第67話 母親の狂気
エレンシア嬢のスキルで確認した限りでは、やはりメンフィス宰相は自宅には戻っておらず、城壁の脇に建つ石造りの施設に滞在しているとのことでした。ただし、その施設自体はもともと『サンサーラ』の集会場としても使われており、族長である彼がそこにいること自体は不思議なことではないそうです。
「ですが……キョウヤ様の読み通り、明日の正午には一族を集めて重大な発表をするとのことです。あまり騒ぎにはならないよう、慎重に準備を進めているようでもありますけれど……メンフィス宰相の表情は暗いものだったと思いますわ」
「ありがとう、エレン。王様が言ってたとおり、彼の復讐心も相当のものだね。隠密に準備を進めるってことは、王様に反対されることも、国民の犠牲が出るだろうことも、全部わかっているんだろうから」
マスターは二階建ての大きな屋敷を見上げ、呆れたようにつぶやきました。さすがに王国の重鎮たるメンフィス宰相は、城壁内の敷地の一角に屋敷を構えることを許されているようです。建物の周囲には、警備兵による哨戒も続いていました。
「それはさておき、アリアンヌさんに会わなくちゃね。……ヒイロ、よろしく頼むよ」
「はい」
わたしはあらかじめ《スパイ・モスキート》で屋敷内の構造を調べ、アリアンヌさんがいるだろう部屋の目星をつけていました。
「《レビテーション》を展開」
その結果、二階にある窓際の一室が彼女の寝室になっていることを確認したわたしは、城で待つリズさんを除いたメンバーを重力制御の【式】で宙に浮かべ、ゆっくりとその窓に近づいていきます。
「……アリアンヌおばさま」
アンジェリカは、悲しげな顔で近づいてくる窓枠を見つめています。聞いた話では、彼女がごく小さい頃は、アリアンヌさんの精神疾患も酷くはなっておらず、彼女のことを随分と可愛がってくれていたそうです。
「……《ノイズ・キャンセル》を展開。《リモート・アクション》を展開」
わたしは物音を消す【式】と手を使わずに離れたものを操作する【式】を同時展開し、窓を解錠してゆっくりと開けました。そのまま、全員で部屋の中に降り立ちます。
「……お、おばさま?」
部屋の壁際には、大きな寝台が置かれています。アンジェリカはその寝台に目を向け、そこにいた人物に声をかけました。
しかし……
「うふふ……いい子ね……メルティ。あなたは本当にいい子だわ。夜更かしはいけないものね。たくさんおねんねして、早く大きくなりなさい。お母さんがここで、ずっとずっと……あなたのことを見守っていてあげる」
彼女は、椅子に腰掛けたまま、ベッドに眠るソレへと虚ろな目を向けています。
「大丈夫。怖がらなくていいの。お母さんが、ちゃんとあなたを護ってあげる。怖いものなんて、何もない。あなたに危害を加えるものなんて、どこにもいない。可愛い可愛いわたしのメルティ……」
淡く輝く金の髪。ほっそりとした身体を包む白い夜着。少しやつれてはいるようですが、夫であるメンフィス宰相と同様、アリアンヌさんは実年齢以上に若々しく見えます。かつては親友のシルメリアと共にドラグーン王国の二大美姫と称えられた彼女は、今にも消えてしまいそうな儚い美しさを醸し出していました。
「う、嘘……?」
しかし、彼女を見て震える声を出すアンジェリカは、むろんのこと、彼女の美しさに見とれているわけではありません。彼女の目に映っているものは、あまりにも痛々しい『狂人』の姿なのですから。
「……人形、ですの?」
絶句する一同の中で、どうにかそんな言葉を発したのは、エレンシア嬢です。
そう、彼女が愛しい娘を寝かしつけるように手を伸ばしたベッドの上に『いる』のは、生きた子供ではありません。どうやって作ったのか、精巧に造られた少女の人形でした。
淡い金色に蒼が混じる頭髪はフワフワと愛らしく、顔のつくりも天使のように整った小さな少女。年齢としてはおそらく、三歳くらいでしょうか?
