第178話 世界で最も危険なモノ
わたしたちは空を飛ぶ竜の背の上ではなく、大地に足を着けて立っていました。そして、はるか前方に目を向ければ、そこには城壁を砕かれ、街を焼かれ、見るも無残に崩れ去ったドラグーン王国の首都ドラッケンの姿があります。
しかし、そんなはずはないのです。
「……空間座標に変化はなかったはずです。仮に《女神の暁闇》が作用している間に移動させられたのだとしても、わたしがそれにまったく気づかないことなど、ありえません」
わたしは自身に言い聞かせるようにつぶやきながら、持ちうる限りの観測手法によって目の前の事象を解析しようと試みました。
しかし、足元の地面、周囲の地形、さらには王城の中心にある『賢者の石』が放つ『魔力』の波動といったすべての要素が、ここが間違いなく『ドラグーン王国』であることを示しているのです。
「そ、そんなことはどうでもいい! 今すぐ、みんなを助けに行かないと!」
アンジェリカが焦燥に満ちた声で叫ぶものの、そもそもの状況がまったく理解できていません。確かに首都ドラッケンは王城も街並みも、そのすべてがボロボロに破壊されてはいるものの、攻め込んできた敵の軍勢など、どこにも見当たらないのです。
「とにかく、落ち着きましょう。城の様子は気になりますが、現在、敵から攻撃を受けているのはわたしたちなのです」
わたしはそう言うと、その『敵』の方へとあらためて視線を向けました。
「まったく……今回は本当に異例づくめだね。『処刑人』たるこの僕が囮役をやらされるし、シヴァ枢機卿はあっさり敵につかまっちゃうし……、そこんとこ、みんなどう思う?」
全身からわずかに煙を立ち昇らせながら、体中の皮膚を赤い皮膜で覆う少年騎士──『七番目の御使い』クリシュナは、アンジェリカの放った《クリムゾン・スピア》によるダメージからようやく回復したのか、《女神の首切り刀》を杖代わりにして立っていました。
「クリシュナ。その言は不敬である。ヨハネ猊下の『深層予知』の前に、『異例』など存在しない。すべては完全なる予定調和なり」
いつの間にか、クリシュナの右隣には、彼より頭ひとつ分ほど背の高い全身鎧の人物が立っています。巨大な戦斧を肩に担ぎ、相当な重量があるであろう赤黒い色をした全身鎧に身を包むその騎士は、遠目から見ても明らかに『人ならざるモノ』の気配がします。
「君に言わせれば、何でも不敬になるだろうさ。ラングリッド。『聖戦を告げる御使い』様は、頭が固くっていけないね」
しかし、クリシュナは不気味な威圧感を漂わせる鎧騎士には目もくれず、別の何かを気にするように、自身の頭上を見上げていました。
「うふふふ。なあに? クリシュナちゃん。わたしの下着がそんなに見たかったかしら?」
彼の視線の先でそう答えたのは、背中から純白の翼を生やして空を舞う、一人の女性でした。緩やかに波打つ白銀の髪に紫紺の瞳。色合いだけならベアトリーチェに似ていなくもありませんが、暗く淀んだその瞳には、底なし沼のような不気味さを感じてしまいます。
「スカートの下にショートパンツを履くような無粋な女に言われてもね。僕の目を楽しませるつもりがないなら、せめてまともな鎧ぐらい身に着けたらどうだい? ヴィーナ」
「冗談じゃないわ。わたしは『流血を告げる御使い』なのよ? 柔らかい肉を刺す手に伝わる感触、噴き出す返り血の温かさ、それがわたしのなによりの喜び。鎧だなんて、まさに無粋の極みだわ」
空を飛んだまま、うっとりと両手を頬に添える妖艶な美女。全身をひらひらとしたフリル付きの騎士服で包み、背中の翼で宙に浮かび続ける彼女の身体には、防具はおろか武器の類も見当たりません。
「それに……防具はともかく、『鎧』を着てない四天騎士なら、もう一人いるじゃない」
ゆったりとした落ち着いた仕草で、とある方向を指差すヴィーナ。
「……く! わらわの《鎖》を破壊したじゃと?」
彼女が指し示した先では、ベアトリーチェの《女神の拷問具》が砕け、拘束から解放されたシヴァ枢機卿が地面に膝を着く姿がありました。そして、そのすぐ後ろには……
「枢機卿サマ。無事デスカ?」
「『ブラック』か。……うむ。手間をかけさせたな。やはり、前線は騎士に任せる方がよさそうだな。このような荒事は、我には向かぬようだ」
