第182話 完全に完成された完璧なる世界
『謁見の間』の玉座の奥に屹立する四本の巨大水晶柱。
広大な広間の高い天井を貫かんばかりに伸びる六角形の柱は今、まともに直視することが困難なほどの輝きに覆われていました。赤・青・緑・黄の四色の光は互いに混じりあい、『ベルガモンブルー』で構成された石床や石壁を複雑な色合いに染め上げています。
しかし、そんな中でも特にひときわ目を引くのは、何といっても真紅の輝きでした。
「……あれは、『竜神』?」
呆然とつぶやくベアトリーチェの声。ですが、水晶柱の前で炎の翼をはためかせ、悠然と宙空に佇むその存在は、彼女がかつて『召喚』した幻想生物の竜とは比べ物になりません。
宝石のような透明感のある赤い鱗。激しく噴き出す炎で構成された爪と角。神々しいまでの威厳に満ちた竜身からは、周囲の世界を焼き焦がす圧倒的な『魔力』──否、『神気』が立ち上っています。
虹彩のない黄金の瞳は、底の知れない深淵を根源としながらも、すさまじいまでの憤怒と狂気で溢れかえり、ただの一睨みで対象を構成する【因子】ごと焼き尽くしてしまいかねない凶悪さを秘めています。
「マスター!」
続いてわたしたちの目に飛び込んできたのは、一足先にこちらの世界に戻っていたマスターの姿でした。彼の背後には、憔悴しきった様子で膝を着くジークフリード王と彼を支えるようにして寄り添うシルメリア王妃。そして、彼ら二人を護るように結界型の『ヒヒイロカネ』を展開するメルティの姿もあります。
「……やあ、ヒイロ。みんなを連れてきてくれたんだね。でも、今はちょっとばかりアンジェリカちゃんがはしゃぎすぎててね。悪いけど、王様たちを連れて後ろに下がっててもらえるかい?」
猛る竜神と相対しながら、マスターはこちらに目を向けることなく言いました。
「な、なにをおっしゃっているんです! どうしてそんなことを!?」
焦りのあまり上擦った声で叫ぶわたしの目には、彼を中心とした狭い範囲に『空間冷却』の魔法が展開されている様子が確認できます。そんな真似をすれば、いくら彼と言えど、凍傷どころでは済まないはずです。
しかし、神の座すこの空間では、そんな常識は通用しないのでしょうか?
信じられないことに、マスターは絶対零度の中にありながら、うだるような暑さに汗をかき、それどころか皮膚の一部に『火傷』さえ負いはじめていたのです。
「と、とにかく……すぐに回復を!」
目の前の現象が理解できなくとも、今、やらなければならないことはわかりきっています。わたしはすかさず、治療用の【因子演算式】を展開しました。
「《リジェネレーション》を展開!」
しかし、彼の肉体に生じたすべての傷を瞬時に癒すべく、因子レベルでの細胞再生を行うはずのわたしの【式】は、その効果をまったく発動できません。
「そんな! いったい何が……!」
するとここで、いつからそこに存在していたのか、『真紅の竜神』からわずかに離れた場所に立つ人物が、わたしの疑問に答えるように口を開きました。
「無駄だよ。ヒイロ。『竜神』が放つ『神気』は、物理法則を激しく捻じ曲げる。ただ一人、身体を張ってそれを受け止めている彼は大したものではあるが……だからこそ、そんな状態の彼に、通常の【世界操作演算】が効くはずがないだろう?」
それは、灼熱に燃える地獄のような空間の中にあって、一切の熱を感じさせない、平坦な機械のような声でした。
「何者です!」
エレンシア嬢が鋭く誰何の声を上げたものの、その人物はそれには答えず、代わりにわたしに向かって言葉を続けます。
「今この時に、君がここに居合わせるとは、これはまさに『運命』ではないかな?【亜空間】をさまよう君たちを、この世界へと『引っ張り込んで』から、わたしはずっと、この時を『夢』に見ていたのだから」
天に祈りをささげるように両手を組み、頭上を見上げるその人物は、金糸で円と十字からなる紋章を刺繍した純白の法衣を身に着けていました。こちらに声をかけながらも、彼の瞳はこちらでなく、揺らめく炎の中に浮かぶ『真紅の竜神』へと向けられています。
しかし、彼の瞳は『竜神』に向けられてはいても、彼の『心』はさらにその奥にある『何か』へと向けられているようでした。