しかし、どんなに精巧に作っていても、それが生き物でないことはわかります。目は固く閉じられたままであり、頬の『血色』こそ悪くはありませんが、そこには変化というものがありません。よく見れば明らかに、『作り物』なのです。
「あらあら、どうしたの? メルティ。寂しいのかしら? でも、大丈夫。お母さんが一緒にいるわ。だから……寂しくなんてないでしょう? ねえ、メルティ……」
しかし、アリアンヌさんはそんな人形をかつての娘の名で呼び続け、優しく胸元に布団をかけてやりながら、愛おしげにその『作り物』の髪を撫でてやっているのでした。
「こんなことって……」
身体を震わせ、口元に手を当てるアンジェリカ。そんな彼女の肩を、エレンシア嬢がそっと支えてあげています。
「……代償行為。いえ、代償ではなく、自身の幻想を投影して、ソレを『本物』だと思い込んでいる。そういうことでしょうね」
わたしはつい、言わなくてもいい言葉を口にしてしまいました。ここまでくれば、嫌でもわかります。アンジェリカが『幼い頃にだけ』可愛がられていた理由。大きくなってから、彼女に会わせてもらえなくなった理由。
彼女はいまだに、自分の娘の影を追いかけ続けている。
だからこそ、メンフィス宰相は、無駄だとわかっている復讐をやめることができない。娘の仇を討つことで、自分の妻が正気に戻るかはわからなくても、そうしなければいられないのでしょう。
「……マスターは、これを確認したくて?」
わたしは問いかけの言葉を口にしながら、マスターの方へ眼を向けました。
しかし、わたしの目に飛び込んできたものは、あまりにも予想外の光景でした。
「……う、うう!」
マスターが顔を青ざめさせたまま、吐き気をこらえるように口元に手を当てていたのです。こんなにも動揺した顔のマスターを見るのは、初めてかもしれません。
いったい何が……と、そこまで考えたところで気づきました。
「人形の……子供?」
彼に出会ったあの世界で、わたしが調べた彼の生い立ち。
その中にあって、最も異常だった事柄の一つ。
「ぐう、うう……! う、はあ! はあ!」
吐き気が堪え切れないのか、マスターは荒い呼吸を繰り返しています。わたしは、そんな彼の背後にゆっくりと回りこみました。
「……マスター。大丈夫です。ここは、『あの家』ではありません。わたしがお傍におります。わたしは……『あなたの真実』です。もちろん、わたしだけではありません。アンジェリカさんもエレンも、リズさんも……あなたの周りには『心ある人』たちしかいないんです。あなたに偽りを求める『ヒト』も、あなたを殺そうとする『ヒト』も、どこにもいないんです」
わたしは、わたしの『素体』にあらん限りの温もりをこめて、そして、それ以上にわたし自身の想いをこめて、震える彼の身体を後ろから抱きしめました。
すると、徐々にではありますが、彼の身体の震えが治まっていくのがわかりました。
「……うん。ありがとう、ヒイロ。もう、大丈夫だよ」
そんな言葉と共に、ゆっくりと脱力するマスター。わたしはそれを確認すると、ゆっくりと彼の身体から手を離します。
「参ったね。もう吹っ切れたつもりだったのに……」
やれやれと首を振るマスターは、だいぶ落ち着きを取り戻したのか、普段と変わらぬ足取りでアリアンヌさんの元に歩み寄っていきます。
「キョウヤ? 何を……するの?」
アンジェリカが不安げに声を掛けますが、彼は振り向きもしません。ただ、代わりにこう言いました。
「僕らの声に気づきもしない。無理もないね。娘が死んでから十五年だ。娘代わりに思っていたアンジェリカちゃんが、生前の娘とかけ離れた年齢になってから数えても、もう十年近くにはなるんだろうし……彼女はもう、行き着くところまで行ってしまっている」
腋の下にぶら下げた鞘から、『マルチレンジ・ナイフ』を抜き放つマスター。
「キョ、キョウヤ……?」
「ごめんね、アンジェリカちゃん。僕には他に、方法が思いつかない。僕には間違いを正す力はない。……間違ったものを、さらに間違わせることしかできない」
抜き放った《ナイフ》がまとう虹色の輝きは、その表面が『オリハルコン』でコーティングされていることを示しています。
リズさんの作った《値の護符》を発動させることで、身に纏う金属を『オリハルコン』に変化させる【式】です。あの後も研究を続けたわたしは、『ミュールズダイン』でなくとも、ごく少量であれば同じことを可能とするまでになっていました。
この《ナイフ》こそがその成果であり、あの刃なら、『サンサーラ』特有の強固な金属製の鱗を斬り裂くことも容易でしょう。
「え?」
彼の意図に気付いたアンジェリカが、止めに入る暇もありませんでした。
