第61話 『女の子』と『ナビゲーター』
マスターがジークフリード王と激戦を繰り広げてから、一週間が経った頃のことです。
その日の朝、ヒイロはマスターが起きただろう頃合を見計らい、彼の寝室へと向かうことにしました。さすがに現在では、ヒイロはマスターと寝室を別にしていました。形式上とはいえ、さすがに王女の婚約者扱いとなっているマスターが他の女性と同じ部屋で寝るというのは、避けた方が無難だと判断したからです。
「あ、おはようございます! ヒイロ様!」
「え? あ、はい……おはようございます」
廊下を歩いていると、身体に無数の金属片を張り付けた若者から声を掛けられました。学者風の服を身に着けているところを見ると、『サンサーラ』の研究者か何かでしょうか。
「よろしければぜひ、わたくしどもの研究室にも足をお運びください!」
「あ、はい。ありがとうございます」
ヒイロがそう言って頭を下げると、その研究者の青年は恐縮したように首を振りましたが、その目は喜びに輝いているようです。
会釈をして彼と別れ、廊下を歩きながら、ヒイロは大きくため息をついてしまいます。
ここのところ、ヒイロはこうして『サンサーラ』の研究者たちからのお招きを受けることが多くなってしまいました。原因はもちろん、ヒイロが『オリハルコン』の錬成に成功したことでしょうが、それにしても彼らの熱心さは尋常ではありません。
そのことで一度マスターにご相談したこともあったのですが、彼は笑ってこう言いました。
「あはは。頭が良い人たちって、自分よりさらに頭が良い人のことをとかく尊敬しがちなものだからね。ましてや、それがヒイロみたいに若くて可愛い女の子だったなんてなれば、彼らにとってはアイドルが現れたようなものなんじゃないかな? できる限り、要望を聞いてあげたらいいんじゃないかい? 世話にもなっているんだし」
マスターにそう言われてしまっては、むげに断ることもできませんし、ヒイロ自身、こうして誰かに慕われるということを『心地いい』ものだと感じている部分も否定できませんでした。
とはいえ。最近ではマスターと過ごす時間が短くなってきていることが、不満と言えば不満ではあります。
それはさておき、ヒイロがマスターの部屋にたどり着いたときには、ちょうどリズさんが彼の部屋へと入っていくところでした。
「……またですか。というか、ここ数日は毎日のことになってしまっていますね」
つい、そんな独り言をこぼしつつ、彼女の後を追うように寝室へと入っていきます。
「……御主人様? 朝ですよ。起きてくださいませ」
「う、ううーん。あと五分」
リズさんに優しく呼びかけられ、寝起きにおける定番の文句を返すマスター。リズさんはいつもの通りのエプロンドレスに身を包み、両手を腰に当てて「仕方がないですねえ」と言いつつ、大きく息を吐いています。
それからリズさんは、マスターのベッドのそばを素通りしてカーテンを開き、部屋の中に日光を採り入れました。さらには、脱ぎ散らかされた衣服をまとめて近くの洗濯籠に入れ、マスターのための新しい衣服を用意するなど、ベッドの周囲でテキパキと作業を進めていきます。
「リズさん……いつもすみません」
「え? ああ、おはようございます。ヒイロさん」
作業の手を止め、部屋の入り口に立つヒイロににっこりと微笑みを返してくれるリズさん。まさにメイドの鑑のような振る舞いですが、しかし、彼女はマスターのメイドではありません。
彼女はもちろん、エレンシア嬢と同室であり、彼女の世話を済ませてから、こちらに来ているはずなのです。
「マスター? さすがにこれほど毎日、リズさんに面倒を見ていただくのは、よろしくないのではありませんか?」
申し訳なく思ったヒイロは、眠ったままのマスターに、つい非難めいた言葉を口にしてしまいました。
「いいえ。ヒイロさん。いいんです。わたしが好きでしていることですから」
そんな風に言って笑うリズさんは、確かにどことなく嬉しそうな顔をしており、疲れているとか、無理をしているとか言った様子もありません。
「でも、御主人様? あまりお寝坊はいけませんよ?」
ベッドのそばに近づき、彼の肩に触れるようにして声掛けを再開するリズさん。
「……ん。うん。おはよう……リズさん」
ここでようやくマスターは、寝ぼけた顔のままゆっくりと起き上り、それから、リズさんの顔を見上げて微笑みかけました。
「……? どうしましたか?」
そんな彼の様子に、不思議そうに首をかしげるリズさん。するとマスターは、そのまま両手を彼女に向かって広げるようにして言いました。
「僕のメイドさんに、お目覚めのキスをしてもらいたいなあって」
すると、次の瞬間でした。
