第184話 真紅の竜神と愚かなる世界蛇
宙に浮かぶ真紅の竜神。その周囲では、紅蓮の火球が猛々しく光を放ち、独立した意志を持つかのように飛び回っています。
周囲の熱量はすでに、強固な魔法建材である『ベルガモン・ブルー』までをも溶かさんばかりに高まっており、通常の生物では生存さえ困難な域に達しています。
しかし、呼吸するだけで肺まで焼けそうなこの空間の中にあって、ただ一人、まったくひるむこともなく、世界に破滅をもたらさんとする竜神に立ち向かう黒髪の少女がいました。
少女の額と両手からは、滴る血のような赤い光が漏れ出ています。『竜神』がまとう輝きとは異なる種類の赤い光は、場に満ちた『魔力』──否、『神気』を中和し、凶悪な熱波が彼女の身体に到達することを妨げています。
さらにそれだけではなく、一見して華奢に見える少女の身体は、武骨なシルエットの真っ赤な甲冑に覆われていました。対魔法金属としては、世界最強ともいうべき彼女の『サンサーラ』としての固有金属──ヒヒイロカネ。
形状としては、かつて悪魔アスタロトとして、『アトラス』たちから恐れられていた当時の甲冑を再現したかのような全身装甲ですが、『愚かなる隻眼』の効力を妨げないためか、兜と手甲だけは装着されていないようでした。
「アンジェリカ……。ごめんね。怖かったよね? でも、大丈夫。わたしが……お姉ちゃんが、あなたを助けてあげるから」
少女──メルティは小さくそう呟くと、迫りくる無数の火球を素早い体さばきで回避しながら、広大な大広間の石床を疾走します。
次々と炸裂する爆炎の衝撃にバランスを崩すこともなく、軽やかに駆け抜ける彼女の身体能力は、見た目以上に驚異的なものには違いありません。
ですが、それを見つめるわたしとしては、まるで生きた心地がしませんでした。
というのも、こちらから分析する限り、『竜神』の操るあの火球は、ひとつひとつがアンジェリカの固有魔法である《クイーン・インフェルノ》を凌駕する熱量を有しているのです。いかに彼女の『隻眼』と『対魔装甲』が熱波を生み出す『神気』を防いでいようとも、あの火球の直撃を受けてはひとたまりもないでしょう。
しかし、メルティはそんなわたしの心配をよそに、あっという間に『真紅の竜神』の懐に飛び込むと、大地を揺るがす轟音と共に強烈な掌底の一撃を叩き込みました。激突の衝撃波は周囲に広がり、大広間の天井と壁の損傷を、ますます著しいものにしていきます。
先に救出した国王夫妻の指揮とエレンシア嬢たちの支援により、城内の『王魔』たちは既に退避を済ませているとはいえ、この城全体が崩壊する危険さえあるほどの激しい戦闘が続いていました。
現在、この『謁見の間』に存在しているのは、戦闘中の『アンジェリカ』とメルティ、さらに『幻想世界』側で同じ場所にいるわたしの他には、2名のみです。
教皇ヨハネ、そして……クルス・キョウヤ。
メルティの掌打で弾き飛ばされた『アンジェリカ』が背後の水晶柱に叩きつけられ、さらにその衝撃で崩れた瓦礫が熱波を受けて焼け崩れていく中にあって、この二人は、互いに目を向けることもなく、沈黙したまま『真紅の竜神』と『絶禍の愚人』の戦いを見つめています。
その様子に、わたしは嫌でも先ほど『こちら側』で教皇が口にした言葉を意識してしまいます。
『自分を見ようともせず、意識しようともしない存在に対しては、彼の対処は極めて遅れる』
〈マスター。教皇は何を企んでいるか、わかりません。あのまま放置しておいてよいのでしょうか〉
そのためか、わたしは思わず『高速思考伝達』を使って、彼に行動を促すような呼びかけをしてしまいました。
するとマスターは、唐突な呼びかけだったにもかかわらず、驚いた様子もなく、小さく首を振ります。
〈アンジェリカちゃんを助ける方が優先だよ。今でこそ、暴走状態で戦い方も何もあったものじゃないからメルティもうまく立ち回れているけど、でも、最後は『力』の絶対量がものを言う。あの『賢者の石』から無限に『魔力』が垂れ流され続けている限り、いつかはメルティの方が先に力尽きる〉
〈はい。申し訳ありません。では、わたしも加勢しに行った方がよいでしょうか? このままメルティだけに戦わせておくわけには……〉
〈大丈夫。ヒイロにはそっち側からメルティに奇襲を仕掛ける奴がいないよう、警戒を続けてもらわないとだからね。代わりに僕が加勢できればいいんだけど……さっき試した限りじゃ、今の状態のアンジェリカちゃんには、生半可なスキルは効かないし、『パンデミック・ブレイド』みたいな手段だと、逆に加減ができない心配もある〉
