第176話 混沌の闇の中で
『本体』とのリンクの断線。
マスターたちが『愚者の聖地』で何らかの異空間に呑み込まれた時点で、それは発生していました。
しかし、それはあくまで『通常回線』の断絶でしかなく、『亜空間』を利用した『緊急回線』については、専用の【式】さえ展開すれば、ほぼ一瞬でマスターの元にいる『本体』にこちらの情報を伝達することができたはずなのです。
ところが、『混沌を告げる御使い』を名乗る男の声が聞こえ、周囲が闇に閉ざされた途端、その『緊急回線』でさえ機能しなくなってしまいました。
「センサー類での解析も不可能……ですか。この『闇』は、ただの闇ではありませんね」
とはいえ、わたしたちのいる空間座標に変化はなく、空の上で『停止』した『竜王』の背の上にいるという状況はそのままだと考えられます。周囲を見渡せば、暗黒と化した世界の中、アンジェリカやエレンシア嬢、リズさんたちの姿だけが、なぜかくっきりと闇の中に浮かぶように映っています。
「くそ! 何がどうなっている? 奴らはどこに行った!?」
炎の形の短剣『魔剣イグニスブレード』を慎重に構え、アンジェリカが警戒するように周囲を見渡していますが、わたしたちの他、先ほどまで近くにいたはずの四天騎士長クリシュナの姿も見当たりません。
「アンジェリカ。落ち着いてください。この状況……音を消す『黙示を告げる御使い』の時と同じです。おそらくは、特定の物に反射した光以外を消失させているのでしょう」
〇???の特殊スキル(個人の性質に依存)
『混沌を告げる御使い』
任意に発動可。最高位の『アカシャの使徒』にのみ発現する七種の特殊スキルのひとつ。天使の力を得る。──最初の御使いは、迷えるものに導きの光を授ける。
しかし、ただ『光』を操作しただけならば、【因子観測装置】による各種センサーによる感知が無効化されるはずはありません。実際には、もっと別の作用が働いている可能性があります。
とはいえ、すぐ近くに敵が潜んでいるに違いないこの状況で、センサーが利かない原因にこだわってばかりはいられません。この時点で既に、皆を護るための【式】を無数に張り巡らせてはいましたが、わたしはあらためて全員に指示を出すと、身を寄せ合うように一か所に集まりました。
すると間もなくして、先の見通せない闇の中、音の出所さえ確認できないまま、先ほどの少年の声が聞こえてきました。
「うわあ……こうやって『闇』の中で浮かび上がる姿を見ると、君たちって本当に美人ぞろいだなあ。どれから『いただく』か、迷ってしまうよ。ひゃはは!」
それは、顔をしかめたくなるほど耳障りな笑い声でした。声の主である四天騎士クリシュナは、少女と見まがう美貌の少年だったはずですが、その言葉の端々には、常軌を逸した色欲と狂気が見え隠れしています。
一方、そんな彼とは対照的に、無機質で感情のない声も聞こえてきました。
「うかつに動くな、クリシュナよ。どうやら、その赤髪の少女……我の《女神の暁闇》の中でも、何らかの『力』を使うことができるらしい。『闇』の中に、明確な別の現象の萌芽が見られる」
おそらく、この声の主がこの『闇』を生んだ張本人、第一の使徒なのでしょう。
「へえ? 『教会』最古参の枢機卿たるシヴァ様ともあろう御方が、随分と弱気じゃないか」
「【異世界】から来たその女の力だけは、ヨハネ猊下も把握しきれていらっしゃらないのだ。慎重を期すのは当然である。それに……我が《暁闇》の力がまるで通じていないわけでもなかろう」
「物は言いようだね。でも、残念だなあ。ベアトリーチェちゃんの『封印』さえなければ、僕が『終わらせた時間』の中で、彼女たちを永遠に可愛がってあげてもよかったんだけど。ひひひ!」
「……アンジェリカさん。『魔法』は使えそうですか?」
わたしはクリシュナの下卑た言葉を聞き流しつつ、アンジェリカに問いかけました。敵に余計な情報を与えないよう、《ノイズ・キャンセル》の【因子演算式】を周囲に展開しながらの呼びかけです。
「ああ。それができたら、とっくに手あたり次第、あたり一面にでっかい『炎の蛇』でもけしかけてやるところなんだがな」
「……いえ、手あたり次第は危険なのでやめてくださいね?」
