第70話 蛮族領へ
『アトラス』の蛮族領に向かうに先立って、わたしたちはジークフリード王に話をすることにしました。もちろん、蛮族領へ攻め込むための兵力を求めてのことではなく、一応の断りを入れておくことが目的です。
「……お前、正気か?」
国王の執務室。大きな木製の執務机に肘をつき、ジークフリード王は、もはや言葉もないとばかりに低く唸っています。
「大丈夫。僕が正気だったことなんて、生まれてこのかた一度もないからね」
彼を見下ろすように立ったまま、マスターは至ってにこやかに言葉を返しました。
「笑えない冗談だな。いや、お前が言うと冗談にも聞こえないが……」
「それはどうも。……それより、何がそんなに心配なのかな? 僕だってそれなりに戦えるとは思うんだけど」
「何が『それなり』だ。……お前はどうせ、殺しても死なないような男だろうが。誰が心配などするものか」
「酷いなあ……」
少し傷ついたような顔をするマスターですが、間違いなく演技でしょう。
「問題なのは、アンジェリカだ。残れと言っても聞かぬのだろう?」
「当たり前よ。わたしはキョウヤと一緒に行く。メンフィスのために、絶対にメルティの仇を討つんだから!」
アンジェリカは、王の座る執務机を叩くようにして声を張り上げました。
「やれやれ……」
彼としては、自分の娘を蛮族領などに向かわせたくはないのでしょう。気の進まない顔で首を振っています。
「……お前たちは蛮族がどんな連中か、わかっていないのだ。はっきり言って、野獣の群れの中に子羊を放り込むようなものだぞ?」
苦悩の末、絞り出すような声で言ったジークフリード王に、マスターは首をかしげて聞き返しました。
「子羊とは言うけれど、アンジェリカちゃんだって十分強いと思うんだけどね」
「だとしても、蛮族どもから見れば『ニルヴァーナの王女』ともなれば、最上級の『御馳走』には違いない。それと知られれば、目の色を変えて襲い掛かってくるだろう。それが心配なのだ」
「御馳走? まさか、食人鬼なのかい?」
マスターは目を丸くして問い返します。
「そうではない。説明が難しいが……『アトラス』は肉体的な快楽を『命』に変える存在だと言える。奴らは食事によって栄養を吸収しない。食事による快楽そのものを栄養とする。奴らは生殖行為によって子を作らない。その行為による快楽から、新たな分身を生み出す」
「蛮族っていう割には、なんだか生き物とは思えない感じだね」
『王魔』という言葉でひとくくりにしてはいますが、ニルヴァーナと言い、ユグドラシルと言い、サンサーラと言い、それぞれが全く異なる生物のようですらあります。
「だが、快楽が命に直結する分、奴らの行動はきわめて野蛮なものになる。そもそも、奴らには種族的にオスしか存在しないせいか、他種族の女と見れば犯すことしか頭にない。……そんな連中にとって、憎き敵国の姫を力でねじ伏せ、屈服させて思う存分蹂躙できるとなれば、それは極上の『快楽』だろう」
かつてアンジェリカは、荒原地帯で野盗と遭遇した時、彼らのことを『下半身で物を考える存在だ』と称していました。彼女はそのとき、『アトラス』の蛮族を想起していたのかもしれません。
「なるほどね。高貴で強くて可愛い女の子となれば、征服欲も性欲も、一度に満たせるってわけか」
「……まさかそこまで徹底した連中だとは、思わなかったな」
アンジェリカも『アトラス』の生態までは聞き及んでいなかったのか、気持ち悪そうに身震いしているようです。
「うーん。そんな連中なら、身分が高くなかったとしても同じことじゃない? アンジェリカちゃんはもちろん、エレンだってリズさんだって、ヒイロだって、みんな極上の獲物なんだと思うけどな。僕だったら絶対放っておかないよ?」
わたしたちを一人ずつ見渡しながら、そんな言葉を口にするマスター。
「…………」
そのさりげない言葉に、わたしたちは思わず顔を赤くしてうつむいてしまいました。
「……お前は、いつか世の男どもに後ろから刺されるんじゃないか?」
ジークフリード王は、そんなわたしたちの姿を呆れた顔で見つめた後、諦めたように首を振りました。
「え? なんで?」
「……いや、なんでもない。俺としては、それで娘が幸せなら構わないがな」
