第171話 竜王の背の上で
時をさかのぼること少し前──マスターと別れたアンジェリカたちはと言えば、『フェアリィの森』から離れた後、ベアトリーチェが『侵食する禁断の領域』で生み出した『竜王』の背中に乗り、空路で『ドラグーン王国』へと向かっていました。
「それにしても……やっぱりすごいんですね。ヒイロさんって」
「え? なんですか、突然?」
『わたし』は、いきなりリズさんからかけられた言葉に、戸惑い気味の返事をしました。
「その……分身です。ヒイロさんは今こうしている間にも、キョウヤさんと行動をともしていて、同じように会話をしたりされているわけですよね?」
「そうですね。もっとも、本体とのリンクにはタイムラグもありますし、複雑な【式】を使用する際にはリンクそのものが切れることもありますから、常に向こうの状況を把握できるわけではありません。ですので、それほど難しいことをしているわけではないんですよ」
「でも、今までのヒイロさんとまったく違ったところはなさそうです。まるで同一人物にしか見えないのに、『二人になっている』ということ自体がすごいと思うんです」
なぜか胸の前に両手の握り拳をそろえ、目を輝かせて語り掛けてくるリズさん。
「な、なるほど、そういうことですか。確かに……この感覚を一般の方に理解していただくのは難しいかもしれませんね」
ここにいる『わたし』と向こうにいるわたしは、それぞれ別々に自律的な行動をとることができますが、それでもあくまで本体は向こうです。こちらの『わたし』には、重力制御や重火器などの制御が難しい【式】は使用できないという制限もあります。
「ふふふ、難しいことはよいではないか。こちらにいるヒイロもまた、同じように可愛らしいということだけで十分じゃ」
相変わらずの調子でニヤニヤとこちらに笑いかけてきたのは、何を隠そう聖女様です。彼女が生み出した『竜王』はかなりの大きさがあり、その背中も十分に広いはずなのですが、なぜか彼女はわたしの片腕にしっかりとしがみついています。
「まだ視覚や聴覚に慣れていないのでバランスがおぼつかないのじゃ」というのがその理由でしたが、ここまで見え透いた嘘も珍しいのではないでしょうか。
「なんだかんだ言いながら、そのままにしてやってるんだから、ヒイロも優しいな。わたしだったら、ここから蹴り落としてやっているところだ」
納得のいかない顔で言うアンジェリカは、わたしたちからは少し離れた場所に座っています。
「ふふん。わらわをここから落とせば、この『竜王』も消えてしまうのじゃぞ?」
「ぬ、ぐぐぐ!」
わかっていて言ったのでしょうが、それでも悔しそうに唇をかむアンジェリカ。しかし、彼女は気づいていません。
彼女は今、お行儀悪く胡坐をかいて座っているのですが、彼女の着る『魔装シャドウドレス』のスカートは薄手の生地でできた短めの物なのです。その裾からはすらりと伸びた王女様の健康的な素足が大胆に露出しており、ともすれば下着までも見えてしまいそうになっています。
ベアトリーチェの視線はまさに、そこに向けられていました。
「……ますます変態じみてきましたわね。落とさないまでも、適度に締め上げて差し上げるくらいはできましてよ?」
底冷えのするような声とともに、聖女の白い首にぐるりと巻き付いたのは、まるで蛇のように動く緑の茨でした。
「エ、エレン。棘が、棘が刺さっておる! 乙女の柔肌に傷をつけるとは酷いではないか」
「嘘をおっしゃい。肌を傷つける棘は、『神聖なる純白の雪花』で防げているはずでしょう」
緑に輝く美しい髪の一房を茨に変え、ベアトリーチェの首を締め上げているのは、アンジェリカ自身より早く彼女の視線に気付いたエレンシア嬢でした。
「い、いや、それはそうじゃが……なんか絶妙に先が丸くなった棘がぐりぐりと当たって、とっても痛いのじゃ!」
いやいやをするように首を振るベアトリーチェですが、緑の茨はしっかりと巻き付いたまま、彼女の首から離れる気配はありません。
「当たり前でしょう? 痛くなければお仕置きにはなりませんわ。今すぐアンジェリカさんへの嫌らしい視線を改めなさい。いくら目が見えるようになったばかりとはいえ、露骨すぎますわ」
「へ? あ! きゃう!」
その言葉でようやく自分の格好に気づいたアンジェリカは、顔を真っ赤にして居住まいを正すと、怒りのこもった目でベアトリーチェを睨みつけました。