〈そ、それはそうですが……〉
〈大丈夫。もともとメルティには、時間稼ぎをしてもらっているだけだからね。『彼ら』が約束どおりに来てくれれば、『力の絶対量』もアンジェリカちゃんに匹敵するようになるさ〉
〈約束……ですか。わたしには、それが心配ではあるのですが〉
マスターの言う約束とは、わたしたちが『愚者の聖地』からこちらに転移する際、彼らと……というより『彼女』と交わしたもののことです。
わたしが懸念しているのは、敵対していた相手との約束であるということについてもそうですが、何よりも、その内容の荒唐無稽さに対してでした。
〈ははは。気持ちはわかるけどね。でも、それぐらい、彼らは本気なんだよ。この世界を護りたい。その気持ちには嘘はないはずだよ〉
〈そうですね。とはいえ、こうしてメルティに危険な戦いを押し付けて、見ているしかないというのも歯がゆいものです〉
〈それは僕も同じだよ。本音を言えば、あの『賢者の石』を破壊してしまうのが手っ取り早いとは思うんだけど、それはそれで何が起きるかわからない。それに、あっちの『彼』が何をするつもりなのかがわからないからこそ、うかつに動くわけにもいかない〉
マスターはそう言って、初めて教皇ヨハネに顔を向けました。真っ赤に燃える灼熱地獄の中、冷たい笑みさえ浮かべて立つ法衣の美青年。彼はマスターに視線を向けられてもなお、それを無視して──いえ、それどころか、気づいてさえいないように見えました。
いずれにしても、どうやらわたしの心配は杞憂だったようです。マスターの今の口ぶりからすれば、教皇の存在に気付いていないわけでもなければ、彼の企みを意識していないわけでもないのは明らかです。
一方、さらに続くメルティの連続攻撃で再び吹き飛ばされた『アンジェリカ』は、打たれた部分の損傷を即座に回復すると、今度は巨大な炎の翼を広げ、一気に真上へと飛翔していきました。
いかに吹き抜けの大広間と言えど、あの巨体がその勢いで上昇すれば、当然ながら天井を突き抜けてしまいます。灼熱の『神気』に溶かされながら崩れ落ちるガレキをはねのけ、ついに『真紅の竜神』は、太陽の輝く蒼穹の元へとその身をさらしたのでした。
「驚いたな。接近戦は不利と見て、距離をとったんだ。メルティとの戦い方としては、真っ先に採るべき手段だけど……理性を無くしているように見えても、やっぱり、アンジェリカちゃんの記憶も影響しているのかな?」
つぶやくように言いながら、空を見上げるマスター。その視線の先には、全身を大きく反り返らせ、爆発的な熱量を頭部に収束させていく竜の姿があります。
〈マスター! あれはまずいです! あんな攻撃を真下に叩きつけられれば、最悪、地下で重力崩壊が起こるかもしれません!〉
竜の頭部──赤く輝く両角の中央に集中する熱エネルギーは、すでに重力崩壊の臨界ギリギリにまで達しています。アンジェリカがかつて極小規模で引き起こした疑似ブラックホール現象。爪の先ほどの大きさのそれでさえ、『法学』の粋を結集した巨大戦艦を破壊しているのです。それがあの量ともなれば、それこそ、この『ドラグーン王国』そのものが滅ぼされてしまいかねません
「うん。さすがにこの状況じゃあ、四の五の言ってはいられないか。あまり『賢者の石』の近くで使いたい力じゃないけど……」
マスターはそう言うと、右手の先に黒い《闇》をまとわせました。
〈マスター? 何をするおつもりですか?〉
〈あの攻撃を『黒蛇』に喰わせる。アンジェリカちゃんがあれだけ遠くにいれば、彼女の体までは届かせずに済むはずだし〉
〈無茶です! あれは『暗黒因子』を餌に、『黒蛇』の攻撃対象を指定するものでしょう? ほとんど一瞬で飛来する熱線が相手では不可能です!〉
〈僕にはヒイロのくれた『ヴァーチャル・レーダー』がある。先読みもできるんだから大丈夫さ〉
だとしても、今回の場合、右手の『暗黒因子』を対象に接触させること自体が自殺行為なのです。彼の身体が塵も残さず消滅してしまえば、いくらわたしでも、それを蘇生させる手段はありません。
しかし、わたしがなおも反対意見を言い募ろうとした、その時でした。
「大丈夫だよ。キョウヤ。わたしに……まかせて」
動き出そうとするマスターを制するように、メルティがそう言ったのです。
「メルティ?」
普段と違う彼女の様子に、マスターが戸惑ったように目を向けました。
するとメルティは、そんなマスターに柔らかな微笑を返すと、そのまま『アンジェリカ』のいる空を見上げ、ゆっくりと両手を広げました。
