第64話 お嬢様の宣戦布告
──触らぬ神に祟りなし。
血生臭い死体が転がるその場所から、野次馬たちは我先にと背を向けて歩き出しました。走り出しこそしないものの、その足取りには一刻も早くこの『異常なモノ』から離れたいという思いが見え隠れしているようでした。
ちなみに、今回の件で『ニルヴァーナ』を三人殺害したことにより、マスターの『世界で一番綺麗な私』のスキルポイントに変化が見られました。
『未完成スキル6』
特殊スキル『世界で一番綺麗な私』の効果により発生。現在、2340ポイント。スキル完成まで残り60ポイント。
1人当たり、150ポイントといったところでしょうか? ただのチンピラでさえ人間の15倍ですので、やはり種族の違いも大きいようです。
「キョウヤ様……」
エスコートするように自分の手を取り、道を歩き始めるマスターにエレンシア嬢が戸惑い気味に呼びかけました。
「なんだい?」
「い、いえ……その、あの三人はあのままで?」
言外に彼女は、三人をスキルで蘇生させた方がいいのではないかと言っているようです。この場にわたしがいれば、もちろん同じことを進言したでしょう。今はごまかせても、時間が経てば面倒なことになる可能性はあるのです。
「うん。道端にゴミを捨てるほど僕のモラルも腐ってはいないけど、いちいち街中のゴミを拾ってやるほど暇じゃないしね」
マスターはエレンシア嬢の手を引きながら、きょろきょろと通りの左右に並ぶ店を眺めています。恐らく先ほどの言葉どおり、飲食店を探しているのでしょう。
そのあまりにも何気ない、普段通りの彼の態度に、エレンシア嬢は小さく息を吐き、諦めたように首を振りました。
「……わかりましたわ。それはともかく、助けてくださって、ありがとうございました。本当ならあの程度の相手は、わたくしが自分で何とかしなければいけなかったのです。なのに、いつも足手まといになってばかりで……」
そう言って頭を下げるエレンシア嬢。しかし、マスターは振り返りもしないまま、ただし、彼女の手だけはしっかりと掴んだままで、言いました。
「……エレン。僕は言ったはずだぜ。君は僕が護ってあげる。君に降りかかる災いは、僕がすべて振り払う。君はお嬢様のままでもいいし、化け物になっても構わない。誰を愛し、誰を憎むも、すべては君の思いのままだ。……だけど、僕はそんな君を否定する奴に、この世界で『息をさせてやる』つもりはない」
「あ……キョウヤ様……」
エレンシア嬢は、その言葉に頬を紅潮させてうつむきました。その顔には喜びと同時に、悲しみの色が混じり込んでいるように見えます。
やがて二人は、人込みを避けるように町はずれの小さな飲食店で食事を済ませると、エレンシア嬢のための衣装を買ったり、噴水や庭園が整備された公園を散策したりと、ようやく『デート』らしい時間を過ごすことができました。
「でも、街に入って早々に騒ぎになっちゃったからね。本当ならもっと街中のおしゃれなお店とかに行ければよかったんだけど」
「とんでもありませんわ。……今日はご一緒できて、すごく楽しかったです。キョウヤ様に気を遣っていただけて、優しくしてもらえて……本当に嬉しいです」
公園のベンチに腰を掛け、エレンシア嬢は眩しそうに夕日を見つめています。
「その割には、全然楽しそうじゃなかったね。もしかして、迷惑だった?」
「い、いえ……そんなこと……」
マスターに顔を覗き込まれ、慌てて目を逸らすエレンシア嬢。
「僕に気を遣わなくていいんだよ。実のところ、こうやって女の子とまともにデートするの、初めてだからね。至らないところがあったら言ってもらえるとありがたいかな」
マスターは気楽な口調で笑いますが、何かを探るような目をしています。さすがにここで、エレンシア嬢も彼の視線に気づいたのでしょう。諦めたように大きく息を吐き、それからゆっくりと口を開きました。
「どうしても……気にかかることがあって……」
「なんだい?」
「……キョウヤ様は以前、わたくしに言ってくださいました。『君に同情している。だから、君を助けてあげたいのだ』と。……わたくしは、そんな貴方のお気持ちが嬉しかった。こんな身体になったわたくしのことを、正面から見つめてくれて、心から同情してくれるなんて……本当に、なんて優しい人なんだろうと思いました」
そこまで口にしたところで、エレンシア嬢は隣に腰掛けたマスターに身体ごと向き直りました。
「でも……時間が経つにつれて、それが悲しくなってしまったんです」
「……どうして?」
優しく、答えを急がせない問いかけ。マスターはエレンシア嬢の言いたいことを少しでも汲み取ろうとしているのか、真剣なまなざしで彼女の顔を見つめています。