『ニルヴァーナ』の国の王だけあって、そこは寛容な態度を示すジークフリード王。しかし、マスターは彼の言いたいことにまるで気付かないらしく、不思議そうに首をかしげています。
「まあどっちみち、彼女たちを狙う奴らがいたところで、僕がそいつらを皆殺しにすれば関係ないよね?」
「……だ、だとしてもだ! アンジェリカは確かに俺の娘だけあって、その潜在能力は群を抜いている。だが、まだ未熟には違いない。自分の固有魔法ですら、完全には使いこなせていないのだぞ? 無用な危険を冒すような真似はするな!」
こともなげに言うマスターに、若干顔を引きつらせながら釘を刺すジークフリード王でした。
──蛮族領までの移動手段については、わたしの《レビテーション》を利用することも選択肢ではありましたが、速度という観点から考えた結果、別の手段によることとしました。
その手段とは、『玉行車』です。
魔力の豊富なドラグーン王国領内限定の移動手段ではありますが、整備された街道を進むのであれば、この国でこれに勝るものはないそうです。
ただし、問題なのは……
「ふっふっふ! 運転ならわたしに任せておけ! 半日と掛けずに国境まで到着してやるぞ!」
意気揚々と声を上げ、運転席に乗り込むアンジェリカ。その後ろに続くのは、この国に到着した直後、この車で酷い乗り物酔いにさせられた経験を持つ、エレンシア嬢とリズさんでした。
「うう……憂鬱ですわ。他に手段はないのでしょうか?」
乗る前から顔色を青ざめさせるエレンシア嬢ですが、一方のリズさんは様子が違いました。
「大丈夫ですよ、エレンお嬢様。わたし、こんなこともあろうかと思って、専用の『法術器』を考えたんです」
「え?」
驚きに目を丸くしたのは、エレンシア嬢だけではなく、わたしも同じでした。あれから二週間、リズさんは確かに膨大な量の知識を『睡眠学習』で蓄えてきました。それ以外にも『法学』の魔法の本を読み漁り、『法術器』の使い方を学んできたのだとは思いますが、よりにもよって『車酔い』専用の『法術器』をつくるなど、どんな才能の無駄遣いなのでしょうか?
「あ、いえ……もちろん、完全に専用というわけではないのですが……いつかまた乗る機会があるかもしれないとは思っていましたので……」
言いながらリズさんが荷物の中から取り出したのは、紋様の刻まれた護符のようなものです。
「それがそうなのですか?」
「はい。《粋の護符》です。効果はヒイロさんが以前に使ってくれた《リフレッシュ》に近いでしょうか? 身体の中の老廃物や有害なものを排除したり、体調を整えたりする効能があります。肌身離さず持っていれば効果も持続しますし、よかったらおひとつどうぞ」
リズさんから護符を受け取ったわたしは、しげしげとそれを見つめてしましました。
「……リズさんって、本当はかなりすごい方なのでは?」
「……そうですわね。もともと順応性や物覚えの速さには目をみはるものがありましたけど……ここにきてそれに更に磨きがかかっているようですわ」
思わず隣に座るエレンシア嬢に声を掛ければ、彼女もまた、呆れたように首を振っています。
確かに彼女には、自分の不可能を可能に変えるスキル『陰に咲く可憐なる花』があります。しかし、その前提としては、彼女が誰かを助けたいと思う心と、そして何より『努力』が不可欠なのです。
「ほら! 後ろの連中! 何をぐずぐずしているか。しっかりベルトを着けておけ! そろそろ出発するぞ!」
運転席に座ったアンジェリカは、そのままこちらの返事を待たず、『玉行車』を発進させました。
「ふふふ! 今度は助手席だから、ばっちり景色も見えるでしょ?」
「うん! いいね。まさか異世界に来てドライブの景色が楽しめるとは思わなかったから、すっごく楽しいよ」
「あはは! キョウヤに気に入ってもらえて良かった!」
前の席からは、仲睦まじく会話を続ける二人の声が聞こえてきます。
「……あの二人には、護符も必要なさそうですね」
わたしがそう言うと、リズさんも苦笑いをしながら頷きました。
「ええ……。まあ、大した効能ではない分、割り当てる『知識枠』の量も多くはありませんが、数が多いとわたしの『知識枠』も足りなくなってしまいますし、ちょうどいいのかもしれませんね」
