第155話 暗黒の海
「ヒイロ、調子はどうだい?」
「はい。マスター。おかげさまで《知識の天秤》の影響は、ほとんどなくなったようです」
周囲の風を操り、敵の大軍を避けるように浮遊島の間を滑空しながら、わたしはマスターに言葉を返します。
「だとすると、やっぱり重力制御ができない理由は別のところにありそうだね」
こんな場合にも関わらず、マスターは風を切って空を飛ぶ感覚に、気持ちよさそうに目を細めています。
「はい。それについては、ある程度、推測ができています」
「そうなの? さすがはヒイロだね。で、何が原因なんだい?」
にこやかに笑いかけてくるマスター。その目には、わたしに対する全幅の信頼が見てとれます。わたしは自分の頬が緩みそうになるのをこらえながら、できる限り淡々と語りました。
「……この都市に浮かぶ島には、それぞれその中心に【因子結晶】が内包されています。恐らくあれは、この都市の重力制御を行うためのものです。……いえ、正確にはその結果として生まれたもの、と言った方が良いのかもしれません。わたしの世界の技術とは異なる手段で物理法則に強引に干渉し、結果として純粋な【因子】の結晶を島の内側に封じ込めた。……それがわたしがこの都市で行う重力制御にも、大きな影響を及ぼしているのでしょう」
先ほどの『ミズキ女史』がやってのけた空間転移。あれを見て確信しました。
どうやってそんな現象を引き起こしたかはわかりませんでしたが、生じた現象自体は、『2地点間の分子の等価交換』です。そこには明らかにわたしの知る【因子】の気配を感じました。
すなわち、『法学』の魔法は『魔力』を媒介としながらも、『魔力』そのもので世界を直接変異させるのではなく、『魔力』で【因子】に干渉することで、望む事象を引き起こすものなのです。
「直接ではなく、間接に……って、そう聞くと、『女神』の魔法には見劣りする感じもするね」
「そうかもしれません。……いえ、『魔法』として捉えるならば、きっとそうでしょう。」
しかし、世界を認識し、世界を理解し、世界に『正しく干渉』しようとするならば、これ以上の方法はありません。精神に強く影響を受ける力を用いながら、物理法則を支配する【因子】そのものに干渉できるならば、『意のまま』に、かつ『変質させる』ことなく、世界を支配することができるのですから。
「でも、不思議だよね。もし、彼女の言うとおり、そこに棲む知性体が【世界】を形作っているなら、そもそも複数の世界に共通する物理法則とか【因子】が存在する理由は何なんだろうね?」
「そうですね。……ところでマスター。それは彼女を見つけ出してから聞けばよいとして、肝心の居場所の目星がつきそうもありません」
「センサーとかで見ても、わからない?」
「はい。距離が離れすぎているのか、何らかの方法で感知を妨害されているのかはわかりませんが……。それに、浮き島を転移で移動し続けられれば、仮に見つけても捕捉し続けることは困難かと」
本来ならば、その『困難に対する解決策』まで提示するのが【案内人】たるわたしの役目ではあるはずですが、今回ばかりはどうしようもありません。
「うん。それだけ情報がわかれば十分だよ。彼女の『狙い』も見えてきた。天の岩戸じゃないけれど……ひきこもりを相手にするには、自分から出てきたくなるように仕向ければいいんだよ」
「何をするおつもりですか?」
「彼女はほら、世界を護りたいわけだろう? だったら、ちょっと脅かしてやればいいのさ」
「【スキル】を使われるおつもりですか? しかし、すべてではないにしても、無効化される恐れはありますが……」
「そうだね。だったら……スキルじゃない方法にしようかな」
言いながら、手にした『マルチレンジ・ナイフ』で素振りのような仕草をして見せるマスター。
「……はあ。本当にたちの悪い方ですね」
そう言いながらも、わたしはマスターの意図するところを察知し、《ワームホール》を展開します。
「さてそれじゃあ……島の一つや二つ、犠牲になっても仕方がないよね?」
そう言ってマスターは、こともあろうに気流制御中のわたしの耳元に顔を寄せると、小さく息を吹きかけたのです。
「ひゃあん!?」
当然、わたしの気流制御は大きく乱れ、わたしたちは風に踊る木の葉のように飛び回る羽目になってしまいました。気流に関しては、一度制御が乱れると体勢を立て直すのが容易ではありません。だからこそ、普段は飛行手段としては重力制御を使っていたのですが……