「わたし、キョウヤと一緒に『愚者の聖地』に行ったおかげで、わかったことがあるの」
「え?」
「『愚かなる隻眼』は、『魔力』を反転複写して対消滅させる。でも、それは『女神』の力が強すぎるから、それに特化しただけのこと。『隻眼』が持つ本来の力は、対象の本質を見極め、必要な変化を起こすものなの」
メルティの額と両手に輝く赤い『隻眼』は、彼女の言葉に合わせるかのように明滅を繰り返し、複数の色に変化を続けています。
四色に輝くその光を見て、わたしは『愚者の聖地』でメルティが発動させたスキルのことを思い返していました。
『艶やかなる魔性の瞳』
曇りなき瞳で鏡の奥を覗き見る心の形。自分と視界内に存在する『愚者』が持つ『愚かなる隻眼』に、『魔力』を吸収して生命力に変換する能力を付与する。
あの時、プロセルピナやヴァナルガンドの『隻眼』は、メルティのスキルによってその性質を変化させた際、青く輝きを変じていたはずでした。
そして今、彼女の周囲には、青、赤、緑、黄の四色の光の輪が出現しています。まるで呼吸でもしているかのように明滅を繰り返し、ゆっくりと回転を続ける光環。その中央に立つメルティの艶やかな黒髪は、重力に逆らうようにはためき、彼女の身体を覆う真紅の装甲は、わずかに四色の光沢を帯びはじめていました。
「メルティ! 攻撃が来るよ!」
「うん。大丈夫。……アンジェリカ。あなたの不安も恐怖も、怒りも悲しみも、わたしが──お姉ちゃんが、全部しっかり受け止めてあげるからね」
メルティはマスターの警告の声に軽く頷きを返すと、今まさに直上から降り注ぐ真紅の極熱波を受け止めるべく、四色に輝く両掌を頭上へと掲げました。
「生成、分解、調和、循環。『可能性の泡』から発生する『可能性』を分解して取り込み、馴染ませ、世界へと循環させる。……『貴女』がくれる御馳走なんて、この『世界』がひとつ残らず平らげてあげちゃうんだから!」
空を舞う竜神が放つ紅蓮の神槍。それを真っ向から受け止め……否、呑み込んだのは、地を這う世界蛇の大顎でした。メルティの掲げる掌から出現した半透明の巨大蛇は、その蛇身を大きくくねらせつつ、真紅の光をあっさりと飲み込み、そのまま上空で炎の六枚羽根を広げる『竜神』へと喰らいつきます。
対する『竜神』は、胴体に深々と食い込む蛇の牙を気にする様子もなく、即座に鋭く輝く竜爪を振り下ろし、大蛇の身体をあっさりと両断してしまいました。
しかし、よく見れば、先ほどメルティの掌打を受けた時とは異なり、喰らいつかれた部分の傷口は回復する様子がありません。
「ふむ。さすがは、『世界の奇跡』と言ったところかな? 『賢者の石』の四色の法則を逆手にとって、相殺消去ならぬ分解拡散消去を実行するとはね」
「世界の奇跡? 何のことですか?」
それまで『女神側』の世界から戦況を見守っていたわたしは、近くから唐突に聞こえた声に、反射的な問いかけの言葉を返しました。
わずかに視線をそちらに向ければ、そこには悠然と微笑みを浮かべて立つ、教皇ヨハネの分身体の姿があります。
「原初の精神が引き起こした巨大な波──『物理法則』の外にあるこの世界は、まさに奇跡の産物だ。だからこそ、わたしは『法王』でさえ知りえない『この世界』を理解するため、あらゆる『実験』に手を出した。『王魔』と『愚者』の融合もそのひとつだ」
「あれは二つの世界を融合させるための『きっかけ』として、『完全体』を創るためだと聞いていましたが……」
「ベアトリーチェから聞いたのか? まあ、その理解に間違いはない。『王魔』は一度は『彼女』がその身に取り込んだ存在だ。それとこの世界の産物たる『愚者』を融合させれば、『彼女』がこの世界を真の意味で『呑み込む』のに必要な情報が得られると期待したのだよ」
「でも、その試みは成功しなかった?」
「そのとおり。どころか逆に、『愚者』の方こそ『王魔』たちを取り込み、『彼女』への理解を深めた。これはわたしの推測だが……『愚者の聖地』には、すでに『彼女』の複写体が存在していてもおかしくはない」
「…………」
「図星かな? だが、恥じることはない。推測とは言ったが、ほぼ9割方は事実とみなしていたことだ。なにしろ『神気』の分解拡散消去ともなれば、それこそ『彼女』の力を正確に理解していない限り不可能だろうからね」
くつくつと笑う気配とともに、そんな言葉を口にする教皇。しかし、不気味なのは、今や彼の言う分解拡散消去により、修復できない『世界蛇の咬み傷』が『竜神』に刻まれているのにも関わらず、彼自身には動揺の気配さえないということでした。
