第73話 氷結地獄の王
身体強化の魔法を発動させた蛮族のリーダーは、軽く膝を曲げたかと思うと、次の瞬間には恐ろしい勢いで上空に浮かぶアンジェリカの元まで跳躍していきました。
「やっぱり、来たか!」
ロケットのように上昇していく蛮族のリーダーは、ひときわ巨大な赤い盾を両手で掲げ、アンジェリカが降り注がせる『熱の雨』を防いでいます。
「グオオ! くそ! あぢいぃぃ!」
しかし、さすがに彼女の《クイーン・インフェルノ》による『熱の膜』を突破する際には、盾の原料である対魔法銀が溶け出したようです。彼は熱さのあまり苦悶の声を上げながら盾を投げ捨て、無事だった右の拳をアンジェリカへと振るいました。
「落ちやがれ!」
「く!」
凶悪な力で振るわれる拳も、さすがに不安定な空中であったせいか、威力そのものはそれほどでもありません。しかし、体重の軽いアンジェリカは、その一撃に大きく吹き飛ばされてしまいました。
「へへへ! まさか女とはな! まだ生きてるようなら、たっぷりと楽しませてもらうぜえ! 最近は『愚者狩り』だの『ニルヴァーナ』のガキさらいだの、女っ気のない仕事ばかりだったからなあ!」
蛮族のリーダーは、巨体に見合わぬ軽やかな身のこなしで着地すると、アンジェリカが吹き飛ばされた地点へと走り寄っていきます。
──しかし、その直後のこと。
「あんなに高い位置までジャンプするとか、さすがに僕も予想外だったな」
蛮族のリ-ダーに並走するような形で近づき、笑いかけるマスター。
「な! なんだ、てめえは!」
強化された肉体で走る自分に苦も無く並走する彼の姿に、蛮族は驚愕の表情を浮かべているようです。
「おっと、暴力はいけないなあ」
マスターは蛮族が放った裏拳をあっさりと回避し、その腕をとって肩に担ぐように投げ飛ばしました。
「うがあ! いってええ!」
肘関節を逆方向に極められながらの投げを受け、苦痛に身悶える蛮族を尻目に、マスターはアンジェリカの元へと駆け寄りました。
「大丈夫かい? アンジェリカちゃん」
マスターが向かった先には、地面に墜落する前に体勢を立て直し、ふらふらと低い位置を飛ぶアンジェリカの姿があります。
「ばか! わたしよりもエレンの方が危険だろうが! どうしてこっちに来た!」
しかし、彼女はそんなマスターに咎めるような言葉を返しました。
「いや、こっちの方が想定外だったからさ。エレンについては、大丈夫。ちゃんと『守ってる』からね」
「え?」
意味の分からない言葉に首をかしげるアンジェリカですが、そんな問答を続けていられる余裕はありませんでした。
「……てめえら、何もんだ?」
声のした方を見れば、いつの間にか立ち上がった蛮族のリーダーが、赤みを帯びた偃月刀を右手に構えて立っていました。痛めたはずの肘も、既に治癒しているようです。
「これから死ぬ相手に名前を教える義理はないね。……と言いたいところだけど、さっき口走ってた言葉も気になるし、君だけは生かして捕えてあげよう」
「なんだと? ふ、ふざけやがって……。今すぐぶち殺してやろうか?」
凄んで見せながらも蛮族のリーダーは、自信満々に物騒な言葉を放つマスターに気圧されたような表情を見せています。
「アンジェリカちゃんは一応、エレンのフォローに向かってくれるかい? さすがに彼女は戦いなれてないみたいだし、いくら『守られている』とは言っても心細いだろうからさ」
マスターは『マルチレンジ・ナイフ』を長剣形態で構えたまま、アンジェリカちゃんに声を掛けました。
「……わかった。じゃあ、ここは任せたぞ」
「ふざけんな! 野郎が相手じゃつまらねえんだよ! くそが! こんなことなら下手な用心なんぞしねえで、あの村の女どもで遊んでやりゃあ良かったぜ!」
飛び立っていくアンジェリカの背中を見つめる蛮族のリーダーも、マスターという油断のならない敵を前に迂闊な動きをとるつもりはないようでした。
「……なんていうかさあ、いくらなんでも君、下半身で物を考え過ぎじゃない?」
「ああ? くそガキが! どんな手品で俺を投げ飛ばしたか知らねえが、そんな手が何度も通じると思うなよ?」
