第65話 黒騎士の影
「うう……酷いです、マスター」
あれから散々にスカートの中を覗き見られ、疲労困憊となったわたしは、マスターが部屋からいなくなった後、身体をぐったりとベッドに横たえていました。肉体的な疲れであはなく精神的な疲れではありますが、こうして身体を横たえていると、自然と心も休まるから不思議なものです。
きっとマスターは、わたしがアンジェリカとマスターの『夜間飛行デート』を覗き見ていたのを知った直後、すぐにこの『作戦』を思いついたに違いありません。あえて誘いをかけ、言い訳できない状況を作り出してから事に及ぶ。まさに悪魔のような所業です。
けれど……
「……マスターは、優しい方ですね」
これは、マスターがわたしを『責めない』ために考えたことでもあったのでしょう。……正確に言えば、『わたし自身がわたしを責めない』ようにするための『作戦』だったに違いありません。
怒っていないとか気にしていないとか、そんな言葉をいくら言ったところで、わたしが自分を責めるだろうことを分かっていて、あえて状況を笑い話に変えてしまったのでしょう。
部屋を出ていく間際、彼はこんな言葉を口にしました。
「僕はね、ヒイロ。君のことは、僕と一心同体だと思ってる。それを君に無理強いする気はないけれど、僕の方はそう考えてるんだ。だから、君が気になるなら、いくらでも僕のことを『見守って』くれていい。君に見られて恥ずかしいことなんて、何もないからね」
感動的な言葉ではあります。今思い返しても、涙ぐんでしまいそうなくらいにありがたいお言葉です。……しかし、この時のわたしは、感激してばかりもいられませんでした。
「ちょ、ちょっと待ってください! さっきは恥ずかしいところを見られたからと……不公平は正さなくてはとか言って……人の下着を散々見ておいて……」
「あはは! 何のことかなー? いやあ、良かった。まさかヒイロがあんな大胆な『ひもパン』を履いているだなんて、びっくりだったね!」
「ち、ちがっ! もう! 口から出まかせを言わないでください!」
……このやりとりは今思い出しても、顔から火が出そうなほどに恥ずかしいものでした。
──それから二週間ほどは、何事もなく平和な日々が続きました。
あの日の城下町での出来事は、マスターの『異常さ』を目の当たりにした野次馬たちも口外する気にはなれなかったらしく、ならず者たちの死体はこっそりと処理されてしまったようです。もちろん、当時その場に居合わせていなかった彼らの知人たちは騒ぎ立てていたようですが、何らかの問題が生じたところで、恐らくマスターは歯牙にもかけないことでしょう。
その後のマスターはと言えば、相変わらずリズさんの世話になりっぱなしで自堕落な日々を送り、日課のようにアンジェリカとの時間を過ごし、時々はエレンシア嬢と街へデートに出かけ、夜になればこっそりわたしの部屋に遊びに来るということを繰り返していました。
何とも悠々自適な生活に見えますが、王女の婚約者だからといって、『働かざる者食うべからず』の原則を免れることはできないらしく、この間もマスターは時折、『仕事』を任されていました。
彼の仕事の中身、それは『愚者の参集』からの『産術院』の警護です。
『王魔』であるニルヴァーナやサンサーラは、人間に比べると繁殖力があまり高くありません。そのため、出産の機会もそれほど多くはないのですが、『王魔』が生まれるときには、ひとつだけ大きな問題がありました。
それが『愚者の参集』です。
『王魔』が誕生するとき、何をどうやってか、それを嗅ぎつけた『愚者』たちがどこからともなく大量に集まってくるこの現象は、過去に何度か生まれたばかりの子供たちに悲劇をもたらしているそうです。
ちなみに、十五年前に三歳で亡くなったメンフィス宰相の娘も、『愚者の参集』に巻き込まれて命を落としたという話でした。