わたしはそう言いながらも、彼女が手にした短剣の状態に注目しました。そこには、わずかに拳大ほどの火が灯っていますが、かつて同じ魔剣から噴き出していた巨大な火柱とは比べるべくもありません。それでも『魔法』が発動しているところを見ると、この『闇』は『魔法』を完全に封じるものではなく、『減殺』するものなのでしょう。
「……減殺? ならば奴の力は、『愚かなる隻眼』と同じだとでも?」
「いえ、『愚かなる隻眼』特有の光も、『魔力』の相殺現象も確認できていません。あくまで……力の発現自体が減じているようです」
アンジェリカの言葉にわたしが首を振ると、ベアトリーチェが同意するように頷きました。
「うむ。もし、『愚者』の力なら、わらわたちが乗る『竜王』にも何らかの影響が出ていておかしくはない。今回わらわが具現化した『竜王』は、空中都市の時の『竜神』のような強大な力がない分、すぐに消滅するほどではないが、それでも『王魔の始祖』をモデルにした幻想生物である以上、『隻眼』の力に著しく弱いことに変わりはないのじゃ」
「……つまり、これはわたくしたちの『力』を直接、弱体化しているということでしょうか?」
言いながら、エレンシア嬢も先ほどから『生命魔法』を使おうとしているようですが、周囲に小さな花がかろうじて生まれるばかりで、巨大な植物の防御壁などは一向に構築できそうにありません。
「なんだか、もどかしいですわね。『魔法』を使い始めたばかりの頃のような……」
手の中で育ちかけては、成長を止める植物の姿を見て、悔しげにつぶやくエレンシア嬢。
しかし、その時でした。
「あーもう! 必死で足掻いちゃって可愛いなあ! そんな姿を見せられたら、僕、我慢できないよ!」
ひときわ大きな声とともに、何かがこちらに接近してきました。
ある程度の距離まで近寄られて、ようやく確認できたその相手は、言うまでもなくクリシュナです。
「《エレクトリカル・バリア》を展開、《ヴォルテックス》を展開」
当然のことながら、わたしは即座に【因子演算式】を発動しました。
「って、うわお! ぎゃあああああ!」
《女神の首切り刀》を振りかざし、エレンシア嬢めがけて飛びかかってきた少年騎士は、高圧電流と乱気流の障壁に激突し、悲鳴を上げながら吹き飛ばされていきます。
「クリシュナ。遊びが過ぎるぞ」
「いてて。あはは。やっぱり、ほんとだったか。まあ、この程度ならすぐ『回復』するけどね」
「ヨハネ猊下の思し召しとはいえ、なぜ我がこのようなモノと……」
闇の中からは、あくまで能天気なクリシュナと、あきれたようにため息を吐くシヴァの会話だけが聞こえてきます。
「少しでも離れると、すぐに見えなくなる。……つまりこの『闇』は、視界の有効範囲を限定しているものでもあるのですね」
原理はわかりませんが、この状態で敵に一撃離脱を繰り返されれば、反撃のしようがありません。ましてや、唯一カウンターアタックが可能なわたしも、『分身体』であるがゆえに、重火力の【式】は使用できないのです。
そのことに気付かれる前にこの『闇』に対する打開策を講じなければ、いずれは本格的な攻撃にさらされるでしょう。
「この無謀なうつけ者めが。うかつに動くなと言ったばかりであろう」
「無謀とか言うなよな。仕方がないじゃん。つい、いつもみたいに『終焉を告げる御使い』で『終わらせた時間』の中を動いているつもりだったんだよ」
クリシュナの言葉を聞く限り、依然としてベアトリーチェによる『御使い』の能力の封印は有効のようです。
「……とはいえ、複数同時に、というわけにはいかぬ。いや、わらわがこの力を扱いきれておらぬせいかもしれぬがな」
苦々しげに言いながらも、ベアトリーチェは純白の翼を広げたまま、周囲に漂う金色の《天秤の砂》を操作し続けているようでした。
彼女に封印対象をシヴァの能力に切り替えてもらうという手段も考えられますが、今の状況では、それもできません。
クリシュナの『時間停止』による回避不能な攻撃を防ぐには、マスターの『世界の平和は君次第』による支援が不可欠です。しかし、もし、現在の『リンク切れ』が、この『闇』を封印した直後に復旧できなかったならば、その瞬間にクリシュナの攻撃を許してしまうことになるでしょう。それは極めて危険な賭けでした。
そのため、わたしたちは現在の膠着状態を維持しつつ、この『闇』からの脱出、あるいは敵に対する攻撃方法を考える必要があるのです。
しかし、『教会』の大幹部たる枢機卿は、そう甘い相手ではありませんでした。