「いろいろと気になる発言はありますが……とりあえず、先ほどのエレンの問いに答えていただきましょう。貴方は何者ですか?」
「ふふふ。少なくともベアトリーチェ。君とは一度だけ、会ったことがあるはずだけどね」
すると今度は、ようやく視線をこちらに向けてきたものの、わたしの問いには答えることなく、ベアトリーチェへと語りかけてきました。
「……わらわは、うぬのような優男に会った覚えはないはずじゃ。……しかし、その『魔力』──まさか、教皇か?」
半信半疑といった声音で問いかけるベアトリーチェ。そういえば、かつての尋問で教皇のことを聞いた際、彼女はその印象を『枯れ枝のような男』だと──それも相応の歳を経た男であると、そう語っていたはずです。
しかし、目の前の人物は、豪奢な刺繍入りの法衣こそまとってはいるものの、外見年齢は二十代前半といったところであり、枯れ枝どころか一級品の彫刻のように整った顔立ちをしています。
『使徒』特有の白銀の髪を無造作に伸ばし、理知的で熱を感じさせない水色の瞳を気だるげに細め、退廃的な雰囲気に身を包んだ青年。これが世界を席巻する『女神の教会』の最高指導者──教皇ヨハネなのでしょうか?
ですが、そんなわたしたちの戸惑いも、先ほどのベアトリーチェの問いも、まるで気にかけていないかのように、彼は脈絡のない言葉を続けます。
「……まあ、『運命』とは言ったものの、残念ながらわたしの忠実なる『使徒』の一人は、竜神顕現の余波で黒焦げとなってしまったのだったね。まったく、尊い犠牲だよ。だが、彼も『女神』のために死ねたのなら本望だろう」
彼がそう言って目を向けた先には、全身を炭化させ、かろうじて人の形が判別できるだけの焼死体がありました。
ここに来る前のシヴァ枢機卿の発言やこの青年の口ぶりから推測するなら、あの焼死体こそが『運命を告げる御使い』であり、何らかの手段でアンジェリカをあの『真紅の竜神』に変化させた直後に焼き殺された……ということなのでしょうが、それよりもやはり……問題はこの青年の態度です。
正面から相対できているようで、その実まったく視線が合わない。
言葉のやり取りができているようで、その実まるで話が合わない。
こちらを人とみなしていないような……どころか、こちらを相手ともみなしていないような……だけれど、傲岸でも不遜でも厚顔でも無恥でもなく、彼にとっては、ある一つのもの以外、何もかもが等しく平等なのだいうことが、確信できてしまう態度。
あらゆるものに正面から向き合おうとするマスターとは、まるで対極の位置にある存在でした。
「ヒイロ。今はとにかく、アンジェリカちゃんを……元に戻してあげることが先決だよ。僕のことなら心配ない」
だから、というわけではないのでしょうが、マスターはマスターで、教皇ヨハネの存在をまるでいないものと考えているかのように無視したまま、『真紅の竜神』を見上げています。
「まさか……本当にあれがアンジェリカなんですか? どうして、あんな姿に……」
マスターの言葉に、わたしの背後でリズさんが息をのむ気配がします。
憤怒と狂気に身を焦がし、世界そのものを根こそぎ焼き尽くさんと咆哮を上げる真紅の
ドラゴン。それがかつての、明るく無邪気で可愛らしい友人の少女だっただなんて、到底受け入れられるものではないでしょう。
しかし、信じたくないのはわたしも同じですが、彼が『元に戻す』と言った以上、わたしも諦めるわけにはいきません。わたしは瞬時に周囲の状況を【因子観測装置】で確認し、次にとるべき行動を選択しました。
「……エレン。ベアトリーチェ。リズさん。周囲に『御使い』が潜んでいる可能性もゼロではありません。リズさんは『最適化の護符』をベアトリーチェに。ベアトリーチェは、すぐにでも『御使い』の能力封印を使えるように。エレンは……物理的な防御壁をお願いします」
「え? でも、ヒイロは、どうするつもりですの?」
「わたしはマスターの御指示に従い、国王夫妻をこちらまで引き寄せます」
