第72話 夜陰の強襲
《ステルス・チャフ》を展開したまま、地上を見下ろすわたしたちの視界には、夜になっても移動を止めない蛮族たちの姿がありました。
『王魔』の中でも最強の身体能力を誇り、『巨人種』とも称される『アトラス』は、かつて世界を支えていたと言われる巨人の末裔なのだそうです。
しかし、その姿は特に巨大だというわけでもありません。人間と同じ四肢をもち、両手で物をもって両足で地を歩くその姿は、それだけを見れば異形の化け物には見えないでしょう。
しかし、彼らの身体的特徴で最も顕著なものは、身体を覆うその筋肉でした。明らかに通常の人間にはあり得ない形と大きさで身体を包むごつごつとした塊は、それが筋肉だとは到底思えないほどに不気味なものです。上背こそ平均的な人間より頭ひとつ分ほど高い程度なのに、筋肉がその有様であるため、その身体は横に大きい印象があります。
彼らはまったく疲れた様子も見せず、げらげらと笑いながら会話を交わして歩き続けています。
「あの蛮族どもは、眠るということさえ知らない体力馬鹿だ。だが、その分というべきか、魔法の扱いはお粗末なものだな。自分の肉体に直接作用させるもの以外は、ほとんど応用が利かない。魔力感知などもっての他だろう」
汚いものでも見るような目で彼らを見下ろしながら、アンジェリカはそう吐き捨てました。
「つまり、気配さえ隠蔽できれば、結構ギリギリまで近づけるわけだね。とりあえずは、あの荷車ごと子供たちを奪取して、それからあいつらを殲滅しよう」
救出さえできれば、この場を離れるという選択肢もあるはずなのですが、マスターは『殲滅』が当然の決定事項であるかのように断言しました。するとアンジェリカは、やれやれと苦笑いを浮かべます。
「まあ、そういうと思ったよ」
「あはは。別に僕一人でもいいんだけどね」
「そうはいくか。……だ、だが、それよりキョウヤ。まだ、その……今日の分のキスはしていなかったと思うけど……」
「え?」
アンジェリカの言葉に、耳を疑ったのはわたしだけではないでしょう。リズさんもエレンシア嬢も驚きに目を見開いています。今の言葉は何気ないように聞こえて、その実、二人が『毎日キスをしている』ということを意味しています。
ですが、それとは別の問題もあって……
「ああ、うん。そうだね。じゃあ、ちょっと恥ずかしいけど、キスしようか?」
全然恥ずかしくなど思っていなさそうな顔で、にこにこと笑うマスター。一方、アンジェリカの顔は真っ赤に染まっています。どうやらマスターは、彼女のこの顔を見るために、この瞬間まで『本日分のキス』を引き延ばしていたのでしょう。
「で、でも……みんなが見てるし……」
「仕方がないよ。今さら下に降りて物陰に隠れるわけにもいかないしね。ほら、はやく」
「ううー! あ、後で覚えてなさいよ……」
マスターの策略にようやく気付いたのか、彼女は恨みがましげな目で彼を見つめた後、やむなくといった素振りで彼に身体を寄せていきます。
「え? え? うそ? 本当にここで?」
動揺に声を震わせているのは、エレンシア嬢です。彼女は顔を手で覆いつつも、指の隙間からしっかりと二人の姿に目を向けていました。
一方、リズさんはと言えば、そんなエレンシア嬢に身体を寄せつつ、彼女の陰から隠れるように、しかし、食い入るように二人の様子を見つめています
……この二人、どこまでキスシーンに興味津々なのでしょうか? それもリズさんに至っては、自分の主人を物陰代わりに利用しているのですが……自覚はないのでしょうか?
