第168話 絶禍愚人
『惨禍の翼竜』とでも呼ぶべき、二つの『隻眼』を持った竜の背に乗る人影。
その額には、縦に裂けた眼孔が開いており、まばゆい光を放つ赤い『隻眼』がのぞいています。一方、本来の目の位置にあるものもまた、『愚かなる隻眼』であるらしく、輝きこそ放っていませんが、瞳の部分は赤い色素で染まっているようでした。
三つの『隻眼』──絶禍級の『愚者』の証。
通常の瞳の他に掌に『隻眼』を持つメルティと違い、この人物は通常の瞳も含めて三つの隻眼を有している形ではありますが、その点を除けば、この人物はメルティによく似ているようでした。
何が似ているかと言えば……その『美しさ』です。ただの顔の造形などではなく、生物が生物として生まれながらに持つ命の輝き。人でありながら『野生のしなやかさ』を備えた均整の取れた身体つき。しかし、『彼女』の最も大きな特徴はと言えば、その背中に生えた四枚の半透明の羽根でしょう。
「妖精?」
空を見上げたまま首を傾げ、そんな言葉を口にするマスター。彼は周囲の戦闘を『アンジェリカ』や『エレンシア』たちとその他の人形たちに任せたまま、ぼんやりと何かを考えているようです。
一方、『惨禍の翼竜』の背に乗った『彼女』は、鋭い視線をマスターへと向けています。長い黒髪を首の後ろで一つに束ねたその姿は、どことなくミズキ女史を思わせる雰囲気がありましたが、『彼女』の顔は知的というより幼いという方がぴったりくるかもしれません。
長いまつ毛に縁どられた赤い眼は、他の『愚者』のものや彼女自身の額にあるものとは異なり、人間と同じ瞳の形をしています。血色のよい頬につややかな赤い唇はなまめかしくもありますが、それでも全体的な印象としてはやはり、『あどけなさ』が際立つような少女でした。
『彼女』は、自分に注目が集まっていることに気付くと、ようやく口を開きます。
「──毒を以て毒を制す。それが同志たちの考えだが、プロセルピナは反対だ。われらが『マザー』はすべてを受け入れ、すべてを同化する。ならば、『ヴァイラス』とて同じこと。だが、貴様は違う。同化すらできない『異物』は……このプロセルピナが排除する」
『プロセルピナ』というのは、彼女の名前でしょうか。長い黒髪を風になびかせ、身体の要所に銀の具足を身に着けた彼女は、確かな意志をもって地上を見下ろし、武器を構えます。凛々しくも美しい『妖精の騎士』が手にするは、神々しい輝きを放つ銀の弓。プロセルピナは、ソレをゆっくりと引き絞り、地上でぼんやりと自分を見上げるマスターへと向けました。
「な……え?」
この時、なぜかわたしは、明らかに危険な武器を持ち、マスターを攻撃しようとしている存在が目の前にいるというのに、それを阻止するための行動に出ることができないでいました。
その代わり、ほぼ無意識で実行された【因子観測装置】による観測結果が、彼女が発動しているスキルの効果を表示しています。
〇プロセルピナの特殊スキル
『残酷なる平和の使者』
自身を認識したあらゆる『知性体』に対し、自身の殺意とそれに基づく行動を認識させない。
単純にして、凶悪極まりない能力と言えるでしょう。目の前で自分に向かって振り下ろされるナイフを前にしても、それが『殺傷行為』であると認識できないのですから、防ぐ方法など皆無です。
『殺す』という目的を確実に達成することのみに特化したその力は、おぞましいと呼ぶしかありません。
「死ね」
そう言って、上空から弓矢を解き放つ『プロセルピナ』。
光の軌跡を描きながら飛ぶ銀の矢に、どんな力が秘められているかはわかりませんが、仮にも絶禍級の『愚者』が放つ攻撃です。まともに受けてただで済むはずがありません。
「マ、マスター……」
それでもわたしには、その攻撃を妨害することができません。それが『殺意』を伴う危険なものであることについて頭では理解していても、『心』が理解できないのです。
攻撃を受けたマスターも、それは同じなのでしょうか。自分の心臓めがけて突き進む矢をぼんやりと見つめています。
しかし、その直後のこと。いまにも自分の胸に突き刺さろうかという銀の矢を、彼はいきなり鷲掴みにしたのです。
「馬鹿な! なぜ防げる?」
赤い瞳を大きく見開き、驚愕の声を上げるプロセルピナ。
「すごい! 妖精だ! これこそまさに、ファンタジーじゃないか!」
なぜか嬉しそうにガッツポーズを決めながら、ついでのように掴んでいた銀の矢をあっさりと握りつぶすマスター。
「忌むべき世界の『異物』めが! だが、プロセルピナの力はこんなものではない!」
「うーん。せっかくの妖精さんだし、もっと近くで見たいなあ」
声高らかに叫ぶ彼女をまるで意にも介さず、マスターは意地の悪そうな笑みを浮かべ、右腕を頭上に掲げました。その手には、『マルチレンジ・ナイフ』が握られています。
