第56話 夜間飛行と決戦前日
アンジェリカの部屋のある場所は、宮殿の地上三階にあたります。
つまり、そこから抜け出そうとするなら当然、空を飛ばなければなりません。
「……なんかこれ、全然ロマンチックじゃないわ」
ぶつぶつと文句を言うアンジェリカ。
「そうかい? 二人で夜間飛行だなんて、おしゃれでいいと思うけどなあ」
上機嫌に笑うマスター。
「わたしがキョウヤを、『ぶら下げて』飛んでいるんじゃなければね」
不機嫌そうな声を出しながらも、アンジェリカの顔には笑顔が浮かんでいます。
窓から飛び出した二人は、アンジェリカの羽根で空高く急上昇し、青く輝く月明かりの中、眼下に広がる城と街の様子を見下ろしていました。
「やっぱり、ニルヴァーナの街だけあって、夜の方がにぎやかな感じだね」
「そうね。騒ぎになっちゃうから降りられないのが残念だけど、わたしも夜のこの街の雰囲気は好きよ」
「じゃあ、僕たちがお義父さん公認の仲になったら、堂々と街中デートでもしようか?」
マスターが言うと、アンジェリカはやれやれといった風に息を吐きました。
「キョウヤって、万事がそんな調子なの?」
「ん? 僕は自分の気持ちに正直に言っているだけだよ。……僕のことを正面から受け止めてくれる人が相手ならね」
「……わかったわ。少なくとも、『誰にでも』ってわけじゃないのね?」
「もちろんだよ。はっきり言って僕、今の同行メンバー以外の人たちには、興味も関心もないんだ。まあ、どうでもいいとまでは言わないけれど、少なくとも大事ではないかな?」
「じゃあ……わたしは、大事?」
おずおずと、といった声で聞くアンジェリカ。
「大事どころか、『特別』だよ。前にも言っただろ? 僕はアンジェリカちゃんと一緒にいたいんだ。だから、雷帝だろうが何だろうが、それを邪魔する奴はぶちのめしてやる」
「うふふ、あはは!」
「なんだよ、そんなにおかしかったかい?」
「ううん。違うの。わたしのお母様がね、昔お父様に似たような言葉でプロポーズされたんだって」
アンジェリカはそう言いながらも、くすくすと笑い続けています。
「あれ? そう言えば、アンジェリカちゃんのお母さんって……」
「……疲れた」
「え?」
「キョウヤをぶら下げて飛ぶのも疲れちゃった。あっちの山の上で、少し休も?」
「ああ、ごめんね。重かったかい?」
「ううん。落ち着いて話したいだけ」
そう言うと、アンジェリカは城の裏手にある小高い山の頂上へと降り立ちました。そのまま二人は、木々がまばらに生えた一角を見つけ、短い草が生い茂る斜面に並んで腰を下ろします。
「ちょうどいい感じに開けた場所があって良かったね。ここからなら、星空もよく見えるし……」
「うん。……ああ、それで、さっきのお母様のことなんだけど……今、旅に出ているの」
「え? 旅に?」
「そうよ。何でも支配したがるお父様が、唯一支配できなかった女。自由奔放でひとつの所に留まらないお母様は、国の皆からそんな風に呼ばれているわね。でも、すごく優しくて、面白いの。時々帰ってきてくれて、土産話にいろいろな話を聞かせてくれるのよ?」
「へえ、随分と素敵なお母さんなんだね。……ちょっとうらやましいな」
「そういえば、キョウヤのお父さんとお母さんって……」
「あ、ごめん……。その話は、あんまりしたくないんだ。自分から言い出したのに、ごめんね」
マスターは夜空の星を見上げたまま、申し訳なさそうに言いました。隣に座ったアンジェリカは、横目で彼の顔をちらりと見た後、小さく首を振って言葉を返します。
「ううん……いいの。誰にでも、触れられたくないことってあるもんね」
いつもは尊大な話し方をするアンジェリカですが、本来の彼女はきっと、こうした気遣いのできる優しい女の子なのかもしれません。
するとここでマスターは、何かを思い出したかのように手を打ちました。
「そうそう。ちなみに、あのぬいぐるみのことは、アンジェリカちゃんの触れられたくないことなのかな?」
「あああ! もう! なんでここで思い出すのよ! いい感じでうやむやになったかと思ったのにー!」
