第40話 満たされるもの
「そりゃまた、うらやましいスキルだね。その辺の草花を自分の『目』として使えるんなら、それこそ女の子のスカートの中が覗き放題じゃないか!」
「マスター……。ですから、その手の発言は声に出さない方が……」
ヒイロが諌めるも時すでに遅く、周囲の女性陣は一斉に白い目をマスターに向けています。
「あれ? どうしたの、みんな?」
だというのに、空気を読めないマスターは、不思議そうな顔で彼女たちを見渡しました。
「……まったく、キョウヤには呆れるばかりだな。三千人の大虐殺などという真似をしてのけた直後に、女子のスカートを覗く話をする奴がいるか?」
最初に白眼視を解除し、大きく息を吐いたのはアンジェリカです。しかし、その直後に大胆極まりない発言をするのもまた、彼女ならではかもしれません。
「キョウヤもわたしのスカートの中が見たいなら、最初からそう言えばいいものを」
「え? 言えば見せてくれるの?」
目を輝かせて食いつくマスター。
「勘違いするな。『覗き』などという不埒な手段に訴えるより、余程ましだという話だ。まあ確かに、キョウヤのような変態にそんなスキルがなくて良かったな」
「そうですね。わたしも、よかったと思います……」
リズさんは、メイド服のスカートをしっかりと押さえるようにしながら言いました。
「……というより、この場でそんな発想が真っ先に出てくること自体、信じがたいですわ」
エレンシア嬢も呆れたように首を振っています。
「酷いなあ、みんな。これぐらい、僕の年頃の男子なら普通だぜ? そのへん、女の子ってわかってないんだよなあ」
まるでこの場に男の気持ちが分かる人間がいないことを、嘆くような言い方をするマスターでした。
「それはさておき、エレンシアお嬢様。これで君は、自分の家にも見放されてしまったわけだけど、どうする?」
「ど、どうすると言われても……」
途端に悲しげな顔をするエレンシア嬢。マスターの言葉に、一気に現実へと引き戻されてしまい、わなわなと震えるように肩を押さえています。
「ごめん。意地悪な言い方だったね。じゃあ……僕らと一緒に来ないかい? もちろん、リズさんも一緒にさ」
「え?」
エレンシア嬢ははじかれたように顔を上げ、涙で濡れた翡翠の瞳でマスターの顔を見つめました。彼女の視線の先には、いつものようにマスターの黒々とした鏡のような瞳があります。
「あ……」
「もし、ついてきてくれるなら、僕は約束するよ。……君が君である限り、僕は君の力になる。君に降りかかる災いは、僕がすべて振り払う。辛くて悲しい時だって、君が自分で立ち上がれるまで、君の傍にいてあげる」
「な、何を突然……」
頬を赤く染め、狼狽えるように言うエレンシア嬢。
「難しく考えなくたっていいさ。僕は、両親から『心』をもらえなかった君に『同情』しているんだ。可哀想だと思ってるんだ。助けてあげたいと思ってるんだ。……だから、君がこの『心』を受け取るも受け取らないも、君の自由だよ」
そう言って、彼女に手を差し伸べるマスター。エレンシア嬢はしばらくの間、それを黙って見つめていましたが、やがて自分の肩を抱いていた手をゆっくりと解きました。
そしてそのまま、マスターの手を取り、意を決したように彼の胸に飛び込むエレンシア嬢。
「貴方の『同情』って……温かいのね。『気の毒そう』にわたくしのことを語っていた、その他大勢の屋敷の人間たちとは大違いですわ」
エレンシア嬢は、小さく身体を震わせながら、マスターの胸に顔を埋めて嗚咽を漏らしているようでした。
するとマスターは、そんな彼女の背中を優しくさすってあげながら、問いかけました。
「じゃあ、一緒に来てくれる?」
「はい。……でも」
「なんだい?」
「わたくしのことは、エレンとお呼びくださいな。……キョウヤ様」
マスターの胸元から身体を離し、泣き笑いのような顔で言うエレンシア嬢。
「そっか。じゃあ、よろしく、エレン」
このやり取りを見ていて、ヒイロには思い当たったことがありました。マスターがリズさんのことを抜きにして、エレンシア嬢自身のことをここまで気に掛けることになったきっかけ。それは、彼女の父親が彼女を殺すための軍勢を派遣したことを知った、あの時です。
やはりそれは、マスターの『生い立ち』に関係があるのでしょうか?