「まったく、ひどい誤解じゃな。わらわは別に、アンジェリカちゃんの下着を見たかったわけではない。あの男と一緒にするな」
「じゃあ、何なのよ! もう!」
頬を膨らませて怒鳴るアンジェリカは、動揺しているせいか子供っぽい口調に戻っていました。
「決まっておる。想い人の男が傍におらんからと言って、気を抜いているアンジェリカちゃんの可愛らしき姿をじっくりと堪能したかっただけじゃ!」
「そ、そんなんじゃないもん!」
ますます顔を赤くして否定するアンジェリカですが、ベアトリーチェはそんな彼女の様子を面白そうに見つめています。
「くふふ、照れたところも可愛いのう! ……って、ぐえ!」
変態じみた聖女様の一言に、エレンシア嬢の茨は素早い反応を見せ、彼女の首を締め上げたようです。
「……はあ、まったく。誰かこの聖女様を『何とかして』いただけないものかしら……?」
「あはは。お気持ちはわかりますけどお嬢様。そろそろ緩めてあげないと、ベアトリーチェ様が窒息しそうですよ」
頭を抱えてため息を吐くエレンシア嬢に、ためらいがちに声をかけるリズさん。さすがにベアトリーチェを気絶させるわけにもいかず、エレンシア嬢は茨の拘束を外したようですが、聖女様の白い首元には傷ひとつ付いていませんでした。
しかし、ここで……
「『何とかして』ほしい……ですか。わかりました。それではこのヒイロが、何とかして差し上げましょう!」
少し前に『本体』の身に起きた嬉しい出来事が影響したのか、『わたし』はつい、そんな風に声を張り上げてしまいました。
「むむ? 何をしてくれるというのかな? ヒイロよ。お肌とお肌のスキンシップなら大歓迎じゃが」
なおもニヤニヤと笑う聖女様ですが、そんな風に余裕でいられるのも今のうちです。わたしはとっておきの反撃をしかけることにしました。
「いいえ、聖女様はマスターとの唇と唇のスキンシップの方がお好きのようですから、遠慮しておきますね」
その一言がもたらした成果は絶大でした。
「ええっ!」
周囲の皆の視線が一斉にベアトリーチェに向けられ、同時に、彼女の顔が見る間に真っ赤に染まっていったのです。
「やっぱり、本当でしたのね……」
わたしから事前にその事実を聞かされていたエレンシア嬢ですら、そのことを信じられていなかったようですが、今のベアトリーチェの反応を見れば、それが事実かどうかなど、一目瞭然でした。
「ち、違うぞ! 違う! わらわはそんなことまったく!」
「いえいえ、おっしゃっていたではないですか。『次からはちゃんと断ってからしてほしい』とか……」
「うあああああ! よせ! やめてくれ! あ、あれは、一時の気の迷いじゃったんじゃあああああ!」
頭を抱えて叫ぶベアトリーチェですが、わたしもここで、攻撃の手を緩めるつもりはありません。決して『狼狽する聖女様の反応が面白いから』という理由ではなく、この場に集う彼女の『被害者』たちのためにも、しっかりとやり返しておく必要があるのです。
「ヒイロ……口に出ているぞ……」
アンジェリカが何か言っていますが、意味がよくわかりません。
「わからないって……お前なあ……」
それはさておき、攻撃再開です。つい先ほど、わたしは『本体』を通じて、とっておきの攻撃方法を見つけたのです。
「ベアトリーチェさん。貴女もマスターのスキルはご存知と思いますが、マスターは貴女の『反転魔法』を使用されましたよ。相変わらず反則のような効果でしたが」
「うう……そ、それがどうかしたのか? あれはあやつに無理やり唇を奪われたからであって……」
周囲に弁解するように言うベアトリーチェですが、無駄な抵抗というものです。
「いえいえ、そんなことを言っているのではありません。忘れたのならお教えいたしますが……マスターの『白馬の王子の口映し』の発動条件は、対象の異性がマスターに『好意』を抱くことも含まれているということです」
「あ!」
周りの皆さんも、ここへきてようやくそのことに気付いたようです。先ほどまでとは別の意味で驚愕の視線をベアトリーチェに向けています。
「あ、う、あ……ち、違う、違うのじゃ。わらわは別に……そんなんじゃ……」
耳まで顔を赤くしたまま、涙目で首を振るベアトリーチェ。するといつの間にか彼女の傍まで近寄ってきていたアンジェリカが、ゆっくりと彼女の肩に手を置きます。普段ならこんなことをされれば、よだれをたらさんばかりに大喜びをする聖女様ですが、今はただ、びくりと身体を震わせました。
