身の『嘘』から生み出した『オリハルコンの爪』を、彼女の胸元めがけて繰り出しました。
それは寸分たがわず心臓の位置を貫き、鮮血を辺りにまき散らします。
「あは! 負けちゃったー!」
そして、『彼女』が嬉しそうな叫び声を挙げた次の瞬間、周囲の空間が音を立てて砕け散ったのでした。
──『禁じられた魔の遊戯』の空間が解除された後、わたしたちは砦三階のバルコニーの上にいました。
「か、勝ちましたの?」
「……ああ、なんとかな」
エレンシアの問いかけに、アンジェリカはぐったりとした様子で答えると、そのまま壁に寄り掛かるようにして、ずるずると腰を下ろしていきます。
「……驚きましたね。アンジェリカさんのあのスキルは、『オリハルコン』の爪を生やすなんてことまでできるのですか?」
「いや、普通にやったのでは、わたしの『思い込み』の力が足りないレベルの無茶だ。だが、キョウヤの《キング・コキュートス》を見ていたからな。……《クイーン・インフェルノ》にもそんな形の応用ができないかと思って、ぶっつけ本番でやってみた」
「……ぶっつけ本番ですか」
わたしはさすがに呆れてしまいました。あの大一番でそんな賭けに出た挙句、それを成功させてしまうのですから、彼女もただものではありません。一方、マスターは心配そうにアンジェリカに声をかけています。
「随分、無茶したね。あんな勢いで跳ね飛ばされたら、痛かったんじゃないか?」
「大したことはない。夜の『ニルヴァーナ』は、昼にもまして頑丈だからな」
とは言いながらも、彼女はひどく疲れた顔をしています。
わたしがそのことを指摘すると、彼女は小さく首を振りました。
「いや、疲れたのは精神的な面だ。まさか……こんなことになるなんて思わなかったから」
そう言って彼女は、自分の近くに倒れ込んだままの『彼女』に目を向けました。黒く長い髪、抜けるような白い肌。艶めかしい肢体をほとんど隠さず、外気にさらした妖艶なその女性は、しかし、無邪気な子供のように幸せそうな顔で目を閉じています。
「アンジェリカちゃんは何かに気付いたみたいだったけど……」
マスターはそんな『彼女』を見下ろしながら、アンジェリカに問いかけます。するとアンジェリカは、その顔を悲しげに歪ませて言いました。
「……最初に気になったのは、彼女が大剣の『形を変えた』時だ。わたしはよく似たものを知っているから……いや『持って』いるからな」
「え?」
「そのうえで……彼女の顔を見た。その時点でほとんど確信したよ」
「どういう意味だい?」
「髪の色や長さ、『隻眼』に気を取られずに彼女をよく見てみろ。誰かに似ていないか?」
そう言われて、わたしたちは改めて横たわる彼女を見ました。そしてわたしは、自らの失態に気付かされてしまったのです。
「……申し訳ありません。わたしがちゃんと、比較検証していれば明らかでしたね」
確かに彼女の言うとおり、もっと他に注目すべき点があったのです。
「……アリアンヌさんに、そっくりだ」
これにはさすがに、マスターも驚きに声を震わせています。
「ど、どういうことなんですか? どうして……『愚者』であるはずの彼女が、『サンサーラ』の女性に似ているだなんてことが……」
リズさんの疑問に対し、確実な答えを返せるものはこの場にはいません。しかし、どうしても何らかの推測をしろと言われれば、点と点をつなぐことは不可能ではありませんでした。
「十五年前、当時三歳だったアリアンヌさんの娘メルティは、『惨禍のオロチ』に『生きたまま』で丸呑みにされた。そして、ここにいる彼女は、『愚者』でありながら、『サンサーラ』の中でもメンフィスさんの一族しか使えないはずの『ヴァリアント』を使ってみせた」
淡々と語るマスターの言葉を聞くうちに、リズさんとエレンシア嬢の顔は驚きに染まっていきました。
「そ、そんな……それでは、この子は……」
リズさんが声を震わせながら続きを言おうとした、その時でした。
「違う」
アンジェリカが、ぽつりとつぶやきます。
「同じ顔をしているだけで、こいつはメルティなんかじゃない。その証拠に、こいつは自分の『メルティ』という名前さえ、知らなかった」
ぶつぶつと、自分に言い聞かせるように言うアンジェリカ。しかし、マスターはそんな彼女の肩に手を置きながら首を振ります。
「決めつけるのは良くないぜ。小さい頃にショックな出来事があったのなら、記憶ぐらい失ってたっておかしくないじゃないか」
と、マスターが言った、その時です。アンジェリカは弾かれたように顔を上げ、その金色の瞳からぼろぼろと涙をこぼしながら叫びました。
「で、でも! こんなのって、あんまりよ! メンフィスもアリアンヌおばさまも……彼女のことを死んだと思ってて……だから思い出に決着をつけようと、やっと前向きになれたのに……なのに、よりにもよって『愚者』になっているだなんて……」
ぐすぐすと嗚咽を漏らして泣きじゃくるアンジェリカ。
「こ、こんなことなら、生きてない方が良かった……。こんな、こんな残酷なこと……どうやって二人に伝えれば……いっそのこと、死んでてくれた方が……」
しかし、ここでマスターの手がアンジェリカの口元を塞ぎました。
「むがっ……な、何をするのよ……」
「それ以上は言っちゃ駄目だよ。彼女が生きている。二人にとって、それ以上に嬉しいことはないんじゃないのかな?」
「で、でも『愚者』なのよ? 何も覚えてないし、馬鹿みたいに暴れて、殺して……こんなの、絶対に『別モノ』じゃない! 生まれ変わって化け物になっただけとしか……思えないわよ!」
マスターの手を口元から引きはがし、狂ったように叫ぶアンジェリカ。するとマスターは、横たわる『彼女』の傍にしゃがみこみながら言いました。
「ねえ、アンジェリカちゃん。前に聞いた話じゃ、彼女は君が生まれるとき、自分のお母さんを手伝いたくて、君のお母さんの出産場所についてきてしまったって言ってたよね?」
「え? ええ……。母親想いの女の子だって言ってたわね」
「でもさ……三歳の女の子が、これから赤ん坊が生まれようって時に、そんなことを考えるものかな?」
「何が言いたいの?」
意味が分からず問い返すアンジェリカに、マスターは優しく微笑みかけました。
「君には、優しくて素敵な友達のお姉さんがいるって話さ」
次回「第80話 彼女の楽しみ」




