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異世界ナビゲーション  作者: NewWorld
第9章 愚者の聖地と七人の御使い
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第175話 狂える鏡と世界の純真

 『法王の筆』を手の上でもてあそびながら、ミズキ女史は、にやにやと笑っています。眼鏡をかけた彼女の視線が向けられた先には、白い大蛇の姿をした『マザー』がおり、真紅の瞳に怒りの炎をたぎらせていました。


〈狂える鏡……そして、『法王』の人形。『わたくし』は今、あなたたちを放置できない世界への脅威に認定しました。これより、『わたくし』の全戦力をもって、あなたたちを殲滅します! さあ、おやりなさい!〉


 『マザー』の号令に合わせるかのように、それまで整然と並んでいた白蛇たちは、顎を大きく開き、その喉元から淡い光の玉を一斉に吐き出してきました。


 いえ、これは『光の玉』というより、『光の泡』というべきでしょうか。


「ふむ。文字どおり、あらゆる存在を『可能性の海』の中で『水泡』に帰す力というわけか。ますます『らしい』攻撃方法じゃあないかね? 疑似人格くん」


 しかし、ミズキ女史はその攻撃を予期していたかのように、『筆』の先から無数のエネルギー弾を生み出し、弾幕の嵐によってそれらの泡を『対消滅』させてしまいます。


〈疑似人格? だ、黙りなさい! 『わたくし』は世界の聖母! この世界に生きる生きとし生けるものすべてを護るため、世界の敵を排除する者です!〉


 『マザー』はミズキ女史の言葉に激昂すると、白蛇たちとは比較にならない巨大な顎を大きく開きました。


〈原初の塵へ還りなさい! 《断絶の波動》〉


 巨大な牙と赤くうねる舌の奥──口中の暗黒から放たれたのは、あらゆる物質の結びつきを破断する不可視の波動でした。計測不能なレベルにまで膨れ上がっていく莫大な『魔力』と【因子アルカ』。その怒涛の奔流は周囲の空間を激しく軋ませ、こちらを押しつぶさんばかりに迫ってきます。


「《ディストーション・バリア》を展開!」


 『マザー』が放った《断絶の波動》は、この場の全員を一瞬で原子レベルにまで分解消去できてしまうほど凄まじい力を秘めていました。

 そのことを一瞬で解析したわたしは、通常の力場による防御ではなく、空間そのものを歪ませることによって、亜空間を通じて別の場所へと破壊の力を逃がす方法により、この攻撃を回避します。


〈そんな……馬鹿な!〉


 自らの放った絶対的な破壊の波動が吸い込まれるように虚空へ消えていくのを見て、『マザー』は驚愕に打ち震え、蛇の身体を激しく揺り動かしました。


〈な、なぜ……そんなことができるのです? あなたが異世界の技術を持っていることは『知って』います。でも……この世界で『わたくし』以上に世界を操ることなど、誰にもできるはずがないのに!〉


 周囲から破壊の波動が消えたことを確認しつつも、わたしは空間の歪みを維持したまま、彼女に向かって言葉を返します。


「わたしには『魔力』は使えませんが、代わりに無数の世界で、様々な状況下で、【因子アルカ】を操作してきました。そういう意味では、あなたとは場数が違うのですよ。ましてや、あなたのような『間接的』なやり方では、『演算速度』において、わたしに敵うはずもありません」


 わたしが観測した限りでは、『マザー』はおそらく、『女神』としての性質を使って『魔力』を無限に生み出し、同時に『法王』の技術・知識を駆使して『魔力』による【因子アルカ】への干渉を通じた事象の具現化を行っているのでしょう。ですが、それではあまりにも遠回りというものです。


「あなたはどうやら、世界の母という割には、稚拙な力の使い方しかできないようですね」


 とはいえ、リミッターが解放される前のわたしであれば、先ほどの冗談じみた破壊の波動を防ぐ手立てなど無かったでしょう。その意味では、たとえ方法が稚拙であれ、彼女が依然として、恐ろしい力の持ち主であることには変わりはありません。


〈うう……! 世界の母たる『わたくし』を脅かす『世界操作』の使い手。ああ……ヒイロさん。あなたもまた、排除すべき世界の脅威!〉


 熱に浮かされたような『声音』で語り掛けてくる『マザー』。その言葉には、すでに最初の頃の慈愛に満ちた『聖母』の姿は面影さえ残っていません。そして……再び膨れ上がる破壊の波動。先ほどはうまくいきましたが、同じような攻撃を延々と繰り返されては、いつかは空間歪曲の防壁も破綻するでしょう。