「会話も成立しないか。まあ、いいや。じゃあ、まともに勝負してやるよ。おじさん」
気取った仕草で長剣を蛮族のリーダーに突き付けたマスターですが、それがさらに相手の怒りを煽ったようでした。蛮族は怒りの声を上げながら、赤い偃月刀を恐ろしい勢いで振り下ろしてきます。
マスターはそれに対し、わずかに身体を捻るような動きを見せました。回避行動には違いないようですが、あんな小さな動きでは到底かわし切れないでしょう。
が、しかし──
「な!?」
マスターの身に着けた『リアクティブ・クロス』から発生した反発衝撃波は、偃月刀の軌道をわずかに逸らし、結果として蛮族の斬撃は虚しく空を切ったのです。
「ベクトルとかって、高校の数学で習ったばっかりだったっけ?」
などと呑気な言葉を口にしながら、マスターは一気に間合いを詰め、虹色に輝くナイフで蛮族の身体に斬りつけました。
「ぐあ!」
マスターは意図的に手加減していたらしく、斬撃は相手の身体をごく浅く傷つけただけです。
マスターの言う『ベクトル』。それはすなわち、『力の向き』です。
わたしの作った『ヴァーチャル・レーダー』には、自分に迫る攻撃の速度や向きを計測して表示する機能もあります。マスターはそれを見て、直撃すれば『リアクティブ・クロス』でも防げないことを瞬時に理解したのでしょう。さらには単に大きく避けるのではなく、反発衝撃波を利用した最小限の動きで、かつ相手の体勢を崩す形での回避行動をとったのです。
ですが、これは言うほど簡単なことではありません。力の向きや速度がいかに目に見えていようと、瞬時に適切な角度を計算して身体を捻るなど、以前のマスターには難しかったでしょう。
それが可能となった秘密は、マスターの首元に巻かれている布状の『法術器』《メイドさんのご奉仕》にありました。……ちなみに、このネーミングはもちろん、マスターによるものです。
特定の理を器に刻む『法学』の魔法の特性上、本来ならば、ひとつの『法術器』には、ひとつの効果しかありません。
それは法術士たちが持つ、崩しがたい固定観念です。長年にわたって特定の師匠に魔法を習い続けている者にとっては、なおさらのことでしょう。
しかし、リズさんは《メイドさんのご奉仕》の作成に当たり、その『効果』を『マスターの助けになること』という、きわめて漠然としたものとしていました。
もちろん、それではなかなか上手く行くはずもないのですが、彼女はわたしの助けを借りつつも二週間、一心不乱に努力を続けました。
そして──ついにリズさんは、マスターの基礎的能力全般を引き上げるほか、必要に応じて様々な効果を発揮する『汎用型法術器』を生み出してしまったのです。
このことは、地味ながらもマスターの『空気を読む肉体+』などにも好影響を与えるものであり、ますますもってリズさんの献身ぶりには頭が下がるばかりでした。
「僕のメイドさんは、本当に優秀でね。掃除・洗濯・料理は当然のこと、こうして離れていても、『勉強』は教えてくれるし、疲れは癒してくれるし、傷だって手当てしてくれるんだぜ。あとは膝枕でもしてくれたら最高なんだけど……それは道具にやってもらうより、実物の方がいいかな?」
マスターは蛮族のリーダーに虹色の切っ先を向けたまま、自慢げな笑みを浮かべて見せました。
「……舐めやがって! こ、この程度の傷を負わせたぐらいで、俺様に勝てると思ってんじゃねえ! 《バースト・バイブレータ》!」
蛮族のリーダーの身体が、雄たけびと共に激しく痙攣を起こしました。事前に調べた限りでは、比較的高位の『アトラス』たちは、周囲にあるものを自身の肉体の振動で破壊する魔法を使うことができるとのことでした。
「俺に近づきすぎたのが仇になったなあ! 死にやがれ!」
彼の言葉どおり、この魔法は至近距離で浴びれば回避不可能なものです。本来ならその身体の震えには、地面を振動させ、空気を振動させ、ついにはマスターの身体を粉々に打ち砕き、水風船のように破裂させてしまうだけの力があるはずでした。
しかし、マスターは微動だにしません。
「な! なんだと? いったい、どういうことだ! なんで死なねえ! い、いや、なんでなにも壊れねえんだ!」