シヴァ枢機卿の身体を助け起こす黒い影。ソレは、かろうじて人の形をしています。しかし、目も鼻も口も確認できません。仮面をかぶっているわけではなく、ただ、それと認識できないのです。黒く、靄がかかったようなその姿は、まるで生きた『不完全の病』のように見えました。
しかし、輪郭だけはっきりと人の形をしたその影は、意外なほど優雅な所作で、こちらにお辞儀をしてきました。
「ハジメマシテ。生贄の乙女ト、ソノ仲間タチ。我は『絶望を告げる御使い』──ヨハネ猊下ト枢機卿様ニ仕エル四天騎士ぶらっく……デアル」
どこから声が出ているのかさえ、はっきりしない言葉。抑揚のないその声は、まるで前時代的な機械音声にも聞こえますが、それでも、唯一はっきりと感じ取れるのは、そこに含まれる狂信的な意思でした。
「教会の最高戦力たる四天騎士が四人全員集結か。やれやれ……女子供を相手に大人げない真似をするものじゃな」
周囲の《天秤の砂》を制御しつつ、皮肉の言葉を吐き捨てるベアトリーチェ。しかし、そんな言葉とは裏腹に、彼女の表情には緊張の色がうかがえます。するとやはり、そのことに気付いたのでしょう。リズさんが不安そうに問いかけます。
「聖女様。この人たち、全員が貴女と同じ『御使い』なのですか?」
「うむ。こと戦闘に関して言えば、枢機卿よりも危険な連中ばかりじゃ。わらわの封印能力もリズのおかげで『最適化』されてはおるが……全員を一度にとなると厳しいかもしれぬな」
ベアトリーチェはリズさんの身体を背中でかばうように立ちながら、周囲に意識を向けているようです。おそらく、正面からの戦闘では勝ち目がないとみて、脱出する隙を伺っているのでしょう。
「言っておくが、逃走にはまるで意味がないぞ。エイス・エンジェルよ。お前たちには今なお、解けぬ謎があるだろう? なぜ、遠く離れた空の上にあったはずのお前たちの身が、たった今、この王国の大地に存在しているのか? ……その謎がな」
身体の自由を取り戻したシヴァ枢機卿は、こちらの思考を先回りするように牽制の言葉を口にします。
「……たとえこの場を脱しても、いつでも空間ごと、わたしたちの座標を移動させることができるとでも?」
シヴァ枢機卿の言う『謎』に答えをあてがうとすれば、わたしが思いつくのはそれくらいです。わたしは、鎌をかけるつもりでそう問いかけましたが、対するシヴァ枢機卿は目を丸くしてこちらを見た後、突然、愉快げに高笑いを始めました。
「くくく! ふはははは! そうかそうか。ヨハネ猊下の『深層予知』が及ばぬお前でも、『神の御業』を理解することは叶わぬか! まあ、無理もない。つい先ほど、お前たちの身に起きたことは、想像を絶する文字通りの『天変地異』なのだからな!」
黒い法衣に包まれた長身をくの字に曲げ、いかにも可笑しそうに笑い続ける白髪の老人。信仰という名の愉悦に浸る枢機卿は、狂熱に満ちた眼差しをこちらに向けてきています。
一方、四天騎士たちはこちらを半包囲するように、均等な間隔でわたしたちの周囲に散らばっています。その中の一人、クリシュナはシヴァの姿を横目で見ながら呆れたように首をすくめました。
「あらら、シヴァ枢機卿様ともあろう人が、随分とおしゃべりになっちゃってまあ」
「うふふ。でも、無理もないでしょうね。それこそ彼にとっては『千年越しの悲願』が間もなく叶うのだから。ほら、クリシュナ。貴方には、そのための大事な『仕事』が残っているでしょう?」
四天騎士ヴィーナは、何気ない口調でクリシュナに話しかけながら、突然、こちら目掛けて無造作に右手を振りぬきました。そして、直後に鳴り響く、ガキンという鈍い音。
「あら? 今のをよく防いだわね。聖女様?」
「ふん。うぬの殺気なぞ、キョウヤでなくても見え見えじゃわい」
そう答えたベアトリーチェの目の前には拷問具『鉄の処女』が出現しており、その足元には数本の太い針のようなものが転がっていました。
「そんなことじゃないわよ。わたしの《女神の暗器》で貫けないなんて凄いわね、と言いたかったの」
くすくすと笑うヴィーナがスカートの裾を両手でつまむと、彼女の周囲には、黒塗りの短剣や極細のワイヤーなど、ありとあらゆる『暗殺道具』が出現していきます。禍々しく、いびつな形の武器に囲まれた彼女の姿は、まさに」『流血を告げる御使い』の名に相応しいものでした。