「不思議そうだね、ヒイロ。でも、わたしが焦る理由はない。すべては計画通りだ。既に賽は投げられた。出される目までも確定している。いまさら『竜神』が敗北に向かおうとも、その事象は不可逆なのだから」
何かが起きるのは、これからだ。そんな教皇の言葉に、わたしは言い知れぬ焦燥感を覚え、あらためて『向こう側』の世界へと意識を向けました。
しかし、『アンジェリカ』とメルティの戦闘は、依然として激しく続いてはいるものの、事前のマスターの予想とは異なり、ほぼ互角の状況となっています。
たとえ『賢者の石』から無限にも近い『魔力』が生み出され、『アンジェリカの神気』に供給変換されているとしても、その直後には『世界蛇の牙』で穿たれた傷口から漏れ出てしまい、世界に拡散してしまうのです。
向こうにはマスターもいる以上、有利なのは、むしろ我々のはずではないでしょうか。
しかし、教皇は、そんなわたしの考えを見透かしてか、続けてこんなことを言いました。
「わたしの言った通りだろう? クルス・キョウヤは『向こう側』のわたしに対し、完全に様子見に徹している。彼の感覚としては、『見張っている』、『警戒している』、といったつもりなのだろうが、それこそが彼の本質だ。自身に対して積極的なアクションを向けてこない対象に対しては、最初に傍観を決め込んでしまう。鏡であるがゆえに、リアクションを優先してしまうのだろうね」
そう言われてしまえば、わたしには思い当たる節があります。アルカディア大法学院に到着した後、明らかに怪しい様子のミズキ女史を相手にした時のマスターは、まさに教皇の言うとおりの行動をとっていたのではなかったでしょうか?
などとわたしが思考を巡らせていると、教皇はそのまま言葉を続けてきました。
「そうそう……ひとつ教えてあげよう。わたしは、『法王』のような膨大な知識こそ蓄えてはいないが、この世界の全知性体の『精神領域』を認識することができる。少なくとも、この世界に生きる『知性体』が関わる事象である限り、わたしの『深層予知』はすべてを見通す」
「だから、マスターの行動を予知するのも容易だと?」
そんな真似ができるなど、反則技もいいところでしょう。マスターにもかつて、『わがままな女神の夢』なる行動予知の能力がありましたが、その発動のためには対象に接触することが必要であり、せいぜいが直後の行動を予測するのが限界だったのですから。
「いいや、彼本人や彼と関わって変質した『知性体』の精神については、非常に読みづらいところが多い。だから今のこれは『深層予知』ではなく、彼の過去の行動を元にした、一般的な分析でしかない」
しかし、教皇は意外にも、わたしの問いかけを否定するように首を振りました。だとすると、とってつけたような先ほどの発言の意味が分かりません。
「……ならば単に意味もなく、自分の能力を自慢したかったというだけなのですか?」
「いいや? それも違う。わたしが言いたかったのは、クルス・キョウヤの行動予測についてではない。この世界にこれから起きることに、わたしが、すべての知性体の『精神領域』を認識できるという事実が、関わっているという点だよ」
「精神領域を……認識? ま、まさか……」
認識するということは、すなわち、『観測する』ということ。そして、『観測』はそれ自体が、対象への干渉を意味してしまうということ。
もちろん、通常であれば、ただの『観測』が対象に与える影響など、無視できる誤差の範囲内であるはずです。
しかし、わたしはここで、最悪の可能性に思い当たってしまいました。
「わかったようだね。この場合の『観測者』は、わたしではなく『彼女』だ。ただの『観測』で済むはずがない。かつて思うだけで世界を滅ぼした『彼女』に、睥睨されるのだからな」
「そ、それでは、向こう側の『教皇』の役割は……」
「わたしは最初から、君にはわかるように話をしている。言っただろう? 『彼女』はどこまでも強大だ。強大すぎて『暴走する竜神』程度の『世界に開けた小さな窓』には気づかないほど、小さな事には『盲目』だ。だからこそ、『導く者』が必要なのだ!」
〈マスター! すぐに『教皇』に攻撃を! このままでは、世界が!〉
しかし、『高速思考伝達』の速度ですら、すでに遅きに失していました。
「世界に満ちる『狂気』。それこそが『彼女』の聖餐に捧ぐ、最高の供物となろう」
次回「第185話 女神の聖餐と愚者の参集」