ようやく事態に気づき、驚愕の声を上げる蛮族のリーダー。
そんな彼に、マスターは冷ややかな言葉を浴びせました。
「とっくに『仕込み』は終わってるんだよ。この無能が。自分の魔法が発動しないことにも気づかないままブルブル身体だけ震わせるとか……ほんとに君って『王魔』なわけ?」
馬鹿にしたように笑うマスター。その言葉に、蛮族のリーダーは周囲を注意深く見渡します。そこで、彼はようやく気づきました。
周囲を囲む、『透明』な障壁の存在に。
「こ、氷の壁……?」
「へえ? 君にはそんなものが見えるのかい? 僕には見えないけどね」
「き、貴様……何をした!」
「……《キング・コキュートス》。『概念冷却』とでも言うべきものだよ」
三種の『冷却魔法』のうち、最後のひとつ。マスターはこの魔法によって、対象の心の中の概念──たとえば、『魔法を使う』、『攻撃を仕掛ける』、『仲間を呼ぶ』、『逃走する』といった特定の行動に対するイメージ──そのものを冷却し、あらゆる行動を完全に封じることができるのです。
もっとも『概念冷却』自体は、もっと広い範囲での応用ができる魔法です。今回に関しては、いわば『心の熱』、すなわち『意欲』を凍結する魔法として使用したといったところでしょう。
この魔法の恐ろしいところは、一度発動すればマスターが解除しない限り、永久にその効果が持続するという点でしょう。逆に欠点があるとすれば、夜にしか使用できないことと、対象の『心』に作用させる場合には、相手の『傷口』に直接魔力を注ぐ必要があるということぐらいでしょうか。
「ち、ちくしょう! なんだよ、これ? こ、こんなの……は、反則だ」
「じゃあ、その場で『凍りついて』待っててね。他のお仲間を皆殺しにしたら、ちゃんと話を聞きに来てあげるからさ」
マスターはそう言うと、見えない壁に閉じ込められたまま徐々に精神を凍りつかせていく蛮族のリーダーに目も向けず、エレンシア嬢たちがいる場所へと走り出したのでした。
『開かれた愛の箱庭』の芳香が通じなくなった直後のこと。エレンシア嬢はと言えば、アンジェリカが心配していたとおり、かなり危機的な状況に陥るところでした。
彼女の美貌に目の色を変えた『アトラス』の男たちが、獣欲に満ちた声を上げながら、彼女めがけて一斉に駆け寄っていったのです。
もちろん、周囲には彼女自身が生み出した植物がある以上、『ユグドラシル』としての彼女には、ほぼ不死身の生命力があります。しかし、相手は彼女を殺そうとしているのではなく、犯そうとしているのです。それはある意味、彼女にとっては死よりも恐ろしいことでしょう。
「く! 『茨』よ!」
とっさの判断に迷った彼女は結局、使い慣れない魔法ではなく、自らの髪から生まれた『茨』で対抗しようとしました。しかし、相手は『王魔』随一の身体能力を持つ『アトラス』です。相手が対魔法銀を装備していることを差し引いても、その選択はあまり正しいとは言えませんでした。
「ふへへへ! なんだよ、この草きれはよお!」
「こんなもんで俺らを止められると思ってんのか? 可愛いねえ!」
「ひゃはは! いい子だから大人しくしてろよ、お嬢ちゃん!」
蛮族たちは自分に絡みつく『茨』をちぎっては投げ捨て、ほとんど勢いを止めずに接近していきます。
「うう……ど、どうすれば……!」
戦闘経験の足りない彼女は、すでにパニックに陥っているらしく、逃げることもままならずに身体を硬直させています。彼女には他にも彼らに対抗できるスキルがあるはずなのですが、そんなことさえ思いつくことができないようです。
「まずいですね。ここはわたしが牽制用の【式】でも……」
全体の戦況を見渡していたわたしは、とっさに【式】を使おうとして……途中で『ソレ』に気づきました。
「……造物主様ノ命ニ従イ、エレンシア嬢ヲオ護リイタシマス」
いつの間にか、彼女と蛮族たちの間には、見慣れない影が立っていました。
いえ、見慣れないのはリズさんやエレンシア嬢にとってだけでしょう。わたしはマスターがエレンシア嬢とのデートの後に、その『魔法』の練習をしていたのを知っているのですから……。
次回「第74話 命にあらざるモノ」