「な! ……も、もう! そういう冗談はやめてください……」
たちまち顔を真っ赤にしたリズさんは、栗色の髪を振り乱しながら部屋を飛び出していってしまいました。それでもなお、洗濯籠を忘れていかなかったのはさすがと言うべきでしょうか。
「…………」
部屋に残されたのは、マスターとヒイロ、二人だけです。
当然、部屋を飛び出したリズさんに目を向けていたマスターの顔は、入り口の傍に立つヒイロの方へと向けられていました。
「マスター」
「……なんだい、ヒイロ」
露骨にこちらから目を逸らすマスター。ヒイロはゆっくりと、彼の座るベッドへと近づいていきます。
「マスター、マスター、マスター」
「……い、いや、聞こえてるよ?」
上擦った声で言いながら、マスターはなおもこちらを見ようとしません。
「今日という今日は、言わせていただきます。いくらなんでもやりすぎです。リズさんが可哀想じゃありませんか。あの『御主人様』という呼称も、マスターがお願いしているんですか?」
ヒイロがそう言うと、マスターはなぜか安堵の息を吐いたようでした。それから、ゆっくりとこちらに顔を向けてきます。
「そうだよ。でも、リズさんが『嫌がるようなこと』は、何一つしていない。僕はリズさんのことが大好きだし、彼女にはできるだけ喜んでもらいたいからね」
「で、でも、さっきだって……」
「まあ、あれは確かにちょっと冗談が過ぎちゃったかもしれないけどね。でも基本的には喜んでもらえてると思ってるよ。彼女は何というか……生粋のメイドさんだからね」
「む……」
先ほどテキパキと作業を続けていた時のリズさんの、嬉しそうな姿を思い浮かべたヒイロは、反論の言葉を失ってしまいます。
「つまり、あえて世話をしてもらっているということですか?」
「うん。もちろんさ。決してメイドさんに甘えるのが楽しくて調子に乗っているわけじゃないよ」
「……一気に胡散臭くなってしまいましたね」
とはいえ、どうやら完全な嘘と言うわけでもなさそうです。一方、ヒイロにはまだ気になることがあります。
「そういえば、マスター」
「なんだい?」
「先ほどはどうして、あんなに動揺していらっしゃったのですか?」
「え? 動揺なんてしてたかな?」
とぼけた顔で言うマスターですが、ヒイロは表情を変えずに言葉を返しました。
「ええ、マスターにしては珍しく」
「うーん。まあ、してたとすれば……ヒイロが怖かったからかな?」
そう言って、悪戯っぽく笑うマスター。
「怖い……ですか? そんな顔をしたつもりはありませんでしたが……」
「いやいや、怖かったよ。僕としては、ヒイロに焼きもちを焼かせるつもりはなかったんだけどね」
「え?」
あまりにも予想外の言葉に、ヒイロはとっさに反応することができませんでした。ただ、思い出されるのはあの瞬間のこと──マスターがリズさんにキスをせがんだ時の、なんとも言えない心の高ぶりのことです。そしてそれは、マスターの言う『焼きもち』という表現にぴたりとあてはまってしまうものでした。
「あ、あうう……」
見透かされてしまった。そのことが、ヒイロの頬を熱くしてしまいます。恥ずかしくて、逃げ出したい気分です。ナビゲーターでありながら、こんな感情を抱くなど『間違って』います。
うろたえるヒイロを見て、マスターは軽くため息を吐いたようでした。きっと、呆れられてしまったに違いありません。穴があったら入りたいとは、このことでした。
「ねえ、ヒイロ。そんなに心配しなくても、この世界で僕の相棒役が務まるのは、ヒイロだけだよ。いくらリズさんが最高に有能なメイドさんでも、君の役目が奪われるなんてこと、あるわけないだろ?」
しかし、このマスターの言葉は、少々意味不明です。なんとなく、話がつながっているようで、つながっていないような……。
「えっと……役目が奪われる……ですか?」
「うん。あんまり彼女が僕の世話を焼くものだから、ヒイロはそれが心配になって、焼きもちを焼いちゃったんじゃないのかい?」
きょとんとした顔で言葉を返してくるマスター。どうやら、冗談やからかいのつもりで言っているわけではなさそうです。つまり、『見透かされている』とヒイロが考えてしまったこと自体が、勘違いだったのでしょう。
「……ああ」
「ヒイロ? どうしたの?」
「もう、なんというか……」
がっくりと肩を落とした後、どうにも我慢ならなくなったヒイロは、一気にマスターの元まで詰め寄りました。
「あなたという人は……どうしてこう……」
「え? え? いったい、何が?」
あまりに早足で駆け寄ってくるヒイロに驚いたのでしょう。マスターは座った姿勢のまま、のけぞるように後退しようとしています。しかし、ヒイロは構わず、ベッドの縁に片膝を乗せ、彼の両肩をがっしりと掴みました。