「ふん。《拷問具》対《暗器》というわけか。趣味の悪い女どもめ。……いずれにせよ、我は我でヨハネ猊下から授かりし使命を果たすのみ。さあ、聖戦を始めよう……《女神の旗斧》よ!」
全身鎧の天騎士ラングリッドは、小さな布のついた巨大な戦斧を高々と掲げ、雄叫びの声を上げました。わたしの【因子観測装置】を通して見れば明らかですが、彼の赤黒い全身鎧の中では、圧倒的な『力の塊』そのものが荒れ狂っているようでした。
「我の相手は、ユグドラシルでよかろう。不死の化け物が相手なら、万が一にも『やり過ぎる』ということはあるまい」
掲げた斧をゆっくりと水平に下ろし、エレンシア嬢へと突きつけるラングリッド。常人ならそれだけで委縮してしまう強烈な威圧感ですが、エレンシア嬢は平然とした顔で言い返します。
「騎士の分際で、淑女に対する言葉遣いがなっていませんわね。どんな手品かは知りませんが、よりにもよってこのわたくしを『空の上』から、この肥沃な『大地の上』に連れてきたことを後悔するがよろしいですわ……『閉じられた植物連鎖』」
エレンシア嬢の周囲では、彼女の盾となり剣となるべく無数の植物が恐ろしい速度で成長し、その形を変えていきます。それを見たラングリッドは、わずかに首をかしげ、つぶやくように言いました。
「我が《旗斧》の精神波が効かぬとは……化け物は、やはり心まで化け物ということか」
「……そうですわね。わたくしは、化け物ですわ」
人外の存在に対する嫌悪感を隠す気もないラングリッド。その心無い言葉に、エレンシア嬢は古傷に触れられたように顔をしかめます。
「それでも! それだけの存在ではありません! わたくしを『ただの化け物』としか見られない貴方は、『人』として、キョウヤ様には遠く及びませんわ!」
しかし、彼女は、それでも毅然として胸を張り、右手を大きく振りかざしました。
すると、周囲の植物が一斉に花を咲かせ、そこからあふれ出んばかりの『魔力』が周囲に放たれました。
よく見れば、花は地面から生えてきたものだけでなく、まるで胞子のように空気中に無数に漂っているようでした。
〇エレンシアの特殊スキル
『天に花咲く愛の楽園』
気高く美しく、凛とした愛で鏡を照らす心の形。目に見えない小さな花を無数に生成し、全世界に拡散する。散布された花は各地で根を張ると周囲の『魔力』を吸収し、自身と自身が愛する者たちに供給し続ける作用を持つ。供給量は愛の程度に依存。
「おお、さすがはエレンじゃな。これは助かる。これだけ『魔力』が確保できれば、『侵食する禁断の領域』も使いたい放題じゃ……《聖女の秘文発掘》、《聖女の収穫祭》、《聖女の疑心暗鬼》、《聖女の神歌絶唱》」
ベアトリーチェは油断なくヴィーナを見据えたまま、『幻想生物』を召喚する『魔法』を次々と発動させていきます。
わたしたちを護るように出現したのは、金色の鱗を持つ『翼ある蛇ラーヴァ』、狼と虎、猿の頭を持つ四足獣『三つ首のダイダロス』、十人一組で行動する鬼『レギオンゴブリン』、そして……背中に黒と白の二対の翼を生やし、顔に赤い目隠し布を巻きつけた白衣の天使『アカシアの使徒』でした。
いずれも伝承において弱点らしい弱点が確認できず、彼女のスキルの性質からすれば、召喚にはかなりの『魔力』が必要となるはずの『幻想生物』です。
「……他者への『魔力』の供給だと? 馬鹿な。そんな力は猊下の『深層予知』でも示されてはいなかったはずだ」
四天騎士たちの奥に立つシヴァ枢機卿は、驚愕に目を見開き、ぶつぶつとつぶやいています。
「まあまあ、何でもいいじゃん。どいつもこいつも『首』がある以上、僕の敵じゃあないぜ……って、うわあっ!」
楽しそうに笑っていたクリシュナは、直後、眼の前に飛来した『炎の槍』を間一髪、身をひねってかわしたようです。
「ちっ! よくかわしたじゃないか。とはいえ、貴様は責任をもって、わたしがとどめを刺してやるぞ」
破壊された王城に冷静さを失っていたアンジェリカも、落ち着きを取り戻してくれたようです。城の状態はどうあれ、まずは目の前の敵を撃破しなければ、状況の確認もままならないのです。