教皇の言葉通りなら、マスターは現在、『真紅の竜神』の力を一人で受け止めているのでしょう。少なくともわたしたちの立っている場所までは、熱気の類も届いてはいません。とはいえ、メルティが今も国王夫妻をかばっているところを見る限り、彼の傍まで近づくのは、危険が多そうです。
それにおそらく、今の状況でマスターがわたしに二人の保護を指示したということは、アンジェリカを元に戻すには、メルティの力が必要だということなのでしょう。そのためにも、彼女が護る二人の身柄を安全な場所に移す。それがわたしの役割でした。
「《相対性の幻想》を展開!」
幻想空間を利用した瞬間移動。彼我の距離と速度を現実世界において誤魔化し、わたしは一瞬で二人の身柄を手元に確保することに成功しました。
そして、わたしは、自身が得た新たな別の『力』を使い、もう一つの役割を果たすことにしました。
「む? ヒイロはどこじゃ? わらわの『世界を観測する者』の対象からも消えている? そんな馬鹿な……」
ベアトリーチェの言葉どおり、足元にジークフリード王とシルメリア王妃を転移させた直後、わたし自身はその場から忽然と姿を消してしまったのです。
もちろん、それは彼女たちから見ての話であり、すでに『二重世界』の解析を終えたわたしの『目』には、彼女たちの姿を捉えることは可能です。
ですが、わたしの視線はそちらではなく、『こちらの世界』のとある人物に向けられていました。
「あははは! ひゃっほう! いいねえ。いいねえ。君がこの『幻想の世界』で、僕と一緒にダンスを踊ってくれるのかい?」
そう言って笑ったのは、一人の少年。先ほどまでいた場所とは位相の異なる空間で、わたしの目の前に立つ『最強の四天騎士』クリシュナでした。
「ベアトリーチェには能力の封印はできても、すでにそれを発動中の貴方を認識することはできないでしょうからね。『こちらの世界』に出入りできる、わたしが相手をするのが筋でしょう」
わたしが『真紅の円錐』を頭上に出現させながらそう言うと、クリシュナは《女神の首切り刀》を肩に担いで首を傾げました。
「ふうん? まあ確かに、『この世界』で僕が『時を止めて』も、同じ位相にいる君は、動けなくはならないわけだしね」
「まさにそれです。向こうとは時間の異なるこの空間でなら、ゆっくり話もできるでしょう」
わたしは慎重に頭上の円錐を回転させながら、言葉を選んで語り掛けます。
「話がしたいって? この僕と? あはは! 君は本当に変わってるねえ。僕のことが気味悪いとは思わないのかい? こんな気狂いと、まともに会話が成立するとでも?」
さもおかしいとばかりに、大げさに肩を震わせて笑うクリシュナ。ですがわたしは、小さく首を振りました。
「少なくとも、教皇を名乗る気狂いを相手にするよりはましでしょう。それに、わたしがしたいのは会話ではなく、情報収集です。正誤の別を自分で判断することを前提にすれば、口が堅い正常者より『異常者』の方が役に立ちます」
「……ひひひ。面白いね。いいぜ。でも、ただ話してばかりじゃつまらない。一回、攻撃を受けるごとに、相手に質問できるっていうルールはどうだい?」
「貴方の攻撃をかわすなと?」
「いやいや、かわすのはいいよ。禁止するのは連続攻撃と相手の手番の妨害さ」
「なるほど。一問一刀というわけですか。いいでしょう。受けて立ちます」
「あはは! じゃあ、僕からだ!」
クリシュナは身を低くかがめ、一声叫んだかと思うと、次の瞬間にはその姿が掻き消えました。そしてその直後には、わたしの背後に音もなく出現し、《首切り刀》を横なぎに叩き付けてきます。
しかし、『可能性の泡』をも含む世界の解析を終えた今のわたしには、驚異的に進化した【因子観測装置】があるのです。数秒先の事象を先読みし、瞬時に対応したわたしは、
「《アンチ・マジックフィールド》、《アンチ・マテリアルシールド》を同時展開」
「どうわああ!」
自身の周囲に障壁を出現させ、彼の身体ごと攻撃を弾き飛ばしました。
「うへえ。やるね。現実世界との平行移動まで使った今の不意打ちを防ぐとはなあ」
「では、約束通り質問です。……なぜ、貴方は国王夫妻を殺していないのですか?」