「……ふむ。とはいえ、お前の無謀も役に立たなかったわけではないか。この状況で、彼女が我らに手心を加えてくる理由がない以上、先ほどより強力な迎撃手段はないと考えてもよかろう」
「……!」
こちらの思惑に冷や水を浴びせるかのようなシヴァの言葉。たった一回の攻防で、こちらが最も隠したかった事実を言い当てられてしまったのです。これで動揺するなという方が無理というものでしょう。
「どうやら、図星のようだな。クリシュナよ。次は防御を固めてから攻撃せよ」
「く! 茨よ!」
枢機卿の言葉を聞き、エレンシア嬢は素早く思考を切り替えると、『魔法』ではなく別の手段で戦うことを選択したようです。わたしたちを護るように、新緑の髪から伸びる無数の茨を展開しました。
「くそ! どうしてだ! どうして上手く発動しない! このわたしが! こんな簡単な『魔法』しか使えないなんて!」
一方、アンジェリカは『魔法』の行使を諦めきれないのか、繰り返し『魔剣』の先に炎を生み出し続けています。
「ああ、ますます、可愛いなあ! 無駄な足掻き! 不安と焦燥の入り混じった女の子の声! 僕の大好物だよ。さあ、今度こそ君たちの美しい肢体に、消えない傷を刻んであげようじゃないか! ……我が意思に従い、我を汚れし返り血より護れ! 《女神の血染布》!」
クリシュナの声とともに、何もない虚空からにじみ出るように出現したのは、血で染められたかのような赤い布でした。
「な! ここで『第二の神器』じゃと!? おのれ……《女神の拷問具》!」
ベアトリーチェはとっさに『第一の神器』を展開しようとしましたが、やはり、こちらの『魔法』は《天秤の砂》を除いてすべてが阻害されてしまっているらしく、出現したのは錆びたノコギリ一本だけでした。
「あはは! なんだい? その貧相なノコギリは!」
一方、一瞬だけ虚空に広がった赤い布は、すぐに闇の中に溶け込むように消えてしまいます。おそらくクリシュナの手元に移ったのでしょう。
「さあて! それじゃあ、誰から僕の『痕』を付けてほしい?」
《首切り刀》を手に、再びこちらへと接近してくるクリシュナ。わたしは先ほどと同じように防御用の【式】を展開しましたが、彼の突進を止めることはできませんでした。
ほとばしる電撃。渦を巻く風の塊。わたしが叩きつけたそれらの攻撃は、クリシュナの皮膚に同化した『赤い布』に触れるや否や、音もなく消滅してしまいます。接触のあった部分の布は、その色を白く変化させているようですが、クリシュナの勢いは止まりません。
「あはは! まずは髪かな?」
わたしの防御壁を突破した直後、一斉に殺到してくる緑の茨を前に、クリシュナは楽しそうに手にした《首切り刀》を振り回しました。
「く、うううう!」
縦横無尽に繰り出される斬撃に、次々と切断されていくエレンシア嬢の髪の茨。それでも彼女は莫大な生命力を武器に、茨の鞭を生み出し続け、クリシュナの接近を食い止めていました。
「いいねえ、いいねえ! 無駄だと知りつつ、激しく抵抗する女の子! やっぱり僕は処刑なんかより、こうして女の子と遊ぶ方が楽しいなあ!」
「うるさいですわ! この変態! 貴方なんかに、誰も傷つけさせたりはしません!」
「まずます可愛いよ! ひひひ! 君は『ユグドラシル』だから、ちょっとやそっと、切りつけても死なないんだよね? なんて理想的な女の子なんだ! 君の顔が恐怖と苦痛に歪み、僕に泣いて許しを請うところ、早く見てみたいなあ!」
クリシュナは、その場で足を止め、長大な《首切り刀》を恐ろしい速さで振り回し続けています。それだけエレンシア嬢の茨による攻撃が苛烈を極めたものだったともいえますが、それでもやはり、驚くべきは彼の異常な体力でした。
仮にあの《首切り刀》に重さが存在しないのだとしても、あれだけの速さでこれだけの長時間、動き続けているのは尋常なことではありません。
その秘密はおそらく、彼の有する【スキル】によるものでしょう。
〇クリシュナの特殊スキル
『肥え太る首切り役人』
処刑した相手の血を浴びることで、その生命力を吸収する。吸収した生命力は永続的に累積し、持久力及び治癒力として使用可能。※現時点での吸収済処刑者数:一万八千四百三十七人。
三千人以上のヨミ枢機卿団を一人で殺害したという話も信じられないものではありましたが、この殺害数は異常でしょう。これでは無限に体力があると言っても過言ではありません。