 しかし、その時でした。


「くはははは! そら見たことか!」


 突然、それまでわたしの【因子演算式アルカマギカ】の発動を興味深そうに見守っていたミズキ女史が、大声を上げて笑い始めたのです。


〈人形よ。何がおかしいのです?〉


「いやいや、あまりにも君が『人格装置』として、典型的な反応を見せるものだからね。まったく、世界への脅威に対抗するため、『女神』と『法王』を二重に写し取り、それがゆえに鏡像を乱してしまう。そんな君はまさに『愚かなる世界の鏡』だ。そんな仮初の人格が『神』気取りとは片腹痛いよ」


 なおも周囲の空間に、無数の『泡』の迎撃用エネルギー弾を生み出しながら、ミズキ女史はけらけらと笑っています。

 最初に比べ、『マザー』の言動に余裕がなくなったのは、どうやらミズキ女史のこうした発言が原因のようです。仮初の人格──そういえば、ヴァナルガンドも似たようなことを言っていたのではないでしょうか?


 わたしはそう思い、彼の方へと視線を巡らせました。


「母上……ああ、おいたわしや」


 岩の塊のような筋肉で身体を覆う獣戦士。傍らに寄り添うプロセルピナやメルティなどより倍近くも抜きんでて背の高い大男。彼は何もかもわかっていながら、それでもどうしようもないものを前にして、自らの無力を呪う──そんな面持ちのまま、『マザー』の姿を見つめています。


〈『わたくし』は母! この身に宿るこの力は、あくまで世界を護るため、『女神』と『法王』に対抗するために身に着けた力!〉


 なおも『マザー』は叫び声をあげると、全身の鱗一枚一枚を激しく振動させ、わたしの空間歪曲ごと飲み込まんばかりの凶悪な波動を放ち始めました。


「く……なんて滅茶苦茶な……これでは障壁が……!」


 『魔力』の総量に物を言わせて、わたしの『演算速度』を超えようとする『マザー』の攻撃。わたしは必死に空間の歪みを維持しようと試みますが、徐々に追いつかなくなりつつありました。


 しかし、その直後のこと。


「……母だと言いながら、君の攻撃はさっきから君の『子供たち』を巻き込むものばかりじゃないか」


「え?」


 思わず、わたしの喉からは、間の抜けた驚きの声が洩れてしまいました。いつの間にかマスターは、わたしが構築した歪みの力場から外に出ており、『マザー』の巨体に《ソード》形態にした『マルチレンジ・ナイフ』を突き立てていたのです。


「マ、マスター! どうして外に?」


 気づけば、周囲に吹き荒れていた破壊の波動も止んでいます。ですが、周囲をよく観測すれば、わかることもありました。


「……『鏡』の破片? いえ、これはもはや粒子と呼んでも差し支えなさそうですが……まさか、これで『合わせ鏡の一兵卒ネガティブ・プロモーション』を?」


 この広大な通路全体に漂う、微細な粒子。そのすべてが『鏡』であるならば、その『個数』は天文学的なものになります。それだけの『鏡』があれば確かに、先ほどまであまりにも膨大過ぎて劣化しきれなかった『マザー』の『魔力』でさえ、無効化できてしまうのかもしれません。


 おそらくこの『鏡の粒子』を生み出したのは……


「まあ、わたしにも、この程度の芸当ならできるさ。君のように一瞬で、とはいかなかったから時間はかかったがね」


 悪戯が成功した子供のような顔で笑うミズキ女史。


「で、ですが……普通なら鏡と認識することさえできない粒子ですよ? それに、あくまでマスターの『視界に映った鏡』が【スキル】の発動条件のはずです」


「そうだね。でも、彼の脳髄の視覚野に、その情報を直接送り込めば話は別だろう?」


「な! 脳髄に直接ですって? そんな危険な真似をよくも!」


 思わず声を荒げかけたわたしですが、ここで、マスターが二人の間に割り込むように言葉を挟んできました。


「僕が頼んだんだ。さすがに少しはクラっときたけど、大丈夫」


 マスターは手にした『黒い剣』を白蛇の巨体に突き刺したまま、こちらを振り向きもしません。


「ははは! わたしなんて脳髄を『非存在の蛇』に喰われたんだぞ? それに比べれば、なんてことはあるまい」


「あなたは黙っていてください!」


「ふむ。ヒイロは怒ると本当に怖い顔になるなあ」


 黙ってくださいと言っているのに……。それはさておき、『ミズキ女史』による鏡仕立ての微粒子の散布とマスターの【スキル】の合わせ技により、この閉鎖空間内で『魔力』に頼る『マザー』は、すでにほとんど無力化されたと言ってもよいでしょう。