自分の紅い髪が、さらりとマスターの身体の上にかかるのが分かりました。
「あ、えっと、ヒイロ? 顔が近い……すごく近いんだけど……」
彼にしては珍しく、ひどく狼狽えた顔をしています。人の心をもてあそんだ罰です。いい気味です。この時点で……『わたし』の頭は沸騰してしまったかのように思考が定まらず、支離滅裂にそんなことを考えてしまっていました。
「いいですか? マスター。それもこれも……あなたが『わたし』のことを『女の子』扱いし続けるから悪いんです!」
「え、いや、その……」
「わたしは……『進化する知性体』なんですから、そんなことをされれば……『そうなって』しまうんです。つまり、あなたのせいなんですよ?」
「あ、うん。なんだかよくわからないけど……ごめん」
間近に迫るわたしの顔を呆気にとられたように見つめ、マスターは謝罪の言葉を口にします。
「……なのに、この時とばかりに『ナビゲーター』としての『ヒイロ』が役目について焼きもちを焼いていないか心配するだなんて……。それじゃあ、わたしが勘違いしてしまったのも、わたしのせいじゃありませんよね?」
「か、勘違い?」
意味が分からず、目を瞬かせるマスター。しかし、普段から頭の回転の速いマスターのことです。少し考えれば、正解にたどり着いてしまいそうでした。わたしはなおもそれに気づかず、ひたすらまくしたてるように言葉を続けます。
「それと……『顔が近い』でしたか? でも、あの夜のアンジェリカさんとマスターなんて、顔が近いどころじゃありませんでしたよね? それとも、わたしとでは嫌だって言うんですか?」
何か致命的な言葉を口走ってしまった気がしないでもないですが、暴走状態のわたしはすでに、手遅れでした。マスターは目を丸くしながらも、少しだけ優しく微笑んで、わたしの言葉を黙って聞いています。
「もちろん、『魔法』を使えるようにするためにも、『あの行為』が必要だったということはわかってます。でも……恐らくわたしは、どう頑張っても『魔法』が使えるようにはなれないんです。アンジェリカさんもエレンもリズさんも、魔法が使えるようになって、それでもわたしだけは……」
何が言いたいのか、自分でもよくわかりません。それを先に理解したのは、いえ、『理解してしまった』のは、マスターでした。
「ヒイロ」
「え? ……ふぁ!」
わたしは、唇に触れた柔らかな感触に、思わず身体を硬直させてしまいました。目を閉じることもなかったため、わたしの視界には、わたしにとって唯一無二のマスターの顔が全面に映し出されています。
「ん……んむむ、ぷは!」
時間にすれば、それほど長くはなかったでしょう。しかし、それでも、まるで息の詰まるようなその接吻は、わたしの呼吸を苦しいものにしていました。
「ま、ま、ままままま! マスター! い、いったい、何を……」
頭の中が真っ白に染まり、視界がぐるぐると回転しているような錯覚さえ感じつつ、わたしは裏返った声を上げていました。
「……ごめん。君があんまり可愛かったから、ちょっと我慢ができなかったんだ」
ごめんと言いつつ、まったく悪びれていない声で謝るマスター。
「……う、うう。で、でも、こんなの、あんまりです。わ、わた……ヒイロは……『ナビゲーター』なのに……」
「そうだね。君はヒイロという名の女の子で、僕の異世界案内人だ。それのどこに問題があるのかな?」
「……え?」
目に半分涙を浮かべたまま、マスターを見返すわたし。
すると、そんなわたしにマスターは、にっこり笑って言いました。
「大丈夫。ヒイロはヒイロだよ。何も間違っていないさ。僕みたいな奴の保証なんてあてにはならないだろうけど、それでも僕は『心』からそれを保証するよ」
鏡のように黒々とした……けれどもどこまでも澄んだ彼の瞳。吸い込まれそうなその色を前にして、わたしはあらためて、全身が熱くなるのを感じてしまいました。
「マ、マスター……」
しかし、わたしが感極まってマスターに手を伸ばそうとした、その時でした。
「ヒイロ? こちらにいましたの。今日もわたくしの魔法の練習に……」
付き合ってほしい。彼女、エレンシア嬢はそう続けようとしたのでしょう。ですがその言葉は、そこで止まってしまいます。
彼女の翡翠の瞳に映る光景。それは、ひとつのベッドの上、わたしがマスターを押し倒さんばかりに覆いかぶさろうとしているというものでした。
「……は、破廉恥ですわー!」
ドラグーン王国の王城ドラッケン。
その客室前廊下に、甲高い女性の声が響き渡ったのでした。
次回「第62話 世界樹の魔法」