「なあんだ。ベアトリーチェ。そうか、そういうことだったのか。お前も素直じゃないなあ。照れることはない。同じ男に惚れた者同士、仲良くしようじゃないか」
実に嬉しそうに、つい少し前までベアトリーチェがしていたような笑みを浮かべ、じっくりねっとりと語り掛けるアンジェリカ。そんな彼女たちの周囲では、エレンシア嬢が目を丸くしたまま固まり、リズさんが口元に手を当てておかしそうに笑いをこらえています。
「ち、違うと言っておるじゃろうが、こ、このわらわが、汚らわしい男などに惚れるわけが!」
「でも、キョウヤは特別だ。そうなんだろう?」
「そ、そんなんじゃないもん!」
なぜかアンジェリカの時と同じ口調で叫ぶ聖女様。
「ふふふ。照れる姿も可愛いものだな。ねえ、みんな?」
勝ち誇ったように言うアンジェリカ。そのあまりのドヤ顔を見て、ベアトリーチェを除く全員が楽しそうに笑い声をあげたのでした。
──ドラグーン王国に向かうまでの道中こそ、『教会』がわたしたちを狙うチャンスである。そう考えたわたしたちは、彼らの襲撃を警戒していたのですが、今のところは何もありません。『竜王』の移動速度なら、このまま一日もしないうちに王国へと到着することでしょう。
しかし、『竜王』の背の上で──ソレは唐突に訪れました。
「──こんにちは、美しきお嬢様方」
「え?」
考えられないほどの至近距離から響く声。わたしたちは、全身を総毛立たせる思いとともに、声のした方に振り返ります。
そこに立っていたのは、一人の少年騎士でした。
「可愛いなあ。僕、女の子がびっくりした顔をするところって、大好きなんだ」
名工が作り上げた陶磁器のように白く繊細な目鼻立ち。金に輝く髪は空を吹く風になびき、薄ら笑いを浮かべる氷の美貌をふわりと包み込むように流れています。
にやにやとした蒼氷色の瞳は、わたしたち一人一人を品定めするかのように、ゆっくりとその視線を巡らせていました。
「何者だ、貴様は。どうやってここまで接近した」
声が聞こえた瞬間、いち早く臨戦態勢をとっていたのはアンジェリカでした。彼女は、炎型に波打つ刀身の短剣『魔剣イグニスブレード』を油断なく構え、金髪の少年を睨みつけています。
「勇ましくて可愛いね、お姫様。僕の名前はクリシュナ・クライエン。世界を統べる『女神の教会』の四天騎士長」
「四天騎士長じゃと? 貴様がか?」
訝しげに問いかけるベアトリーチェは、すでに【スキル】『真実を告げる御使い』を発動し、白く輝く翼を背中に広げています。
「そうだよ。君の叙位式の時は、他に任務があって、残念ながら同席できなくてね。まだ十代の可愛らしい女の子が大司教の地位にまで上り詰めたという噂を聞いていただけに、あの時はすごく残念だったなあ」
対魔銀製の赤い鎧をがしゃりと鳴らし、少年は器用に肩をすくめました。
「ふん。わかっておるのか? わらわたちは既にヨミ枢機卿を打倒しておるのじゃ。いまさら四天騎士程度が出張ってきたところで、わらわたちの相手にはならんわ」
「ああ、ヨミ君かあ。彼には可哀想なことをしちゃったね。いくら教皇様の命とはいえ、『三千七百四十四人の彼』を皆殺しにするなんて仕事……いくら僕が『終焉を告げる御使い』だからといって、気の進む話じゃなかったよ」
なおも薄気味悪い笑いを浮かべる彼は、鎧こそ身に着けているものの、武器らしきものは何も身に着けていません。わたしが確認する限り、今の彼は【スキル】さえ発動していないようでした。
「ヨミ枢機卿を殺した? ……なるほど貴様が教会お抱えの『処刑人』というわけか」
「ベアトリーチェさん。その……処刑人というのは?」
「うむ。『教会』内部でまことしやかに囁かれていた噂話じゃ。教皇の意に背くものを秘密裏に始末する『処刑人』。そういう性質の力を持つものが『使徒』の中にいるとな。……だからエレンよ。お前がいかに強い生命力を保持していようと、油断は禁物じゃぞ」
ベアトリーチェは周囲に浮かべた『女神の拷問具』でエレンシア嬢やリズさんをかばうようにしながら、油断なく少年騎士を見つめています。
しかし、当の相手はと言えば、
「嫌だなあ。僕は綺麗なお姉さんが大好きなんだ。エレンさんなんか……僕の好みのどストライクに美人だし、そんな物騒な真似するわけないでしょう?」
「……気持ち悪い目でこっちを見ないでくださいな」