「せっかくだし、降りてきてくれないかな? 《レーザー》」
マスターはそう言うと、『マルチレンジ・ナイフ』のレーザー光線を発射します。
しかし、ナイフの刀身から発せられた不可視の光線は、敵に直撃するには至りません。
「あれ? 消えた?」
一瞬早く、妖精騎士と『惨禍の翼竜』の姿は、その宙域から消失してしまったのです。
「マスター! 後ろです!」
空間転移。少なくともわたしの【因子観測装置】で確認できた現象は、そうとしか呼べないものです。突如として彼の後方に出現した妖精騎士は、いつの間にか握っていた『銀の槍』をマスターの背中めがけて突き出しました。
「おっと危ない」
しかし、その気配をとらえたマスターは、身体をひねるようにして振り返りながら、左腕に着けた盾を掲げます。
空気を切り裂く『銀の槍』と虹色に輝く『オリハルコンの盾』。それが接触した瞬間、激しい火花がそこから飛び散り、プロセルピナは無念の声とともに、大きく後方へと跳躍しました。
「おのれ! 今のを防ぐとは!」
一方、彼女が騎乗していた『惨禍の翼竜』はと言えば、わたしたちの後方に転移していたらしく、こちらに向けて口から猛烈な火炎を吐きかけてきました。
しかし、わたしはそれを無視します。なぜなら、わたしの隣で、すでにメルティが『ヒヒイロカネ』の変化魔法を展開しているのが感知できたからです。
「火遊びなんて、いけない子ね」
小さな子供に言い聞かせるような言葉とともに展開された『ヒヒイロカネ』。真っ赤な輝きを放つ遮蔽幕は、飛竜が放つ灼熱の炎をあっさりと飲み込み、かき消してしまいました。
そのままメルティは、足場となっている重力場から勢いよく飛び出し、今にも第二射を放とうとしていた飛竜の首に飛びついていきました。わたしはそれを横目で確認しつつ、小さくため息をついてしまいます。
彼女は彼女で、どうしてあんなに無防備に、敵の身体にしがみつくような真似ができるのでしょうか。
「まったく、せっかくこの世界ではじめて『妖精』さんに会えたっていうのに、随分なご挨拶じゃないか」
距離を置いて向かい合うプロセルピナに、人懐こく笑いかけるマスター。彼はオリハルコンでコーティングした虹色の『マルチレンジ・ナイフ』を長剣サイズに変化させ、杖のように地面に突き刺しています。
「……異物め。『マザー』のため、この世界のため、貴様はここで死ね」
あどけない少女の顔を憎々しげに歪め、銀槍の切っ先をマスターに突きつけるプロセルピナ。美麗な装飾の施された鎧兜に身を包み、半透明の四枚羽根と長い黒髪を風になびかせた彼女の姿は、神話の世界に登場する美しき戦乙女のようです。
「世界のため……か。すごいね。どうやら君は、本気みたいだ。まるで、そこに『心があるかのよう』だよ。君たちの言う『マザー』って人は、『法王』みたいに自分の手先を人形にしたりはしないんだね」
かつて同じ言葉を口にしたミズキ女史のことを思い出したのでしょうか。マスターはそんな言葉を口にしながら、感心したようにプロセルピナを見つめています。
「貴様、どうやって、プロセルピナの特異能力を無効化した?」
「え? なんのこと?」
案の定、わかっていないマスターのために、ここでわたしは彼女の【スキル】について、高速思考伝達で伝えました。しかし、彼はなおも不思議そうに首を傾げます。
「ああ、なるほどね。でも、わからないなあ。殺意と、それに伴う行為を認識できなくする? でも、そんなものを認識する必要がどこにあるんだい?」
「……愚かなことを。攻撃を認識せずに攻撃を防ぐことなど、できはしない」
プロセルピナは、苛立たしげな顔でマスターに問いかけます。先ほどまでは問答無用に攻撃を仕掛けていた彼女も、得体の知れない力を持った相手とこのまま戦い続ける危険性を認識したのでしょう。会話によって、こちらの情報を引き出すことにしたようです。
「誰だって、自分の身に危険が迫れば防ぐでしょ?」
「だが、その危険を、殺意を、殺傷行動を認識できなければ……」
「僕はね。誰かが自分を殺そうとしている状況には、『慣れっこ』なんだよ」
相手の言葉をさえぎるように、マスターはそう言いました。
「なんだと?」
「殺意なんて、わざわざ認識する必要はない。誰かの意思もその行為も、偶発事故も自然現象も、僕にとっては大差ない。ただ、僕の身に起ころうとしている出来事が、僕にとって危険かどうか。それだけわかれば十分なんだよ」
幼いころから、実の母親に命を狙われ続けたクルス・キョウヤという少年。彼に備わった最初の特殊能力が『殺意を反射する鏡』だったのも、日常的な殺意とともに生きてきた彼の特性ゆえのことだったのかもしれません。