頬を膨らませるアンジェリカの抗議の声に、マスターは視線を空から隣に座る彼女へと戻します。そして、実に楽しそうな笑みを浮かべ、彼女に話しかけました。
「いやいや、そんなに恥ずかしがらなくてもいいじゃないか。僕は好きだよ? 普段強気な女の子が、実はああいう可愛らしい趣味を持っていたとか、最高のギャップ萌えじゃないか」
「ぎゃっぷもえ? な、なんだかわからないけど、違うんだから! あ、あの部屋のぬいぐるみも、お母様からプレゼントなのよ。だから、その……思い入れがあるっていうか……」
アンジェリカは消え入りそうな声で言いながら、うつむいてしまいました。
「そっか。アンジェリカちゃんはお母さんのことが大好きなんだね」
「うん。もちろんよ」
満面の笑みで返事をするアンジェリカ。
「……じゃあ、お父さんのことは?」
「だいッキライ!」
「あはは! これまた即答だね」
マスターはおかしそうに笑うと、アンジェリカの目をそっと覗き込みました。
「……う、な、何よ?」
「でも、本当は違うんだよね?」
「うう……」
鏡のように澄んだ瞳で見つめられ、頬を赤くして言葉を失うアンジェリカ。
「わ、わたしだって、わかってるわ。メンフィスに言われなくても、お父様がわたしを心配してくれているだけだってことくらい……。でも、あんな風に頭ごなしに言われたら、腹立つじゃない! 見返してやりたくなるじゃない!」
「うんうん。そうだそうだ。じゃあ、頑張って、見返してやろうぜ」
言いながらマスターは、少しだけ座る位置をずらすようにして、アンジェリカへと身体を近づけていきます。
「……キョウヤ」
アンジェリカは、隣に座るマスターに身を寄せて、彼の腕を抱きかかえるようにして目を閉じました。
「うん」
「この国のみんなはね。わたしにすごく優しいの。お父様の娘だから、どんなに無茶をしても大目に見てくれた。『暴走姫』だなんて言いながらも、誰もが皆、わたしのすることを笑って受け入れてくれた。……だからここは、わたしにとって心の休まる居心地のいい場所だった」
ここでアンジェリカは、さらに自分の身体を押し付けるようにマスターに身を寄せ、熱い吐息とともに言葉を続けました。
「……でも、何をやっても満たされなかった。熱くなれなかった。居心地のいい『ぬるま湯』は、わたしを駄目にしてしまう。わたしはそれが怖かった。お父様との喧嘩なんて、ただの言い訳。国を出たのも本当は、わたしのこの『心』を満たす、何かがほしかっただけ……」
「アンジェリカちゃん……」
「キョウヤに会って、わたしは初めて『熱』を知ったわ。あんな風にわたしと正面から、手加減もせずに全力で殴り合いをしてくれた人なんて、あなたが初めてだった。バカみたいだけど……でも、わたしはその時、嬉しかったの。楽しかったし、最高に『心』が満たされた気持ちになれた」
「あはは……。何というか、出会い方としてはあんまりロマンチックじゃなかったかもね」
軽く笑い声を上げたマスターですが、アンジェリカはおもむろに腰を持ち上げると、そのままマスターの膝をまたがるようにして向きを変えてきました。
「キョウヤのそばにいると、すごく楽しいの。次から次へとわくわくするようなことがあって……その中心にはいつもキョウヤがいて……」
「……うん。僕もアンジェリカちゃんと一緒にいるのは、すごく楽しいよ」
ほとんど押し倒されそうな体勢のまま、マスターはアンジェリカに真摯な言葉を返します。するとアンジェリカは、熱い吐息ともにゆっくりと口を開きました。
「でも……今はそれだけじゃ足りない。もっと、もっと、あなたが欲しい……。そばにいるだけじゃ、満足できないの」
蠱惑的な微笑み。怪しく光る金色の瞳。間近に迫る美しい少女の顔に、マスターは同じく微笑みを返して言いました。
「これはまた、随分と色っぽいお誘いだね」
それは、マスターが彼女に初めて会ったときの言葉。
けれど、その後にはあの時と違う言葉が続きます。
「うん。僕も……同じだよ。あの時、楽しかったのは君だけじゃない。この世界に来て最初に、何もかもを忘れて一対一で誰かと向き合う喜びを教えてくれたのは、君だった。だから、僕はもっと君と一緒にいたいんだ」