「……お前たち、いつまでそうやって抱き合っているつもりだ? 用が済んだなら、さっさと離れろ」
気付けば、アンジェリカが抱き合ったままの二人に非難の声を上げていました。
「……え? だ、抱き合う? あ……きゃあ!」
ようやくここでエレンシア嬢は、自分の状況に気づいたらしく、悲鳴を上げてマスターの身体から飛び離れました。顔を真っ赤にした彼女は、動転したようにリズさんの傍まで駆け寄り、自分の行動が信じられないとばかりに激しく首を振っています。
「え? もう終わり? 残念だなあ。もうちょっとエレンの良い匂いを嗅いでいたかったんだけど……」
残念そうに変態めいた発言を口にするマスターに、今度はアンジェリカが食って掛かります。
「何よ! キョウヤってば、エレンシアのことばっかり褒めちゃってさ! 不公平じゃない!」
「え? いや、不公平って……」
「わたしはどうなのよー!」
アンジェリカは叫びながら、マスターに突進しました。マスターの『リアクティブ・クロス』が反発衝撃波を作動させるほどの勢いでしたが、それでも彼女の勢いは止まらず、マスターの胸元にぽすんと収まりました。
「あ、ああ、うん。もちろん、アンジェリカちゃんも可愛いよ?」
「それは当たり前! 匂いは? ねえ、匂いは?」
背中の羽根で宙に浮かび、身長差をなくした状態で自分の身体をマスターに預けるアンジェリカ。
……いえ、人の趣味嗜好をとやかく言うつもりはありません。ありませんが、自分の匂いを異性に確認させるとか……彼女もたいがい危ないですね……。
「うん。もちろん、いい匂いだよ。さすがはアンジェリカちゃんだ」
「そう? やっぱり? そうよね? わたしっていい匂いだよね!」
マスターの胸の中で、嬉しそうにはしゃぐアンジェリカでした。
しかし、そんなマスターの姿を見ていると、ヒイロはなんとなく自分の胸に苦しさを覚えてしまいます。
すると、その時でした。自分の胸元ではしゃぐアンジェリカをあやしつつ、マスターは心配そうな眼をこちらに向けてきたのです。
「ヒイロ、どうしたの? なんだか、表情が暗いけど……」
何気ない調子で聞いてくるマスターに、ヒイロはわずかな苛立ちを覚えてしまいました。いえ、これは苛立ちというより、『もどかしさ』と言うべきかもしれません。
「マスター。提案があります」
「え? なに?」
「今回の戦いで、ヒイロは気づきました。……マスターはあまりにも、自身の身の安全に無頓着です。ヒイロはマスターをできる限りサポートする身ですが、今回のように積極的な支援を拒否されてしまっては、打つ手がありません」
ヒイロは、『冷静に』自分の頭の中で論拠を組み立てていきます。
「うん。ごめん。これからは気を付けるよ」
「いえ。咎めているわけではないのです。ただ、こうした問題を解決するには、マスター自身の能力を高めるほかはないと思われます。ですので……」
ここでヒイロは言葉を切り、それから一息に続きを口にしました。
「マスターのスキルを強化するため、【因子干渉】を実施するべきだと思うのです」
これはヒイロの偽らざる本心でした。まだ、最初の【因子干渉】から数日しか経過していませんが、彼の性格を考えれば、あまり悠長に構えてもいられません。
「そっか。じゃあ、お願いしようかな。僕もヒイロに余計な心配をかけるのは本意じゃないしね」
さて、ここからが『偽り』の言葉になります。マスターに対して嘘を吐く。それはヒイロのような存在にとって負担となるはずなのですが、今回はすらすらと口をついて言葉が出ました。
「それでは、【因子】を注入する必要がありますので……ヒイロを抱きしめてください」
「……え?」
不思議そうな顔で首をかしげるマスター。その胸元では、アンジェリカも驚いたような顔でこちらを見ています。しかし、彼女の方は何かを悟ったようにニヤリとした笑みを浮かべ、そのまま彼の身体から離れていきます。
「くっくっく。その調子だぞ、ヒイロ」
「だ、黙っていてください……」
意地悪く声をかけてきたアンジェリカに力なく言い返すと、ヒイロはゆっくりとマスターに近づいていきます。
「えっと……前のときはこういうの、なかった気がするけど……」
「今回からは必要なのです」
「そうなの?」
不思議そうに首をかしげるマスター。
「そうなのです」
迷いなく断言するヒイロです。
「うーん……三連続で美少女と抱き合うことになるなんて……僕、今日で死んじゃうんじゃないかな?」
などと言いながらも、マスターはヒイロの身体にゆっくりと手を回してきてくれました。
「……はう」
「え? ヒイロ? 大丈夫?」
「は、はい!」
マスターのぬくもりを全身に感じたせいか、思わずため息を吐いてしまったようです。温かくて……心地よい居場所。彼女たちがマスターに抱きしめられている時、きっとヒイロは、それを羨ましく思ってしまったのでしょう。
自分の『役割』にとらわれず、自分の『居場所』を求めることのできる彼女たちのことが……。
「そ、それでは、始めますね」
ヒイロは【因子観測装置】を作動させ、マスターの【因子感受性】の状態を感知しながら、彼に【因子】を注ぎ込みます。
「ところでさ」
「な、なんでしょう?」
「今回のこれで、僕に女の子のスカートの中身を見られるスキルとか、手に入らないものかな?」
「……知りません!」
台無しです。台無しです。どうしてこう、マスターという人は……
〈ごめん。冗談だよ。……ヒイロには、何から何まで世話になりっぱなしで悪いと思ってるんだ〉
マスターはここで、肉声ではなく高速思考伝達に切り替えて語り掛けてきました。
〈いいえ、ヒイロがマスターをこの世界に連れてきたのです。この程度のこと、当然です〉
〈……そのことにも、感謝してる。僕はきっと、あのままあの世界にいたら、何もかもを巻き込んで、きっと破滅していただろうから。だから、本当にありがとう、ヒイロ〉
マスターのそんな一言に、ヒイロの胸は一気に熱くなってしまいました。この『素体』には本来、演技としての涙を流す機能はあっても、感情に応じてそれが生じる機能はなかったはずです。なのに、ヒイロの目からはじんわりと熱い何かがあふれてきていました。
「あ! こら、キョウヤ! ヒイロを泣かしたな」
アンジェリカの非難するような声が聞こえてきます。
「え? い、いや、何もしてないよ。……だ、大丈夫かい、ヒイロ」
「……はい。はい。大丈夫です」
ああ、ヒイロの『存在意義』……いいえ、ヒイロの『心』が満たされる。
甘く痺れるように全身を包み込む幸せな気持ち。
ヒイロはそのまましばらく、それに酔うようにマスターの胸元に身をゆだねていたのでした。
第2章最終話です。
次回「第2章登場人物紹介(リズとの対話)」の後、第3章になります。