さすがに人前で長々とキスをすることはできなかったらしく、二人の唇が接触したのは、ほんの一瞬のことでした。
「……うう、恥ずかし過ぎる」
頭を抱えてうずくまるアンジェリカですが、横から覗いて見える耳の先まで真っ赤に染まっているようでした。しかし、話はこれだけにとどまりません。
「さて、じゃあエレン。君の魔法も必要だし、今度はエレンの番だね」
しれっとした顔で、マスターはそんな言葉をほざきやが……いえ、そうおっしゃったのです。
「ん? なんか今、ヒイロから殺気みたいなものを感じたんだけど……」
「きっと気のせいです」
わたしは素っ気なくそう答えました。
「そういえば、キョウヤさん。どうやら初めてではないような口ぶりですが、いつの間にエレンお嬢様の魔法を使えるようになっていたのですか?」
代わりに別のことを訪ねたのは、リズさんです。
「え? ああ、だってエレンとデートに出かけた時はいつも……」
「きゃああああ! 駄目ですわ! 何を言い出していますの!」
緑の髪を茨に変えて揺らしながら、マスターの口を塞ごうとするエレンシア嬢。ですが、顔を真っ赤にして叫ぶその姿は、マスターの今の言葉を補強する結果にしかなっていません。
「……エ、エレンお嬢様」
「リ、リズ? ち、違うの! これは違うのよ?」
呆けたように口元に手を当てるリズさんを見て、エレンシア嬢はどうにか言いつくろおうとしているようですが、リズさんは小さく首を振りました。
「つい二、三年前まで、赤ちゃんはコウノトリが運んでくると信じていたようなお嬢様が……まさか、こんなに成長されるなんて……わたし、すごく感動しています!」
「ちょ、ちょっとリズ! あなた何を言ってるの!?」
なおも喚きたてるエリンシア嬢ですが、マスターがそのスキを逃すはずもありません。
「え? あ、きゃ!」
ぐいっと身体を自分の元に引き寄せると、彼女の翡翠の瞳を覗き込むようにして微笑みかけたのです。
「エレン。……いいよね?」
「あ……は、はい……」
あっさりと頷いてしまうエレンシア嬢。意外と彼女、押しに弱いのかもしれませんね。
その口づけは、わたしとリズさん、二人の前で堂々と敢行されました。ちなみにアンジェリカは、未だにうずくまったままです。
それにしても……戦いを目前にして、皆さんは随分と能天気なものですね。正直に言って、呆れてしまいそうです。これから子供たちを救出する戦いを始めようというのに、なんと不謹慎な人たちなのでしょうか。
わたしは彼女たちとは違い、しっかりと気を引き締めていくとしましょう。
「……ところで、マスター」
「なんだい? ヒイロ」
何事もなかったかのような顔で笑いかけてくるマスターです。
「さらに戦力を補強する意味でも、戦闘を始める前に【因子干渉】を済ませておくのはいかがでしょうか」
わたしはさりげない風を装いつつ、そんな言葉を口にします。
「え? ああ、そっか。そういえばもうあれから十五日以上は経ってるもんね。それじゃあ、お願いしようかな」
「はい」
わたしが頷くと、マスターはゆっくりと近づいてきます。しかし、彼の後ろに目を向ければ、意味ありげに含み笑いを漏らすアンジェリカとリズさんの姿が見えてしまいました。
「じゃあ、また抱きしめればいいのかな? それとも、三回目はキスが必要?」
「んな!?」
はう……バレバレでした。わたしの表情の変化を面白がってでもいるのか、マスターはニヤニヤと楽しそうに笑っています。そんな顔を見ていると、そのまま頷くのも悔しい気がしてきてしまいます。
「……べ、別に前回と同じで大丈夫です!」
「あれ? うーん、逆に意固地になっちゃったかな? 失敗失敗」
「うう……」
とはいえ、他の女性陣の目の前で抱きしめてもらうだけでも、十分恥ずかしいことには違いありません。ですがここまで来て、今さら後には引けないのです。わたしは、そのまま目を閉じて、マスターの胸の中に飛び込んだのでした。
──それから少しの間をおいて、わたしたちは一気に行動に移りました。
今回の作戦は、アンジェリカが敵前方に強力な攻撃魔法を放ち、移動を続ける彼らの足を止めることから始まります。
夜のアンジェリカは、背中の羽根で空を飛ぶことができるため、奇襲にはうってつけでした。ちなみに『夜のニルヴァーナ』の竜種としての身体的特徴は、形だけのものが多く、彼女の羽根のように実際に使用可能なものは珍しい方なのだそうです。
「な、なんだ、ありゃあ?」
移動中の『アトラス』たちは、領内に戻れたことで油断していたのか、突如として前方の上空に出現した影を見ても、特に慌てた様子はありません。
「蛮族どもめ! 炎熱の女王たるわたしの力を見せてやろう! 対魔法銀ごときでわたしの炎が防げるものか!」