 ですが、それ以上に……


〈う、うああ……〉


 自らの身体に突き刺さる黒い刀身を見つめ、『マザー』は震える声でうめいています。


「心配しなくても、これは『パンデミック・ブレイド』じゃないよ。そう見せかけた、黒いだけの剣だ。……刀身も大部分が『可能性の泡アニマムンディ』に侵食されているし、実際には大して深く刺さってもいない」


 なぜか確認するように、そんな言葉を口にするマスター。


「くくく、それでも『世界』の外殻人格装置を構成する『マザー』にしてみれば、『存在意義』を殺されたようなものだろう。……守らなければならない自身の内部に、敵の侵入をわずかでも許したのだからね」


 愉快げに肩を揺するミズキ女史は、手にした『法王の筆』を振りかざし、残る白蛇の群れめがけて数百数千のエネルギー弾を一斉に発射すると、それらをすべて対消滅させてしまいました。


〈『わたくし』は、世界そのものを内包する唯一の存在……。わたくしは……『世界の母』……〉


 うわごとのように、いえ、『壊れたラジオ』のように言葉を繰り返す『マザー』。


「ふふん。内包か。まあ、その言い方なら『母』という言い分も理解できなくはないかな。君がその御自慢の巨体でキョウヤくんに突進してこなかった理由も『それ』だろうからね」


〈……〉


「どういう意味です?」


 沈黙する『マザー』に代わり、わたしがそう尋ねると、ミズキ女史は面白そうに笑みを浮かべて言いました。


「身重の身体で無茶をすれば、お腹の子供も危険にさらされる……と言えばわかりやすいかな?」


「身重? 世界を内包……まさか、『白い大蛇』の中にこそ、『世界』があると?」


「そうだよ。それもただの『世界』じゃない。大きく波打ち、乱れに乱れた『可能性の海』にあって、奇跡的に残った『綺麗な水鏡に映る鏡像』だ。知識欲の塊である『法王』にしてみれば、喉から手が出るほど欲しいものだったろうね」


 かつて彼女が語った世界観に基づけば、『世界』とは、水面に浮かぶ『泡』を観測した『知性体』の認識によって形作られる『鏡像』であるとのことです。しかし、マスターは、その見解について、「異なる『知性体』に形作られる世界がなぜ、共通した法則を有しているのか?」との疑問を口にしていたはずです。


 続くミズキ女史の言葉は、そんな彼の疑問に対する答えにもなるものでした。


「遥かなる原初の時に、凪いだ水面みなもに落ちたる『原初の精神』。そこからすべての『泡』が──『世界の元』が発生し、その『原初の精神』こそが、すべての世界の共通項たる『物理法則』──『水面の波』を生み出した。けれど、それにより失われたものもある。……そう、凪いだ水面みなもそのものだよ」


「それがこの世界にあると?」


「……つまり、この世界には、物理法則を凌駕する『可能性』が眠っているのさ。この世界に現存する『魔法使い』たちの『魔法』が複数の根源的情報素子の合間で揺らぎ、時として物理法則を激しく捻じ曲げる力を持つのは、そのためだよ。『女神』の魔法の物質創造能力しかり、『王魔』や『法王』の空間操作や空間転移能力しかりだ。扱い方ひとつで次元並行世界全体にさえ影響を及ぼしかねない究極の『可能性』だね」


 うっとりとした顔で両手を頬に当て、声を弾ませるミズキ女史。


「まあ、だからこそ、キョウヤ君のような存在は、とりわけ『この世界』にとって最悪だと言ったわけだが……」


 彼女は立て板に水を流すがごとく得意げに語り続けていましたが、ここにきて、急に口をつぐみ、そして……そのまま顔色を青ざめさせてしまいました。


「って馬鹿か、わたしは! 未知の存在に接触できるのがうれしくて、すっかり忘れていたじゃあないか! そうだ、そうだ、そうだった! ダメだ、キョウヤ君! 下がりなさい!」


 慌てふためいてマスターに呼びかけるミズキ女史。なんだか『生前』とはずいぶん性格が変わっているようにも思いますが、気のせいでしょうか?