『法学』の魔法は、術者の『知識』の量がそのまま使用可能な『法術器』の量と質に直結しています。彼女自身は謙遜したようなことを言ってはいますが、この国の図書館にある蔵書のうち、特に重要と思われるジャンルについては、既に彼女の脳内に『インストール』済みなのです。それを考えれば、この程度の《護符》なら十枚あっても余裕で使用できそうでした。
わたしがそう言うと、リズさんは小さく首を振ります。
「いえ、実は……つい先ほどキョウヤさんにお渡しした『法術器』は、それなりの『知識枠』を割いて発動していまして……って、きゃあ!」
ここで道に大きな段差でもあったのか、ガタンという衝撃と共に大きく車体が揺れました。
「ごめん、ごめん! 調子に乗って走ってたら、石を避け損ねちゃった! 失敗失敗。あははは!」
運転席からアンジェリカの声がしました。大好きな『玉行車』の運転をしているせいか、いつになくハイテンションです。
「い、いえ……大丈夫です」
どうにか体勢を立て直して胸を撫で下ろしたリズさんは、大きく息を吐いています。護符のおかげで酔いは感じにくくなっているようですが、それでもこんなことがたびたび続いては身が持たないでしょう。
「……仕方ありませんわね。キョウヤ様、アンジェリカさんにこの花を……」
「え? ああ、うん、わかった」
エレンシア嬢は、掌に生み出した花をマスターに手渡しました。どうやら、彼女のスキル『開かれた愛の箱庭』を使い、アンジェリカの思考速度や反射神経の強化を図ることで、先ほどのような『失敗』を抑制するつもりのようです。
なにはともあれ、ドラグーン王国領内を進む間に限って言えば、わたしたちの旅路はトラブルもなく、順調に進んだのでした。
それから小休止を挟みつつ、半日をかけて走り続けた車は、国境まであと一息というところまでたどり着きました。
「……アンジェリカさん。止まってください」
突然、エレンシア嬢がそんな言葉を口にしました。
「え? どうした?」
聞き返しながらも、アンジェリカは律儀に車の速度を落とし、道端に停車します。
「実は先ほどから『世界に一つだけの花』で国境付近を調べていたのですが……」
「どうかしたの?」
マスターが助手席から振り返り、エレンシア嬢に問いかけました。
「はい。どうやら、国境にある砦が破壊されています。聞こえてきた会話からすれば、『アトラス』の襲撃を受けたようですが……」
「なんだと? しかし、ニルヴァーナを中心に編成した『国境警備隊』が蛮族どもに敗北するはずはない」
アンジェリカは、そんなエレンシア嬢の言葉を聞きとがめるように反論します。
「……よくわかりませんけれど、今回の襲撃者の一部には、『魔法』が効かなかったそうです。それが敗因みたいですね」
「魔法が効かない? そんな馬鹿な。いったい何が?」
首をかしげるアンジェリカですが、ここで考えていても仕方がありません。
「しかし、エレン。いずれにしても、ここで止まっているよりは砦に行ってみた方が良いのでは?」
わたしが確認の意味でそう尋ねると、エレンシア嬢は何かに悩むような顔をしました。
「それはそうなのですが……国境を突破した『アトラス』たちに襲われた村があるようなのです。できれば、そこの人々を助けてあげられないかと……」
「助ける? えっと……そんなに酷い状態なのかい?」
「……はい。まだ襲撃を受けて大した時間も経っていないようですし……わたくしたちなら、怪我人の治療もしてあげられます。もちろん、そんなことをしている暇はないと言われるかもしれませんが、あれを見てしまうと……」
悲しげに目を伏せるエレンシア嬢。これまで大貴族の令嬢として生きてきた彼女にとって、蛮族の襲撃にあった村の惨状はおそらく、相当の衝撃だったに違いありません。
「どうしますか? マスター」
とはいえ、わたしとしては、マスターに判断を仰ぐしかありません。目的の黒騎士に関する情報を一刻も早く得ることを考えれば、まっすぐ蛮族領に向かう方が良いはずなのです。
しかし、マスターは当然のように言いました。
「それじゃあ、村に行こうか。困っている人がいれば助ける。そんなの『人として当たり前のこと』じゃないか。エレンは何も間違っちゃいないさ。……それに、敵の情報なら村人からでも仕入れておくに越したことはないだろ?」
「あ、ありがとうございます! キョウヤ様」
エレンシア嬢は、嬉しそうにマスターに礼を言って頭を下げたのでした。
次回「第71話 魔法の効かない蛮族」




