第66話 十五年前の悲劇
「まずいことになったな」
会食を終えた後、ジークフリード王に密かに呼び出されたわたしたちは、彼の執務室のソファに腰を落ち着けていました。
向かい側のソファに腰掛けたまま、ジークフリード王は難しい顔で唸っています。
「……お父様。やっぱり、メンフィスは今も仇を探してるの?」
彼の隣に座るアンジェリカは、不安げに父親の顔を見上げています。
「ああ。あいつも普段は表に出さないがな。……十五年前、お前が生まれた時に参集した『愚者』どもの中でも、最強の部類に入る力を持った『惨禍のオロチ』。どういうわけか、俺とメンフィスが現場に駆けつけた時には、すでに姿を消していたのだが……あいつは今でも、ソレを血眼になって探している」
その時のことを思い出したのか、悔しそうな顔で首を振るジークフリード王。
まだ本格的な『産術院』が整備されていなかった十五年前の当時は、『愚者の参集』への備えとしては、友人や知人などが護衛となって待機する形をとることが多かったそうです。
「……俺が馬鹿だった。俺とシルメリアの娘なら、参集する『愚者』の強さも桁違いになるだろうことくらい、予期しておくべきだった。公務なんぞ放り出してでも、万難を排して俺がシルメリアに付き添うべきだったのだ」
そうは言いますが、『惨禍のオロチ』クラスに強力な『愚者』の出現は、十五年前が初めてだったそうです。だとすれば、そんな事態を予測することなど不可能だったに違いありません。
ちなみに、現在のドラグーン王国では、『愚者』には『愚かなる隻眼』の大きさや数に応じた階級が設定されており、弱い方から並べると『禍ツ』級、『災禍』級、『惨禍』級、『絶渦』級となります。
このうち、『惨禍』級は十五年前に初めて確認された個体です。それまで一つ目しかいないと考えられていたためか、『愚者』の紅い瞳には『隻眼』の名がついているのですが、その個体には二つの『隻眼』が存在していたそうです。
その後の調査で判明したことですが、複数の目を持つ『愚者』はそれぞれが一体しかいない固有の種であることが多いらしく、メンフィス宰相が『仇』として追い続ける『惨禍のオロチ』も同様だと考えられています。
『絶禍』級に至っては、ドラグーン王国の調査隊が『愚者の聖地』と呼ばれる辺境で発見した三つの目を持つ『愚者』だったとのことですが、その隊のほとんどが全滅し、目撃情報そのものがあいまいであることから、実在自体が怪しまれている階級だったりもするようです。
「うーん。……でも、たとえ雑魚しか来ないと予測していたにしても、どうしてその場所でメンフィスさんの娘が殺されたりするんだい? そんな危険がある場所に、三歳の女の子を連れていくなんて普通はしないんじゃないかな?」
マスターがもっともな疑問を口にすれば、ジークフリード王は深く頷いて言葉を返します。
「ああ。メンフィスの妻、アリアンヌはシルメリアの親友だからな。彼女は出産を控えた友人のために、身の回りの世話をしようと付き添ってくれていた。むろん、殺された娘は家に残していたはずだ。しかし、娘の方は幼いながらも素直で母親想いの少女だった。恐らくは母親を手伝いたいとでも思ったのだろう。隠れてついてきてしまっていたらしい」
「……で、アリアンヌさんは自分の見ている目の前で、そんな母親想いの娘を殺されたってわけか。確かに、それはショックだったろうね」
「ああ。死体も残らない形で丸呑みにされたのだ。その衝撃は想像するに難くない。それに、自責の念もあっただろう。葬儀の時も、自分がもっと早く娘の存在に気付いていればと泣いて悔やんでいたからな。……そして、それからだな。アリアンヌがおかしくなっていったのは……」
メンフィス宰相の妻、アリアンヌは重度の精神疾患により、部屋から出ることもままならない状態なのだそうです。
「……うん。アリアンヌおばさまも、わたしが小さい頃はすごく優しく面倒を見てくれてたけど……だんだん、様子がおかしくなってきて……」
父親の言葉を継ぎながらも、アンジェリカは酷く悲しげな顔でうつむきました。
「……事情は分かりましたが、マスターとわたしたちをここにお呼びになったのはなぜでしょうか?」
暗くなりかけた雰囲気を変えるつもりで、わたしはジークフリード王に問いかけました。
「お前たちにしか頼めないことがあるからだ。……俺の親友、メンフィスを止めてほしい。あいつはおそらく、近日中に『アトラス』の蛮族どもの元に向かうだろう。もっとも、あいつ一人が馬鹿な真似をするだけなら、無理に止めるつもりはない。だが、『サンサーラ』の軍を率いて……となれば話は別だ。国王として、それを許可するわけにはいかない」
「そんなまさか……私怨で一国の軍隊を動かすというのですか?」
驚いたような声で言ったのは、エレンシア嬢です。『貴族の責務』についてよく知る彼女にしてみれば、そんなことはありえないのでしょう。
「『サンサーラ』は、『ニルヴァーナ』よりもはるかに種族としての連帯感が強い。彼らなら間違いなく、族長の無念は己の無念と考える。十五年前の悲劇を防げなかったことを後悔している者たちも多いだろう。そして……メンフィス自身は、自分の復讐を果たすためなら、そんな彼らの仲間意識の高さすら利用することをためらわないだろうな」