彼女は頭上に手を掲げ、そこに真紅の光球を出現させます。久しぶりに全力で魔法を振るえるのが楽しいのか、その表情は実に嬉しそうでした。
張り切るのは結構ですが、やり過ぎて人質を巻き込むことのないようにしていただきたいものです
しかし、彼女はわたしの心配をよそに、掲げた腕を一気に振り下ろしました。
「《スカーレット・レイン》」
彼女の鋭い声と共に降り注いだ『雨』は、その一滴一滴が超高温の熱そのものでした。地に落ちた『雨粒』は、瞬間的に炎となって燃え上がります。当然ながら、その『雨』は無数の水滴を大地に落とし、炎は断続的に絶えることなく噴き上がり続けました。
「うおおああ! なんじゃ、こりゃあ!」
「攻撃か? くそ! 火が噴いてやがる!」
「盾を掲げろ! 誰か、あの鳥みてえな奴を撃ち落とせ!」
行く手に次々と上がる火の手を前にして、さすがの『アトラス』たちも行進を止めました。
しかし、彼らは対魔法銀の防具を装備しており、アンジェリカの魔法自体も人質に配慮した手加減があるためか、牽制以上の効果は発揮できていないようです。
『アトラス』の蛮族たちは、それぞれが武器を構え、周囲を警戒するように見渡しています。厄介なことに、子供たちが乗せられているはずの荷車の周囲には、最も多くの蛮族が集まっていました。迂闊に近づけば子供たちを人質に取られる可能性もあり、救出には迅速な対応が求められるところでしょう。
「くそが! ぶっ殺してやる!」
『アトラス』の大男が一人、赤みを帯びた巨大な石弓を引き絞ると、アンジェリカに狙いをつけました。恐らくあれも対魔法銀製の弓なのでしょう。魔法に耐性のある矢ともなれば、《クイーン・インフェルノ》の『熱の膜』でも、どこまで防げるかは微妙なところです。
しかし、それは彼が攻撃を放つことができればの話でした。
「……《グリーン・カーペット》」
聞く者の耳に心地よい、鈴の鳴るような声。その主は、蛮族たちの集団の右手側に姿を現したエレンシア嬢です。草木もまばらな荒野の中にも関わらず、彼女の立ち位置から蛮族たちの足元にかけての一帯には、『緑の絨毯』が出現していました。
「せめて……美しい緑の中で朽ち果てなさい」
静かに、怒りに満ちた声でつぶやくエレンシア嬢。
「な、なんだ? 女……か?」
夜の荒野に浮かび上がる、輝く新緑の髪の少女。そのあまりに幻想的な美しさに見とれていた『アトラス』の蛮族たちは、足元の草から立ち上る『芳香』をもろに吸い込んでいました。
「ぐ、あ……」
「かは……」
途端に、バタバタと倒れていく蛮族たち。エレンシア嬢のスキル『開かれた愛の箱庭』による致死毒が彼らを次々と絶命させていきます。
「……あなたたちは、絶対に許しません」
強い殺意を込めて、蛮族たちを睨みつけるエレンシア嬢。
わたしはリズさんと自分に隠蔽の【式】を展開したままの状態で、その様子を見守っていました。
しかし、ここで彼らの中にいたリーダー格らしき蛮族が、何かに気付いたように声を張り上げます。
「これは……毒か? 野郎ども! 息を止めろ! 『魔法』だ!」
「ウオオオオ! 《ブースト・ブレス》!」
リーダーの声に合わせ、一斉に雄叫びを上げる蛮族たち。
「……これが、『アトラス』の魔法ですか」
わたしが開発した魔力感知用レーダーに映るのは、蛮族たちの異常に発達した筋肉や内臓部分に宿る鈍い魔力の輝きでした。
「……芳香が効かない?」
それまでの間、エレンシア嬢のスキルによって十人近い『アトラス』たちが次々と倒れ伏していたはずですが、彼らの魔法が発動して以降は、それがぱったりと途絶えてしまっています。
どうやら先ほどの《ブースト・ブレス》は、呼吸を止めたまま行動できるようにする強化魔法のようです。
「よーっし! それじゃあ空の敵は、俺様がやってやるぜ! そっちの女は……早いもん勝ちだ! とっ捕まえて……せいぜい、女であることを後悔させてやれ!」
「へへへ! おう!」
リーダー格らしき蛮族の指示を受け、彼らは一斉にエレンシア嬢に血走った目を向けました。彼らも戦い自体には慣れているのでしょう。徐々に冷静な対処を見せ始めています。とはいえ、頭に血が上っていることには変わりはないのか、人質を取ろうという考えには至っていないようでした。
「どうやら荷車から敵の注意がそれたようですね。わたしたちも動きましょう」
「はい!」
わたしはリズさんと共に、気配を消したまま戦場の上空をゆっくりと移動しました。敵の殲滅は最終的にマスターたちが行うにせよ、人質の救出が先決なのです。
「さて、行きますよ……《ステルス・チャフ》及び《レビテーション》を拡大展開」
わたしは眼下に荷車を見下ろしたまま、それを効果範囲に含むように【因子演算式】を発動しなおしたのでした。
次回「第73話 氷結地獄の王」