その事件以後、メンフィス宰相の発案により『産術院』という特別な施設が作られました。出産間近な『王魔』の女性をそこに集め、集中的に警備することで『愚者』から生まれたばかりの子供たちを護ることを目的とする施設です。
「……まあ、とはいえ、『王魔』の誕生時すべてに必ず『愚者』が集まるというわけでもない。生まれる子供の潜在能力の高さに起因するとも考えられるけどね。いずれにしても、『愚かなる隻眼』を持った彼らを相手にする以上、魔法だけではない戦闘能力に秀でたものが警護に当たる必要があるんだよ」
最初にマスターにこの任務を依頼してきたメンフィス宰相は、少し悲しげな顔をしながらそう説明してくれたのでした。
マスターは、この二十日間で七回ほど護衛の任務に参加し、二度ほど『愚者』の群れの撃退に貢献していました。
「なかなか頑張っているようじゃないか、婿殿も。一昨日も『愚者』どもの撃退にかなりの貢献をしたと聞いたぞ」
王族や貴族の重鎮たちを交えた食事の席で、思い出したようにそう言ったのは、ジークフリード王でした。最初は険悪だったマスターとの関係も、今ではすっかり打ち解けているようで、国王は上機嫌な顔をしています。
「当然よ。キョウヤはすごいんだから!」
猛然と食事を口に運びながら、我がことのように笑ったのはアンジェリカです。彼女はマスターが『任務』に赴く前にはかならず彼と会って、キスを交わしているのでした。
「よくわからないけど、何故か僕の『魔法』だけは、『愚者』にも多少は有効だったみたいだからね。僕の周りにも『ニルヴァーナ』の精鋭の人たちがいたし、他にも……装備品のことも含めてヒイロが色々とサポートしてくれたのも大きかったかな」
マスターがそう言うと、会食に同席している人々の視線が、一斉にこちらを向くのが分かりました。
「いえ、マスターのお力あってこそです」
そう言って謙遜しては見たものの、特にサンサーラの貴族たちは、ますます興味関心を示したように熱いまなざしを向けてきていました。
「いや、それにしてもヒイロ殿は『オリハルコン』でさえ生成されていらっしゃるのだ。さぞかし、その他の装備も優れたものをおつくりになられたのでしょうな。今度ぜひ、我々にもその英知を御教授いただきたいですぞ」
会食に同席していた『サンサーラ』のうち、青い髪を綺麗に撫でつけ、皮膚の一部に赤と青、二色に輝く金属の鱗をつけた老人が感心したように言いました。彼の名は、ガルシア・スフィア・コアトル。メンフィス宰相に次ぐ地位にあり、『サンサーラ』の実質的なナンバー2です。
「いえ、それほどでも……」
わたしの場合、努力の成果とばかりは言えないせいか、どうにも気まずい思いで返事をする羽目になってしまいました。
「ガルシア、その辺でやめておきたまえ。ヒイロさんが困っているだろう?」
わたしは気を利かせたメンフィス宰相の助け舟に、思わず胸をなでおろします。
「それよりメンフィス。国内視察の結果はどうだったの?」
「こら、アンジェリカ。この会食で仕事の話はしないといっただろう?」
「何よ。お父様の話だって、キョウヤのお仕事のことだったじゃない」
「……む。そう言えばそうか」
娘に言い返され、大人しく口をつぐむジークフリード王。以前のこの父娘には見られなかったこの光景に、会食の場に集まった皆は微笑ましげな視線を向けていました。
「ジーク。視察先の状況について、王女である彼女に話しておくことは、別に悪いことではないと思うよ。そもそも、そんなに難しい話じゃないしね」
「ああ、お前がそう言うなら構わんが……」
「やった! それじゃ、聞かせて?」
自分の望む話の流れになったことを喜び、目を輝かせるアンジェリカ。