「ヒイロやアンジェリカさん、リズに向ける貴方の思いやりと、わたくしに向けてくれるそれとの違いに気づいたからです」
「違い?」
不思議そうに首をかしげるマスター。
「彼女たちは、きっと貴方にとって特別な存在なのでしょう。けれど、わたくしは……『同情』をしていただいているだけ。……バカみたいだとお思いになるかもしれません。自分でもそう思います。贅沢を言うべきではないとも……。あなたにそれを望むのは……『間違って』いるのだとわかっています。でも、それでもわたくしは、そのことが悲しくて……」
「エレン……」
「ご、ごめんなさい! こんなことを言われても、迷惑なだけですわよね。忘れてください。わたくしなら、大丈夫ですわ。だって、今日がこんなにも楽しかったのですもの。明日からは、元気な自分に戻れますわ」
エレンシア嬢はそう言うと、マスターに向かって精一杯の微笑みを浮かべてみせました。
すると、それを見たマスターはいきなり立ち上がり、依然としてベンチに腰掛けたままの彼女の前に跪いたのです。
「え? え?」
戸惑うエレンシア嬢の手を取り、まるで女王にかしずく騎士のような姿勢のまま、彼女の顔を見上げるマスター。
「君は、僕の『特別』だよ」
短い一言。けれどそれだけに、そこに込められた思いは見えません。だからエレンシア嬢は、小さく首を振りました。
「いいんです。わたくしがお父様に殺されそうになったことで、あなたはわたくしに同情してくれた。でも、それがなかったら、ここまで優しくはしてくれなかったでしょう」
しかしマスターは、そんな彼女に困ったような笑みを向けました。
「特別なんだ」
「……キョウヤ、様?」
意味もなく繰り返される言葉に、さすがに怪訝そうな顔をするエレンシア嬢。
「この世で僕が唯一、『尊敬』しているのは君だけだ。もちろん、それ以外の感情もあるけれど、君にだけ『特別に強く抱く気持ち』が何なのかと言えば、まさにその一言に尽きる」
そう言った時の、マスターの顔。それは遠隔操作型の【式】を通じて見ているだけのわたしでさえ、息がつまるほどに美しいものでした。
「で、でも……どうして?」
エレンシア嬢は、鏡のように澄んだ彼の瞳に目を釘付けにしたまま、熱に浮かされた顔で問いかけました。
「君は……実の両親から化け物だと言われて閉じ込められ、挙句の果てには家の体面のために殺されるところだった」
「…………」
「なのに君は……そんな両親のことを今もなお、『愛して』いる」
マスターは、かつてないほどに真剣な顔をして、彼女のことを見つめています。
「僕には、そんな君の『愛』がたまらなく眩しいんだ。だから僕は、君のことを『心』から尊敬している。それは僕には……決してできなかったことだから」
マスターは自らの尊敬の念を形にするように、エレンシア嬢の手の甲に軽く唇を落としました。それからゆっくりと立ち上がり、さらに言葉を続けます。
「わかるかい? 僕は同情だけで、君に優しくしているわけじゃない。誰だって自分が憧れている相手には、よく思われたいと思うものだろ? だからね、『お嬢様』。──僕は君に、『気に入られたくて』やっているのさ」
「き、気に入られたくて……」
エレンシア嬢の翡翠の瞳には、紅く空を染める夕日を背に、照れくさそうに笑うマスターの姿が映っていました。
それから数秒の間、マスターの顔に見惚れていたエレンシア嬢ですが、やがて花が綻ぶような笑みを浮かべました。
「思ってもみなかったくらい、嬉しい言葉ですわ。……でも」
彼女はすぐに笑みを消すと、自分も勢いよくベンチから立ち上がり、そのまま目の前に立つマスターの身体に身を寄せます。
「わたくしが……本当に欲しかった言葉とは違います」
「……え?」
突然の彼女の動きには、マスターも反応できなかったようです。胸元を掴まれて顔を引き寄せられた彼は、彼女の唇が自分のそれに重ねられたところで、驚きに目を丸くしていました。
それからさらに数秒が経過し、ようやく唇を離したエレンシア嬢は、そのままマスターに背を向けてしまいます。
「え? あ、いや……今のって」
呆気にとられたように彼女の背に声をかけたマスターは、彼にしては珍しく狼狽えた顔をしています。
「うふふ! これはわたくしからの宣戦布告ですわ。……いつか必ず、キョウヤ様の口から『わたくしの欲しい言葉』を言わせてみせますから、覚悟しておいてくださいね?」
そう言って、夕日の中を歩き出すエレンシア嬢。
そんな彼女の背を見つめ、マスターは小さく首を振りました。
「し、舌を入れられてしまった……」
自分の口元に手を当て、ぼんやりとした顔でつぶやくマスター。