「あ、かは……!」
ズブリと突き刺さるマスターのナイフ。彼女の背中から真っ直ぐに心臓を刺し貫いたそれは、間違いなく彼女を絶命させていました。
「アリアンヌおばさま!」
大きな声で叫び、彼女の元まで駆け寄っていくアンジェリカ。マスターはナイフを引き抜くと、間髪入れずに宣言します。
「……スキル『鏡の中の間違い探し』。その目に幻想が映ることは……もう二度とない」
バックステップで飛び離れたマスターと入れ替わるように、アンジェリカがベッドに突っ伏したアリアンヌさんの身体を抱きかかえました。
「おばさま! おばさま!」
「あ、ああ、うう……」
アンジェリカに揺さぶられ、ゆっくりと目を覚ますアリアンヌさん。彼女は最初、ぼんやりとした目をアンジェリカに向け、次いでベッドに眠る『我が子』に視線を戻しました。
「……メルティ? うそ……どうして? どうして……」
ベッドに横たわる『人形』を見つめ、震える声を出す彼女の瞳は、驚愕に大きく見開かれています。
「お、おばさま……?」
「あ……あなたは……アンジェリカ……?」
そこでようやく彼女は、自分の身体にしがみつく少女の存在に気付いたようです。続いてわたしやエレンシア嬢にも目を向けたかと思うと、自らの胸を押さえるようにしながら、背後を振り返ります。
「やあ、アリアンヌさん。初めまして。僕の名前は来栖鏡也。キョウヤと呼んでもらっても構わないよ」
ナイフを手にしたまま、軽やかに笑うマスター。ここでアリアンヌさんは、何かに気付いたような顔になりました。
「あ、あなたが……あなたが! メルティを!」
アンジェリカの身体を振り払い、椅子を蹴るようにして立ち上がった彼女は、鬼のような形相でマスターに掴みかかっていきます。しかし、マスターはそれを避けようともせず、そのまま襟首を掴みとられるに任せました。
「返して! わたしの……わたしの『メルティ』を返してよ!」
がくがくと激しく彼の身体を揺さぶるアリアンヌさん。半狂乱となって涙を流し、マスターの胸元を殴りつける彼女ですが、長年の引きこもりがたたってか、その手には大した力が込められていないようでした。
あまりの光景に、誰一人として言葉が出ない中、マスターはゆっくりと彼女の腕をつかみ、その動きを押さえます。
「返せないよ。……その人形は、あなたの娘じゃない。だから、僕には返せない」
「そんな……そんなの、酷い! 酷いわ! わ、わたしは……あの子がいてくれれば、あの子がわたしに笑いかけてくれていれば……それだけで幸せだったのに!」
目に涙をあふれさせ、叫び続けるアリアンヌさん。わたしは周囲に《サウンド・バリア》を展開しながらも、彼女の悲痛な叫びに胸を痛めずにはいられませんでした。
「うう……」
聞こえてきた声に、ふと隣を見れば、エレンシア嬢が口元に手を当てたまま、涙を流していました。
「あなたはもう二度と、娘の幻想を見ることはできない。それがどれだけ残酷なことなのか、僕にはわかっている」
「……だ、だったらどうして!」
「あなたの方が……はるかに残酷だからだよ」
無機質な、人形のような声。その声に、アリアンヌさんはびくりと身体を震わせます。
「アンジェリカちゃんは、あなたのことをすごく慕っている。でもあなたは、彼女のことを『娘の代わり』ぐらいにしか思っていなかったんじゃないのかい?」
「そ、そんな……そんなこと……ないわ。わたしは……アンジェリカのことだって……」
「うん。親友の娘だもんね。それだけじゃないのかもしれない。でも、逆に言えばアンジェリカちゃんのお母さんは、どうだったのかな? 彼女がこの国を留守にしがちで、娘と会う機会を少なくしているのも……あなたに気を遣ってのことだろう」
「そ、そんなことは……」
「話を聞く限り、シルメリアさんは、アンジェリカちゃんのことを深く愛している。でも、自分の娘が生まれるときに集まった『愚者』に親友の娘が殺され、その親友が自分の娘を我が子に重ねて見ていると知ったなら……どうするだろうね?」
「あ、ああ……」
「でも、最悪なのは、ついさっきまでのあなただ」
マスターは彼女に指を突きつけて言います。
「同じ悲しみを味わっているはずの夫に背を向け、自分だけ幸せな幻想のなかに浸るあなたは、彼の気持ちを考えたことがあるのかな? あなたがどれだけ酷い苦しみを彼に与えているのか、少しでも思いを巡らせたことはあるのかな?」
「わ、わたしは……」
「どころか、『本物の娘』のことすら忘れ、現実から逃げている。そんなんじゃ……『まるで心がないかのよう』だぜ?」
「う、うああああ!」
その一言にアリアンヌさんは、マスターの足元に泣き崩れたのでした。
次回「第68話 父親の苦痛」