クリシュナが戦場から離脱した後、間違いなくベアトリーチェの封印が失われた時間もあったはずなのです。にもかかわらず、あの二人は今も生きている。それどころか、アンジェリカをあの状態に追いやったのは、彼ではなく『運命を告げる御使い』だった。
そこには何か、理由があるのではないでしょうか。
「そりゃあ、単に、最初から『竜神顕現』はロキ枢機卿の仕事と決まってたからだよ。僕じゃあせいぜい首を切り落とすことくらいしかできないけど……、あの枢機卿は対象に、それはそれはえげつない『地獄の可能性』を見せつけることができるんだからね」
「……地獄の可能性?」
と、聞き返してから、これは二問目になってしまうと気づきました。しかし、クリシュナはそれに気づきながらも首を振ります。
「いいって。さっきの攻防でもう十分わかった。少なくとも、僕は本気の君には勝てないだろう。まあ、負けもしないだろうけどね。だから、問答を続けてやるよ。……もう死んじまった奴の能力だし、隠すこともないから言うけど、いうなれば『運命を告げる』ってのは、ありえたかもしれない可能性を、あたかも現実のように見せつけるって能力なのさ」
「ありえたかもしれない可能性……。シヴァ枢機卿が彼女の不安を煽るだけ煽ったのも、その布石だったと?」
「ご名答。最悪の想像を自身で膨らませることが、最悪以上の悪夢を見せるために必要な条件だったってわけさ」
「……その『最悪以上』を、彼女に、見せたと?」
自分の声が震えるのを自覚しながらも、わたしはどうにか問い返しました。
「まあね。推測でしかないけど……自分の両親、親しい友人・知人。その他もろもろが、むごたらしくも拷問にかけられて苦しみ悶えて死んでいくところなんかは、相当に衝撃的だろうね。それこそ、心が壊れてしまいかねないくらいには」
「……外道」
ようやく、絞り出すように口にした言葉は、わたしがこれまでただの一度も口にしたことのない類のものでした。
するとクリシュナは、にやりと笑って続けます。
「ああ、そうだとも。外道だよ。『完全に完成された完璧なる世界』のために。そんなお題目のために、僕らはなんでもやってきた。『教会』に仇成すものが相手なら、たとえ相手が誰であろうと、僕は構わず処刑してきた。三百年、毎日毎日、一人二人、十人二十人、何百人、何千人……ククク、あはははは!」
狂ったように笑う少年騎士。彼の実年齢はともかく、仮に彼の精神が見た目通りの幼さで止まっているとして、三百年、ただひたすらに人を殺し続けてきた人生とは、どんなものだったのでしょう。その心に、どんな闇を、病みを、蓄積してきたのか想像もつきません。
「貴方たちの言う、『完全に完成された完璧なる世界』とは何です? 『女神』が愚者の世界を飲み込めばそれが叶うと? 言っておきますが、それでは『愚者の世界』側にいるすべての命が危険にさらされるのですよ?」
「あはは。言っただろう? そんなものは単なるお題目なんだよ。シヴァ枢機卿あたりは、千年前から教皇に洗脳を受けているからね。アレを疑いもしないけれど、狂っているがために、僕にはわかる。恐れ多くもヨハネ猊下サマは、この世界のことなど、まったくこれっぽっちも気にかけてはいらっしゃらないよ。彼が気にかけているのは唯一、『女神』だけ。もし……『完全に完成された完璧なる世界』なんてものがあるとするなら、それはきっと、『彼女』があらゆる世界を……」
しかし、その言葉は最後まで続きません。
「ああ、クリシュナ。見事なまでに予知のとおりだね。わたしは『御使い』全員に退避を指示したはずだろう? まあもっとも、獲物を殺し損ねた君が、退避命令に従わないだろうということも、わたしには予知できていたのだし、だからこそ、こうして己の『分身体』を君に貼り付けておくこともできたのだけれどね」
あらぬ方角を向いたまま、どうでもいいことを語るかのように言葉を紡ぐ青年の声。しかし、その言葉を向けられているであろう対象は、すでにそれを聞いてはいません。
狂気の少年騎士クリシュナは、突如として幻想空間に出現した青年の剣によって、彼自身がこれまで数多の命をそうしてきたように、その首を切り落とされていたのです。
次回、「第183話 教皇ヨハネの正体」