「ちょ、ちょっと、マスター!」
「あははは! これぐらいの方が彼女も予想がつかなくていいんじゃないかと思ってね!」
荒れ狂う乱気流の中、マスターは実に楽しそうに笑っています。
「つ、墜落してしまいますよ!」
「大丈夫!」
気づいたときには、目の前に巨大な浮き島のひとつが迫っていました。
しかし、マスターはあわてず騒がず【ワームホール】から禍々しい暗黒の剣を引き抜くと、今にも激突しそうな目の前の大地めがけて斬りつけました。
「きゃあ!」
ここで思わず悲鳴を上げたわたしのことを、誰も責めることはできないはずです。
何と言っても、歪な黒い刀身が大地に触れるや否や、ほぼ一瞬で巨大な島全体が眼前一杯に拡がる『暗黒の海』へと姿を変えてしまったのですから。そして当然、勢いの止まらないわたしたちは、すべてを『不完全』に造り変える黒い霞の真っただ中に、為す術もなく突入する羽目になってしまいました。
わたしは展開した耐衝撃吸収用の【因子演算式】を維持しながら、マスターの身体にしがみつきます。しかし、これは恐怖ゆえの行動ではなく、少しでもマスターの周囲に迫る脅威を排除するため、彼の肉体にあらゆる防御用・回復用の【式】を展開させんがためのものでした。
しかし、マスターはそんなわたしを抱き留めながら、安心させるように語り掛けてきてくれました。
「大丈夫って言ったでしょ? 『存在しない登場人物』を僕と僕が『身に着けているモノ』に作用させているんだ。少なくとも僕らには、この黒い海も影響を及ぼさないよ」
「で、でも、マスター。そのスキルは対象の法則を『理解』していなければ使えないはずのものじゃ……」
いくらマスターが【ダークマター】に耐性を有しているとはいっても、【ダークマター】そのものを理解するとなれば話は別です。
「世界の法則に関係するものなら、『今の僕』は既に大抵のことを『理解』しているさ。なにせあの塔には、腐るほど『法術器』があったんだから」
「……なるほど、『他人の努力は蜜の味』ですか。まさか、【ダークマター】に関する知識まであるだなんて……」
「ああそれなら……あの《法王の筆》とやらを触ったら手に入ったよ」
「ええ!?」
いつの間に……と言いたいところですが、見えない腕を長く伸ばすスキル『動かぬ魔王の長い腕』と自身の魔力の感知を妨害するスキル『わがままな女神の夢』があれば、彼女が《法王の筆》を使ったあの時にでも、できてしまうのかもしれません。
恐らくは空間転移直後に彼女が《法王の筆》を振りかざしていた時のことなのでしょうが……、能力的にできるからと言って、あれだけの異常な現象が起きた直後にそんな真似をしようと思いつくこと自体、尋常な精神では不可能でしょう。
「いやあ、びっくりしたよ。あの『法術器』。入ってくる知識量が半端じゃなかったしね」
「……なるほど、それであの時、ぼんやりとしてらっしゃったのですね」
「そういうこと。さて、それじゃあ次の島、行ってみようか!」
わたしたちは会話を続けながら、つい今しがた生み出した暗黒の海を抜け、再びその上空へと到達しました。眼下に広がる黒い靄は、不定形に形を変えながら、わずかずつではありますが、周囲に広がり始めているようです。
依然、ドラグーン王国を出るときに見た『黒い霧』は、知性体以外には『感染』していなかったはずですが、どうやらこの『空中都市』では勝手が違うようです。恐らく、島そのものを含めた多くの構築物が『法術器』であることが原因であると思われます。
手の施しようのない『不完全の病』は、ゆっくりとこの都市全体に広がるでしょう。さすがに時間はかかるでしょうが、このまま放置すれば、この都市は間違いなく全滅です。
しかし……わたしには疑問が残ります。恐らく、あの島にも少なからぬ住人たちがいたでしょう。マスターはそれをまるで遊び半分だと言わんばかりに、あっさりと『殺して』しまいました。彼には彼なりの『命の基準』があるのではないかと考えていたわたしにとって、これはあまりにも納得できない行動です。
「うーん、次はあの島がいいかな?」
しかし、マスターはそんなわたしの胸中も知らず、気楽な調子で手にした『パンデミック・ブレード』を、さらに巨大な浮き島に突きつけました。
すると、その時でした。
「──その辺でやめてもらおうか。憎むべき【世界の毒】めが!」
大音声。その声は、わたしたちのすぐ目の前から聞こえてきました。