「ああ、楽しいなあ! 三百年生きてきて、こんなに楽しいのは久しぶりだよ!」
三百年──彼は、そう言いました。おそらくは【スキル】の力により、若さを保ち続けているのでしょう。
しかし、二万人近い人間をそれだけの長期にわたって『処刑し続けている』という事実は、むしろ短時間で大量殺人を犯すことよりおぞましく、恐ろしいことではないでしょうか。
「うう、こ、このままでは……!」
徐々にではありますが、クリシュナは刀を振るいながら、こちらに間合いを詰めてきています。エレンシア嬢の攻撃の密度が、彼の斬撃の速度に及ばなくなってきているのでしょう。
「く! 《ショック・ブラスト》を展開! 《ヒート・レーザー》を展開!」
わたしもまた、引き続き【式】による攻撃を試みてはいますが、直撃した攻撃も、クリシュナの『赤い皮膚』をわずかに白く変色させる以上の効果はありません。
おそらくは一定以上の『火力』の攻撃でなければ、あの赤い布を完全に『漂白』し、その防御を突破することはできないのでしょう。
「くそ! 燃えろ! 爆ぜろ! 炎よ! 熱よ! わたしに従え!」
依然としてアンジェリカは、愚直なまでに『魔法』の発動を繰り返し試みています。
するとここで、そんな彼女の様子に何を感じたのか、それまで沈黙していたシヴァ枢機卿が語り掛けてきました。
「生贄の乙女よ。……見苦しい。いかに足掻こうとも、我が二つの『神器』を元に生み出した『究極の魔法』たる《女神の暁闇》の前には無意味なり。我の『闇』の中にあっては、すべては『始まりの時』に立ち還るのみなのだから」
三百年の時を生きてきたというクリシュナ。しかし、シヴァ枢機卿のその声には、さらにそれ以上の年月の厚みを感じます。
この世界でも屈指の力を有しているはずのわたしたちを、たった二人で窮地に追い込んでいる人外の化け物。それはまさに、『使徒の中の使徒』。唯一対抗する力を持ったベアトリーチェにしても、彼らとは生きてきた年月が違います。常に先手を打つ彼らの戦い方を前に、彼女の力は完全に封じられてしまっていました。
せめてここにいる『わたし』が本体であれば、この状況も打開できたのでしょう。しかし、これではどうしようもありません。彼女たちを護るのが『わたし』の役目だというのに……
と、わたしの心に絶望の影が落ちかけた、その時でした。
「いいえ、無駄な足掻きなどありませんよ。シヴァ枢機卿さん。エレンお嬢様やアンジェリカさんのご様子をつぶさに観察すれば、あなたの力の内容は推察できます」
「え? リズさん?」
驚いて振り向いた先にいたのは、これまでになく自信に満ちた顔で微笑むリズさんでした。彼女には安全のため、全員の中心にいてもらっていたのですが、そのせいもあって、わたしたちは彼女の様子に気を払っていませんでした。
「始まりの使徒。あなたの力は、要するに闇に閉じ込めた相手の能力を『初期状態』にしてしまうというものでしょう? いえ、正確には『能力』ではなく、『熟度』でしょうか。だからこそ、力そのものはなくならず、力の使い方だけがつたないものになる。皆さんが『うまく』力が使えないのもそのせいです」
「……え? じゃあ、本当に小さい頃に『戻されていた』っていうの?」
驚きに目を丸くし、リズさんを見つめるアンジェリカ。
「はい。ですが、それにわたしが気づけたのは、アンジェリカさんが諦めず、『魔法』を使おうと努力し続けてくれたからですよ」
「そ、そっか……」
にこやかに笑うリズさんに、少し照れくさそうな顔をするアンジェリカ・
「……大した洞察力だな。さすがは『法術士』というべきか。だが、それで『努力』が報われたとは過言であろう。原理はわかれど、克服はできぬ。それが我が究極の『魔法』なのだ」
シヴァ枢機卿の声には、その言葉どおり、己の力が見抜かれたことへの動揺など微塵も感じられません。
「いいえ。克服はできます。……だって、下手になったのなら、努力して、もう一度『うまくなれば』いいんですもの」
「え? で、でも、リズ……。赤ん坊のころにまで『戻された』のだとしたら、さすがにすぐには無理よ」
「そうですね。だから、アンジェリカさん。ちょっとだけ……ズルしちゃいましょ?」
リズさんは悪戯っぽくそう言うと、手にした『護符』を勢いよく、アンジェリカの背中に張り付けたのでした。
次回「第177話 奉仕と勤勉の御褒美」