「性格が……っていうより、頭が悪くなってるんじゃないのかな?」


 いつの間にかわたしの傍まで歩み寄っていたメルティが、わたしの心を読んだかのように話しかけてきました。


「まあ、『非存在の蛇』に脳髄を喰われた後とあっては、仕方がないのかもしれませんね」


 などと言いながら、わたしは必死でマスターを呼び止めようとするミズキ女史に目を向けましたが、マスターは既に『マザー』の身体に剣を突き立てているのです。手遅れにもほどがある状態でした。


「なるほどね。いいこと聞いちゃったなあ。それはすごく面白そうだ。じゃあ、中身を見せてもらおうか?」


 マスターは剣を引き抜くと、《ナイフ》形態に戻して脇の鞘に収めました。そして、右手に黒い闇をまとわりつかせ、そのまま『傷口』にその手を差し入れたかと思うと……一気にそれを引き裂いたのです。


〈ギギアアギギガ……〉


 それまで優しく包み込むように慈愛に満ちていた『マザー』の声。それがいまや、出来損ないの機械音声のようにむなしくあたりに響き渡ります。

 直後、純白の鱗に覆われた大蛇の身体は、ガラスが砕けるかのような音と共に破裂し、まばゆい光とともに消え失せていきました。


「ああ! 母上!」


 キラキラとした白い鱗の破片が舞い散る中、ひときわ大きな声で叫んだのは、プロセルピナでした。彼女にしてみれば、母と慕う存在が目の前で引き裂かれたのです。ショックには違いないでしょう。わたしは、彼女が攻撃行動に出ることを警戒して、そちらに視線を向けました。


 しかし、そこでわたしが目にしたものは……


「ああ! ようやく、ようやく、お会いできましたね! 母上!」


 感涙にむせびなく、妖精の騎士と餓狼の戦士の姿です。『王魔』たちに悪夢と恐れられた絶禍級の『愚者』二人は、今や恥も外聞もなく、声を上げて泣いています。


 彼らの視線の先にあるもの。それは、石畳の床にちょこんと女の子座りを決めた、小さな幼女です。透き通るような純白の髪に、鏡のように不思議な光を宿す大きな瞳。髪と同じかそれ以上に白く見える肌の色。衣服は身に着けていないはずですが、不思議と『裸でいる』ようには見えません。


「……えーっと、これが母上? っていうか、どう見ても、ちっちゃい女の子だよね?」


 あまりにも予想外のものが現れたせいか、さすがのマスターも首をかしげたまま固まっています。


「うあああ! ダメだ! ほら、キョウヤ君。彼女はその……純粋なんだ! いや、『純真』と呼んでもいい! 不用意に話しかけたり、『影響』を与えるような真似をしては……!」


 ほとんど死に物狂いで制止の呼びかけをするミズキ女史ですが、どうやら彼女、マスターの妨害行為に出ることはできないらしく、おろおろと右往左往するばかりでした。


 すると、その時……


「……アナタ、だあれ?」


 『世界の純真』は、澄んだ鏡の瞳に少年の顔を映すように顔を上げ、問いかけの言葉を口にします。


「ん? 僕かい? 僕の名前はクルス・キョウヤ」


「クルス? なまえ?」


 言葉が理解できているのかいないのか、その幼女は舌足らずな言葉で、おうむ返しにマスターの言葉に反応していました。


「し、信じられん。『あなただれ』だと? あれだけ純粋な世界の魂が……『問いかけ』などという能動的な行動を起こすなんて。キョウヤ君。君は相変わらず、なんて非常識な男だ」


 あきれたように言いながら、ミズキ女史はがっくりと肩を落としました。もはや処置なし、と言わんばかりの態度ですが、しかし、マスターの本領発揮はここからでした。


 冗談のような話ですが、この時のこの出会い、この会話こそが、この世界を本当の意味で変えてしまうことになる『きっかけ』だったのかもしれません。


「そうだね。君にはクルスじゃなくて……」


 キョウヤと気安く呼んでほしい──アンジェリカとこの世界で初めて会った時の彼の言葉を思い出し、わたしはそんな台詞を予測していました。


 しかし、彼の口から出てきた言葉は……


「お兄ちゃん、と気安く呼んでもらいたいね!」


 一瞬、わたしには、何が起きたのか理解できませんでした。

 しかし、その直後のこと──


「あ、あがが……! ぐぼはあっ!!」


 わたしの隣でミズキ女史が、衝撃のあまり卒倒してしまったのでした。

次回「第176話 混沌の闇の中で」

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