「今回は、東の蛮族領との国境付近を見に行ってきたんだ。あそこは時々、『アトラス』どもが侵入してきて、近隣の町や村が被害にあうことが多い地域だからね」
「うん。あいつら、本当に野蛮よね」
アンジェリカは憤慨したように言います。聞いた話では、『アトラス』とはこの世界における『巨人種』の末裔だとのことで、肉体的な力では『王魔』でも随一のものを誇っているそうです。一方でその知能は『王魔』にしては低く、ちょうど『ニルヴァーナ』とは対照的に『肉体的・原始的な快楽』に重きを置く種族だということで、この国では蛮族扱いされているとのことでした。
「ああ。で、近隣の町や村で聞き込みをしていたんだけどね。ここ最近、被害が増えているらしい。で、ここから先が興味深い話なんだが……国境警備隊は捕えた『アトラス』に尋問をしてみたんだそうだ」
「うんうん!」
わくわくした顔で続きを待つアンジェリカ。
「その蛮族が言うには……最近、アジトにしていた複数の拠点が『黒騎士アスタロト』とやらに壊滅させられたせいで、余計に物資を掠奪する必要が生じているらしい。まあ、物資が必要だなんて話は所詮、蛮族どもの言い訳だろうけど、それは別にしても気にはなる。彼らの間では、『悪魔』だなんて仰々しい呼び名で呼ばれることもあるらしいし、一体何者なんだろうね?」
「黒騎士!?」
「アスタロト!?」
わたしとアンジェリカの二人は、思わず大声を上げてしまいました。エレンシア嬢とリズさんも同席はしているのですが、この二人はあの『黒騎士』のことを知らないはずです。
「え? 知っているのかい?」
メンフィス宰相は、驚いた顔でわたしたちに目を向けてきます。するとなぜか、アンジェリカはバツの悪そうな顔をして黙り込んでしまいました。そのため、仕方なくわたしが事情を説明することにします。
あの黒騎士がエレンシア嬢の屋敷を囲む『愚者』たちの中にいたこと。鎧の中に見え隠れした光の波長から言って、恐らくは黒騎士自体も『愚者』だろうということ。そしてその黒騎士は、異常なまでの強さを誇っていたこと……などの情報を伝えたところで、わたしはメンフィス宰相の様子がおかしいことに気が付きました。
「そうか……。『黒騎士アスタロト』とやらは、『愚者』だったのか」
彼は顔から一切の表情を消したまま、虚空を見上げてぶつぶつと呟いています。
「それもそれだけの強さを持つとなれば……最低でも『惨禍』クラスの個体に違いない。君らの言うとおり意思の疎通が可能なのだとすれば、『オロチ』の居場所も聞き出せるかもしれない……くそ! そうと知っていれば、蛮族どもを拷問してでも、もっと『黒騎士』の情報を吐かせていたものを!」
それまでの優しげな雰囲気をかなぐり捨てたかのように、声を荒げるメンフィス宰相。和やかな会食の席が一瞬のうちに気まずいものになってしまいましたが、それでも彼をたしなめようとする者はいませんでした。国王であり、彼の親友でもあるジークフリード王ですら、彼のことを痛々しげに見つめるだけです。
アンジェリカに至っては、失敗したとばかりに頭を抱えてしまっています。
〈どうしたんだろうね、メンフィスさん〉
ここでマスターがわたしに高速思考伝達のスキルを使って問いかけてきました。わたしはその問いに少し考え、やがて結論にたどり着きます。
〈……過去に聞いた話では、十五年前、当時三歳だったメンフィス宰相の娘さんが『愚者』に殺されています。彼の妻も、自分の実の娘が目の前で巨大な大蛇に丸呑みにされるのを見て、精神に異常をきたしてしまったとか……〉
〈……それはえぐい話だね。なるほど、それじゃあ皆が彼に気を遣うのも無理はないか〉
さすがのマスターもそれ以上は何も言わず、黙ってメンフィス宰相のことを見つめていたのでした。
次回「第66話 十五年前の悲劇」