「……なんとなくだけど、あの黒いのは、ヒイロに任せた方がよさそうかな?」
アンジェリカはそう言いながらも、リズさんによって『最適化』された『魔法』を操り、自身の周囲に蛇のように渦巻く炎を形作りました。
「【ダークマター】とは異なるようですが、確かに得体の知れない化け物のようです。まずはわたしが牽制しておきましょう。……《ブラスト・ショット》を展開」
わたしはアンジェリカへの返答の直後、瞬間的に【因子演算式】を展開し、衝撃波を黒い影の騎士ブラック目掛けて解き放ちました。
「敵性体ニヨル攻撃ヲ確認。『深層事象変異』発動。飲ミ込メ」
ブラックは相変わらずの機械音声でそう言いましたが、特に行動を起こす気配はありません。しかし、わたしの放った衝撃波は、彼の身体に当たるや否や、そのエネルギーを消滅させてしまったのです。
「因子干渉? いえ、今のはそれとは少し違うような……。いずれにしても、攻撃と解析を続けるのみですね」
とはいえ、戦況を分析するならば、敵は枢機卿が一人と四天騎士が四人。こちらはベアトリーチェとアンジェリカ、エレンシア嬢とわたしの四人のみが戦闘可能であり、リズさんにはサポートに回っていただく形となります。
数の上での不利がある以上、本来なら1対1での戦闘よりは、仲間同士でチームワークを生かした戦いをすべきところでしょう。
しかし、敵がこちらの各個撃破を狙うなら、仲間同士でかばいあう戦いはかえって個々を危険にさらす結果となり、全体にも負の影響を及ぼしかねません。
「……シヴァ枢機卿よ。一つ聞きたいことがある」
「ベアトリーチェ。言っておくが時間稼ぎをしたところで、助けは来ないと思うがよい。お前自身にしても、いつまでもすべての『御使い』の力を封じ続けてはいられまいぞ」
「そんなことはどうでもよい。なぜじゃ? なぜ、今、この時になってわらわたちにこれほどの戦力をぶつけてくる気になったのじゃ。てっきりわらわたちは、キョウヤが『愚者の聖地』に向かうことこそを、うぬらは恐れていると思っていたのじゃがな」
そうです。それはわたしも同じ疑問を抱いていました。かつて大法学院で会ったミズキ女史の言葉からしても、マスターが『愚者の聖地』で『マザー』のような存在に近づくことは、この世界にとって『最悪のケース』だったはずです。
しかし、ベアトリーチェの問いかけに対し、シヴァ枢機卿は大げさに首を振ってみせました。
「我らはヨハネ猊下の『深層予知』により、クルス・キョウヤがこの世界と位相のずれた『真の聖地』に達するタイミングを把握できた。だが、クルス・キョウヤは狂える鏡だ。『彼自身』には何もない。自分を持たない存在に、『純真世界』に影響を与えることなどできまい。鏡に鏡を映したところで何も起きまい。くっくっく。だからこそ、奴がこちらに干渉できない空間に入った今この時こそが、千載一遇のチャンスなのだよ」
そう言ってシヴァ枢機卿は、右手でとある場所を指示します。そこには、クリシュナが立っているはずでした。しかし、気づけばいつの間にか、彼の姿が消えています。
空間転移? いいえ、それよりもっと不可解な現象です。
「くくく! これぞ『神の御業』なり。聖女よ。君の封印能力も、クリシュナが認識できない距離に姿を消せば、この状況下で『終焉を告げる御使い』の能力封印の効力を維持してはいられまい」
「ふん。だからなんだ? 時を止めて再び近づいてこようものなら、その瞬間に封印してやるわい」
「いやいや、そうはなるまいよ。なぜなら彼は、お前たちを殺すために、ここに来たのではないのだからな」
「なんだと? どういう意味じゃ?」
シヴァ枢機卿は、ベアトリーチェの問いかけには答えず、なぜかアンジェリカの方に目を向けました。
「くっくっく! 生贄の乙女よ。お前こそが『世界で最も危険なモノ』だ。『意志』を暴走させる『激情』。それこそをヨハネ猊下はご所望だ。千年前は『サンサーラ』で失敗したが、今度は十分に力をつけた『ニルヴァーナ』の貴種を使う。今度こそ、我らが『女神』が世界を飲み込む!」
「ま、まさか……! お父さま、お母さま!」
クリシュナが向かった先に何があるのか。そのことに気付いたアンジェリカの顔からは、見る見る血の気が失せていきました。
次回「第179話 終焉の悪夢」