「あらら、嫌われちゃったか。まあ、いいや。『時間』はたっぷりあるからね。そのうち、僕の魅力をわからせてあげてもいいさ」
「時間はある……ですって? いますぐ、ここから飛び降りさせて差し上げますわよ?」
エレンシア嬢が髪の毛を茨に変え、鋭い口調でそう言うと、少年騎士はますます楽しげに目を細めて笑います。
そしてそのまま、彼がゆっくりと腕を掲げると、その手の中にまばゆい輝きとともに、武骨な形の武器が出現しました。
「ははは。かっこいいでしょう? これは《女神の首切り刀》って言ってね。首に当たりさえすれば、どんなに頑健な防御があっても絶対に切断できるし、切られた首は二度とつながることはない。まさに『処刑人』に、ぴったりな武器なのさ」
「そんなものに馬鹿正直に当たるとでも?」
アンジェリカは、揺らめく炎を立ち昇らせた真紅の短剣を少年騎士へと突きつけました。
「できるさ。その証拠を見せてあげるよ!」
彼がそう言った、次の瞬間でした。突然、それまであたりに吹いていた風が止まったのです。よくみれば、足元の『竜王』も、その翼の動きを止めています。
「な、なんだ? 何が起きた?」
突然の変化に、わたしたちはそろって周囲を見渡しました。
「ま、まさか……時間が止まった?」
こちらの『わたし』には、【因子観測装置】による精度の高い観測は困難ですが、それでも周囲の空間に起きた異常の内容は、目の前の少年騎士が発動した【スキル】を分析すれば明らかでした。
〇クリシュナの特殊スキル(個人の性質に依存)
『終焉を告げる御使い』
任意に発動可。最高位の『アカシャの使徒』にのみ発現する七種の特殊スキルのひとつ。天使の力を得る。──七番目の御使いは、すべてを唐突に終わらせる。
とはいえ、驚いているすきに敵が攻撃を仕掛けてこないとも限りません。わたしは慌てて防御用の【式】を構築しようとしましたが……
「あれ? なんで、僕が『終わらせた時間』の中で動けるの? おかしくない?」
いつの間にか背中に白い翼をはやしたクリシュナもまた、なぜか驚きを隠せない顔で周囲をきょろきょろと見渡しています。
「……馬鹿め。わらわを前にして、『使徒』のスキルが通用するなどと思うなよ」
不敵な笑みを浮かべながらそう言ったのは、具現化した《女神の天秤》から周囲に広がる《天秤の砂》をクリシュナの足元に集約させたベアトリーチェでした。
すると、彼はすぐに納得したように頷きます。
「ああ、なるほど。これが教皇様の言っていた『特異点』の力なのか」
彼の言う特異点の力とは、おそらく、『御使いのスキル』を有する使徒に《天秤の砂》を発動させることで強制的に該当するスキルを封印することができる、ベアトリーチェの特殊スキル『真実を告げる御使い』に新たに加わった能力のことでしょう。
「とはいえ、君はまだ『特異点』としては不完全なのかな。完全な封印とはいかなかったみたいじゃないか」
「周囲の風と『竜王』のことを言っておるのなら、それはわざとじゃ。この方がここで戦うには便利じゃからな」
「なるほどね。……でも、君こそ思い上がりも甚だしいなあ。わかってる? 僕が最初にここに現れた時、君たちの首を全員まとめて刎ねてあげることだってできたんだぜ?」
クリシュナは、手にした《女神の首切り刀》を自分の顔に寄せるようにして、馬鹿にしたような笑みを浮かべています。
「それこそあり得ません。仮にそうしていれば、首を刎ねられたのは、あなたの方だったでしょう」
仮に時を止めて接近してこようとも、マスターの特殊スキル『世界の平和は君次第』は、殺意を感じたその瞬間に発動します。いまや自分の強化スキルや女性陣の支援スキル、装備品まで含めた各種効果によって極限まで高められた『わたし』とマスターの知覚能力なら、その一瞬を逃すことなどありえません。
「殺意の反射? ふーん。教皇様に聞いてた通りだ。おかしいとは思ったんだよ。……四天騎士でも最強の力を持つはずの僕が、『サポート役』をさせられるだなんてね」
「え?」
「──ご苦労だったな。クリシュナよ。『特異点の力』さえ使用させてしまえば、あとは我の『力』で一網打尽である。さあ、生贄の乙女たちよ。わが女神の闇に沈め──『混沌を告げる御使い』」
ありえない、さらなる第三者の声。その声が聞こえたと同時、わたしたちの周囲は深い闇に閉ざされたのでした。
次回「第172話 デウス・エクス・マキナ」