し、舌って……。エレンシア嬢は見かけによらず、随分と大胆なようです。
などと、わたしがその程度のことに驚いていられたのも束の間のことでした。
「もし、今のをヒイロが見ていたらと思うと……これはさすがに、アンジェリカちゃんの時より恥ずかしいかも……」
……この言葉を聞いた瞬間、わたしは思わず叫び声をあげてしまいました。もちろん、声を上げたのは《スパイ・モスキート》ではなく、自室にある『素体』です。
とっさに【式】を解除し、意識の中心を『素体』に戻したものの、いまだに動悸が収まりません。
やはりマスターは、わたしが彼とアンジェリカとのキスを見ていたことを知っていたのです。だとすれば、出発前のあの言葉は、わたしに『釘を刺す』ためのものだったに違いありません。……あるいは、わたしを『試す』ための言葉だったのかもしれません。
だというのに、わたしときたら……またもや節操もなく『覗き見』をしてしまうだなんて。
「ど、どうしよう……」
絶望感がわたしを襲います。よりにもよって、他の女性とのデートを覗き見するような者など、信頼できるはずがありません。
このままじゃきっと、マスターに失望される。マスターに嫌われる。マスターに見捨てられる。どうしよう、どうしよう、どうしよう、どうしよう……。
──その日の夜、帰ってきたマスターと顔を合わせることもできずに自室にこもっていたわたしは、部屋の扉がノックされる音に気付きました。いえ、ノックなどされなくとも、わたしには『虫の居所の知らせ』の効果により、マスターの居場所などすぐにわかるのです。
「ど、どうぞ……」
わたしは消え入りそうな声で返事をします。とうとう、この時が来てしまった。きっとマスターは、わたしを怒りに来たに違いない。謝っても許してもらえないかもしれない。でも、どうにかして許してもらわなければ……わたしは、わたしの『存在意義』を失ってしまう!
「ごめんね、夜遅くに」
部屋の扉がゆっくりと開き、いつもと変わったところのない顔のマスターが入ってきました。
「さて、ヒイロ。そこの寝台にでも座ってもらえるかな?」
「は、はい……」
部屋に入るなり指示を出してくるマスターに、ますます不安な気持ちを募らせつつ、わたしは寝台に腰を掛けました。
「僕が何で来たのか、わかってるみたいだね?」
「は、はい……。も、申し訳ございません」
わたしはスカートの裾をぎゅっと掴み、絞り出すような声で謝罪します。頭を下げたせいで彼の表情が確認できないのが、せめてもの救いでした。
「アンジェリカちゃんの時も……それからやっぱり今日のエレンの時も、ヒイロは僕と彼女たちとの恥ずかしい場面をかぶりつきで見ていたわけだ」
「うう……」
自分の顔が熱くなっていることを自覚してしまいます。なんて愚かな真似をしてしまったのでしょうか。
「こいつはちょっと、不公平だよね?」
「え?」
不公平? 何を言っているのでしょうか?
「僕ばかり恥ずかしいところを見られて、これじゃあ釣り合わないと思わないかい?」
「あ、あの……お話がよくわかりません。わたしをお叱りに来たのではないのですか?」
「ん? 僕のことを『見守って』くれた君のことを、どうして僕が叱るんだい? そのこと自体は問題ないさ。エレンの時は、僕の方からそうしてほしいと頼んだんだしね」
「じゃあ、いったい……」
「でも、それとこれとは話が別だろ? 不公平は正さなくちゃいけない。だから……今度は僕がヒイロの恥ずかしいところを見る番じゃないかなあ?」
そう言って、嫌らしく笑うマスター。今日の夕方、エレンシア嬢に向けていた無邪気な少年のような顔からはまるで想像もつかない、欲望丸出しの表情です。
「え? え?」
「ふふふ。覚悟はいいかい?」
「ちょ、ちょっと待ってください。それ、全然意味がわかりませんよ!」
マスターはわたしの叫びを無視するように、両手をわきわきと不気味に動かしながら、徐々ににじり寄ってきます。
「大丈夫、大丈夫。僕、嫌がる女の子の弱みに付け込んで酷いことをするような下卑た男じゃないから」
「言ってることとやってることが矛盾してます!」
「ヒイロはただ、ちょっとばかし僕に、女子高生の『スカートの中の神秘』を見せてくれればいいだけだから! ね?」
「言ってることが滅茶苦茶です!」
わたしは寝台の上をずるずると後ずさりしながら叫びました。
「ダメダメ、逃がさないよ?」
にたりと悪魔のような笑みを浮かべながら、両手を広げて襲い掛かってくるマスター。
「きゃあああ!」
結局、『弱み』を抱えるわたしには、大した抵抗もできなかったのでした。
次回「第65話 黒騎士の影」