「……でも、王様はそれを許すわけにはいかない?」
「当たり前だ。『サンサーラ』も国民なのだ。無用な犠牲は出したくない。……それより問題なのは蛮族どもだ。戦って勝てないとは思わないが、下手に追い詰めてゲリラ的に国土を荒らされれば国民への被害が大きい。『アトラス』どもがめったに国境を越えてこないのも、逆にそれが分かっているからだろう。いずれにせよ、こちらから攻め込むなど愚策としか言いようがない」
ジークフリード王は、ここでいったん言葉を切ると、悩ましげに息を吐きました。
「……俺が表立ってあいつを止めようとすれば、最悪、処刑するしかなくなる。だから、お前たちの手で秘密裏にあいつの行動を止めてもらいたい。『サンサーラ』でも最強の力を持ったあいつを止められるのは、キョウヤ……お前ぐらいのものだろう」
「評価してもらえて光栄だね。でも、僕にそんなことをしてやる義理はないよ? この宮殿に住まわせてもらっている対価なら、産術院の警護で払うって約束だったしね」
実に素っ気なく答えたマスターは、ジークフリード王の反応を窺うように彼の顔を見つめています。
「……わかっている。だからこれは、俺からの『願い』だ」
「……キョウヤ。わたしからもお願い。メンフィスが処刑されるなんて……わたし……嫌だよ」
ニルヴァーナの王と王女に揃って頭を下げられ、マスターはやれやれと首を振りました。
「王様はともかく、アンジェリカちゃんに頼まれちゃ、断るわけにはいかないね。……でも、その代わりに条件がある」
「な、なに? なんでもいいよ。メンフィスを助けるためなら、わたし何でもするから!」
「大したことじゃないよ。ただ……止める方法は僕に一任するってことを約束してもらいたい。彼を殺さずに止めるために、僕がどんな手段を使っても文句を言わない、邪魔をしない。そういう約束をね」
「…………」
意味不明な条件を提示するマスターの言葉に、ジークフリード王とアンジェリカは互いの顔を見合わせています。簡単に返事をしてしまってよいものかどうか、決めかねているのでしょう。
するとマスターは、そんな二人の不安を見透かすように言葉を続けました。
「心配しなくても、どんな形であれ、メンフィスさん自身には危害を加えないと約束するよ」
結局、彼ら父娘には彼の言葉に頷く以外、選択肢はないのでした。
──国王の執務室を退室してすぐ、マスターはアンジェリカに尋ねました。
「アリアンヌさんって、どこにいるんだい?」
「え? ……えっと、メンフィスの屋敷の一室だったと思うが……」
唐突に話を振られ、まばたきを繰り返すアンジェリカ。
「場所、わかる?」
「まさか、行くつもりか? だが、わたしでさえ最近では全然中に入れてもらえてないし、行ったところで意味はないと思うが……」
「なら、不法侵入でもするさ。ヒイロの《ステルス・チャフ》があれば、どうとでもなるだろうしね」
「で、でも、どうして?」
マスターの過激な発言にためらいを見せるアンジェリカですが、マスターは「確かめたいことがあるだけだよ」とだけ答えると、今度はエレンシア嬢に声を掛けました。
「エレン。君の『世界に一つだけの花』で、メンフィスさんの動向を確認しておいてもらってもいいかな? 兵士でも集めているようなら、すぐに教えてほしい」
「はい。承知いたしましたわ」
エレンシア嬢は軽く頷くと、意識を集中するように呼吸を整え始めました。全世界の植物を自身の感覚器官同様に扱えるこのスキルですが、彼女自身の情報処理能力には限界があります。そのため、メンフィス宰相の居場所を掴むにも一瞬でというわけにはいかず、探査する範囲を徐々に変えているようでした。
「それじゃあ、ヒイロ。《ステルス・チャフ》をお願いできるかな?」
「はい、マスター。お任せください」
わたしは周囲に気配隠蔽用の【因子演算式】を展開しました。
「それとリズさん?」
「は、はい!」
急にマスターから声を掛けられ、緊張気味に返事するリズさんです。
「一足先に部屋に戻って、お茶でも用意しておいてくれるかい? 本格的にメンフィス宰相が動き出すなら、ニルヴァーナの力が弱まる昼間を狙うだろうし、今晩はゆっくりリズさんの淹れてくれるお茶が飲みたいからね」
「はい! わかりました。それでは皆さんもお気をつけて」
マスターの言葉に、嬉しそうに笑うリズさん。いきなりの依頼にも嫌な顔をしないどころか、彼の世話をすることに喜びさえ感じているようでした。
「自分で頼んでおきながら何だが……随分とやる気になってくれたものだな」
アンジェリカは、てきぱきと周囲に指示を出すマスターの姿に、意外そうな顔をしています。
「そうですね。もちろん、アンジェリカさんのためという部分も大きいとは思いますが、どうやらマスターには、メンフィスさんに対して色々と思うところあるようです」
「……そうか」
おそらくそれは、アンジェリカも同じなのでしょう。小さく呟くように言いながら頷いています。
何はともあれ、わたしたちはまず、メンフィス宰相の妻であるアリアンヌさんの元に向かうことにしたのでした。
次回「第67話 母親の狂気」