「ならば貴様は……他者の『心』と『行為』を切り離して見ているのか? ならば貴様の眼には、この世のすべてが『人形劇』のように見えているというのか? だとしたら、なんとおぞましいことだ!」
見た目にも明らかなほどに顔を青ざめさせ、吐き捨てるように叫ぶプロセルピナ。
「……そうだね。おぞましい限りだよね」
悲しげに目を伏せるマスター。プロセルピナは、もちろん、マスターの過去のことなど知りません。しかし、彼女のこの言葉は、彼の抱える最も根源的な問題を言い当ててしまっていました。
「マスター……」
彼にかけるべき言葉が見つからない。少し前までのわたしなら、そう考えてしまったかもしれません。でも、今は違います。今のわたしには、彼にかけてあげるべき言葉など、それこそありあまるほどあるのです。
「マスター! あなたは、おぞましくなどありません! あなたはわたしにとって、唯一無二の『人』なんです。『心』があり! だからこそ、苦悩もする! わたしはそんなあなたのことを! 誰よりもお傍で見続けてきたのですから! 《テレポーテーション》を展開!」
鋭く叫んだわたしの身体は、次の瞬間、マスターのすぐ隣に転移していました。
「なに? 空間転移だと? 今、この場所で?」
「ええ、そうですよ。プロセルピナさん。あなたが使う力とは違う。【亜空間】を利用した、真の意味での空間転移。見たところ、あなたのそれは『法学』の魔法使いのものによく似ていますが、所詮は、この世界そのものの法則を歪めて使う『距離のごまかし』にすぎない」
わたしは右手の先に具現化した『真紅の円錐』を彼女に向かって突きつけながら、挑むように言いました。
「……それが『マザー』を超えた技術か。なるほど確かに、『お前ならば』と、同志たちが考えるのも頷ける。しかし、それでも、狂った鏡は『世界』を狂わすのだ。断じて『マザー』に会わせるわけにはいかない。たとえ同胞の死をもてあそぶことになろうとも! 『狂える鏡』は、たった今、このプロセルピナが打ち砕く!」
彼女は強い決意に満ちた声で叫ぶと、片足を後ろに引くようにして、『銀の槍』を低く構えました。それと同時、わたしは彼女の【スキル】の発動を感知します。
「そんな……! さがってください、マスター!」
彼女が新たに発動した【スキル】。それは極めて危険なものでした。
〇プロセルピナの特殊スキル
『死を嘆く冥府の女王』
殺害対象となる『知性体』を認識した上で、任意に発動可能。半径10km以内でその日のうちに死んだ命の生命力を自身の攻撃力に転嫁する。この効果は対象の殺害、自身の気絶または死亡によってのみ解除される。
今や周囲に迫るほとんどの『愚者』たちは、マスターの生み出した『冷凍人形』によって撃破されています。それらの強力な『愚者』に加え、おそらくはわたしが焼き尽くしたであろう草原の草花などもまた、この【スキル】の対象になるはずなのです。
そう考えれば、この【スキル】によってプロセルピナが得る『攻撃力』は、想像もつかないものになるはずでした。こうした状況では、それこそ、反則にもほどがあると言いたくなるような【スキル】です。
「なるほどね。でも、大丈夫だよ。ヒイロ。そういう能力が相手なら、対処する方法はある」
しかし、わたしの説明を聞いたマスターは一つ頷くと、撤退を提案するわたしを制し、前へ一歩踏み出しました。
「しかし、マスター! 彼女に集まっているエネルギーは……先ほどのわたしの《ヴォルカノン・ブレイズ》の比ではありません!」
プロセルピナの全身は今や、黄金の輝きで鮮やかに彩られています。黒かった髪は金に染まり、鎧を縁どる銀の装飾は金色に輝き、彼女の身体を循環するエネルギーのすさまじさを表しているようです。
そしてそれらは、最終的に彼女が構える『銀の槍』の穂先に集中し、今にもあふれださんばかりにまばゆい輝きとなって視界を染め上げていました。
「今度こそ、死ね」
短い言葉とともに、繰り出される槍の穂先から放たれる光の奔流。それはまっすぐ、怒涛の如くマスターめがけて押し寄せてきました。わたしはとっさに防御用の【式】を組み上げようとしましたが、プロセルピナの『残酷なる平和の使者』の効力のためか、うまくいきません。
「マスター!」
叫ぶわたしの目の前で、片手を前に突き出すマスター。続く大爆発によって生じた衝撃波は、周囲のすべてを吹き飛ばしました。荒れ狂うエネルギーの乱流の中、わたしは自身の身体をどうにか上空に逃すのが精一杯でした。
「そ、そんな……マスター!」
どうにか体勢を立て直し、わたしが見下ろした視線の先にあったもの。それは、大地を大きく陥没させるクレーターだったのです。
次回「第169話 無罪の魔法」