「……キョウヤ」
どちらからともなく、近づいていく二人の顔。その唇がゆっくりと重なり合い、軽くついばむように動いたかと思うと、数秒の時を置いてゆっくりと離れていきます。
「…………」
マスターの身体の上にのしかかった体勢のまま、自らの唇を押さえ、照れたようにうつむくアンジェリカ。
「こ、これで……キョウヤも、お父様に勝てるようになるわよね?」
「え?」
「ほ、ほら! なんてったって、わたしの魔法が使えるのよ? だったら勝ったも同然じゃない!」
照れくささをごまかすように言うアンジェリカですが、マスターはそんな彼女の頭を軽く撫でながら、含み笑いを漏らしました。
「な、何よ! なんで笑うの?」
「いや、ごめん。そうだね。練習の必要はあるから、今日は今日でちょうど良かったけど……僕のスキルは効果時間が24時間なんだぜ?」
「え?」
「つまり……明日、もう一度、君とキスしに来ないといけないなって思ってね」
「あ、うう……そ、そうね」
ますます赤面してしまったアンジェリカは、そのまま勢いよく宙へと舞い上がり、マスターのことを見下ろすようにして言いました。
「いい? ここまでしたんだから! 負けたら承知しないからね!」
「うん。任せておいてよ」
星空の下、笑いあうマスターとアンジェリカ。
そんな光景を【式】を通じて見ることとなったヒイロは、わけのわからない胸の痛みを感じてしまっていました。この時の自分の感情を言語化するなら、『アンジェリカのことが羨ましい』というものだったのだと思いますが、この時のヒイロには、そのことに関するはっきりとした自覚はなかったのでした。
──翌日、ヒイロたちは図書館に通ってデータの吸収・整理を行ったり、城内を散策して情報収集に努めたり、はたまたメンフィス宰相から改めて装備品の微調整をしたいとの申し出を受けて彼の元を訪問したりといった時間を過ごしました。
メンフィス宰相の話によれば、このドラグーン王国の首都ドラッケンは、難攻不落の要塞としても名高いのだそうです。建材に使われている金属『ベルガモンブルー』は、サンサーラが開発したというだけあって強度と耐久性に優れ、彼らだけが使用可能な特殊な魔法でのみ自由自在に加工でき、魔法に対する耐性にも目をみはるものがあるとのことでした。
「まあ、魔法耐性という面では、『女神』の使徒たちが作る対魔法銀にははるかに及ばない。僕が知る限り、あの『金属』に勝る対魔法性能を持つものは……ひとつだけだ」
マスターの身体に『防具』を合わせる微調整を行いながら、メンフィス宰相はそんな言葉を口にしました。公務が忙しいはずなのに、こうして時間の合間を縫ってまで付き合ってくれるのですから、彼にはますます感謝をしなければならなさそうです。
「ジークも娘想いには違いないんだけど……彼の場合、『支配欲』が強すぎるところがあってね。僕から見れば、自分の娘に対してまで、ああも高圧的に出ることはないと思うんだよ」
彼女と父親との不仲についても、彼は胸を痛めているようでした。
「聞いたかもしれないけど、僕は十五年前に幼かった娘を亡くしているんだ。……だから余計にアンジェリカには、絶対に幸せになってもらいたい。幼くして死んだあの子の分までね。君といるときのアンジェリカはすごく幸せそうだ。だから、君にはぜひ頑張ってほしい」
マスターの身体のサイズを確認し終えたメンフィス宰相は、最後にそう言い残していったのでした。アンジェリカに聞いた話では、彼の妻は娘を目の前で『愚者』に殺されてしまったことによるショックからか、長らく『精神の病』によって部屋に閉じこもりきりになっているとのことです。
悲しげなその背中を見送りながら、マスターは小さくつぶやきます。
「幼くして死んだ自分の娘の分まで、彼女には幸せになってほしい……か。僕にはわからないな。それって結局は、自分で自分の心を切り刻んでいるようなものじゃないか」
それは、彼にしては珍しく苦々しげな声でした。
次回「第57話 吹き鳴らされる魔笛」