目を凝らすまでもないほどに『何もなかった』はずの空中には、いつの間にか白衣をまとった黒髪の女性が立っています。
「なるほど……貴女の庭である以上、貴女にとっては重力制御もお手の物というわけですか」
「……よりにもよって、まさか本当に【ダークマター】などという忌々しいモノを持ち出すとは、君たちは気でも狂っているのか? あれだけの質量を封じるのに、どれだけの犠牲を払わねばならないと思っている!」
わたしの言葉には答えず、『彼女』は《法王の筆》を手にしたまま、鋭い視線でこちらを睨みつけてきています。
「うんうん。やっと君にも、『心らしきもの』が見えてきたじゃないか。怒ってるのかな? それとも……『恐れて』いるのかい?」
挑発するように笑うマスターは、手にした『パンデミック・ブレード』をゆらゆらと揺らし、『ミズキ女史』の顔に差し向けました。
すると『ミズキ女史』は顔を歪め、両腕を左右に振り切るようにして叫びます。
「……ああ、恐れているとも。愚か者どもが手にした玩具の怖さも知らず、無謀にも振りかざさんとする……その『無知』こそが何より恐ろしい!」
「そうかい? 僕は君の言う『知は力なり』って言葉は、案外本当のことだと思ってるぜ? 何と言っても、僕自身、新たな『知識』を得たおかげで、君が『この都市ごと僕らをまとめて吹き飛ばす試み』を阻止することができたんだからね」
「え?」
事もなげに言って肩をすくめるマスターに、わたしは状況も忘れて問いかけるような視線を向けてしまいました。
「……気づいていたのか。抜け目のない男だな、君は」
わずかに毒気を抜かれたような調子で、『ミズキ女史』が呟きを返します。
「そりゃあ、そうさ。世界を滅ぼす僕を滅ぼすための算段だと言って、この都市の住人を皆殺しにさせようとした君が、この期に及んで都市の破壊をためらうはずはない。重力制御だが核爆発だか、そういう大規模な力を君が使うことができるってことも、僕は『知って』いるわけだしね」
そう言ってマスターは、眼下に広がる暗黒の海に視線を向けました。
「あれだけの『不完全の病』を爆発なんかで散らした日には、世界全体が大変なことになるだろうね。『魔法』による爆発であれば、『知性体』に感染する『病』の影響を受けないとも限らないし。都市まるごとを犠牲にできてしまう君でも、さすがに世界を犠牲にはできないんじゃないかと思ってさ」
「……そして君は、自身と仲間たちのために、その島の住人を犠牲にしたというわけか」
さきほどまでの激昂した様子とは打って変わって、淡々と、分析するように、値踏みするようにこちらを見つめる『ミズキ女史』。
「そうだよ。だって……それって『人』として、当然のことでしょう?」
「ククク! ハハハハハ! それを『人として当然だ』と言ってしまえる貴様は……やはり、人にあらざるモノであり、異常者でしかないのだよ。『心がない』のはむしろ、貴様の方だろうさ」
『ミズキ女史』は嬉々とした笑みを浮かべながらも、嫌悪感に満ちた言葉を吐き捨てました。
「それこそ! 都市をまるごと犠牲にしようとした貴女に、そのようなことを言われる筋合いはありません!」
我知らず、わたしは大声で叫んでいました。
彼女の馬鹿にしたような態度に──いえ、何よりも『心』を求めるマスターに対する彼女の暴言そのものに、わたしの中で何かの『感情』が激しく沸騰しているようでした。
「クククク! 君がそこまで声を荒げるとはね。今のわたしの言葉は、それほどまでに彼の『痛いところ』を突いたと見える」
〈マスター。彼女の言うことなど、気にしないでください。わ、わたしは、マスターがわたしたちのために島の住人を犠牲にしたことを……『心がない』だなんて、絶対に思いませんから!〉
なおも意地悪く笑う『ミズキ女史』を睨みつけながら、わたしはマスターに『早口は三億の得』による高速思考伝達で語りかけます。
するとなぜか、マスターからは戸惑ったような返事が返ってきました。
〈う、うん、ありがとう、ヒイロ。でも、その……言いづらいんだけど……〉
〈なんでしょう?〉
〈さっきのはハッタリをかましただけで……あの島は後で元に戻すつもりだったんだ〉
〈え?〉
思いもしなかったマスターの言葉に、わたしは高速思考伝達中にもかかわらず絶句してしまいました。
〈ほら、もしかしたらあの島にだって、メイドさんとか眼鏡っ娘とかがいたかもしれないでしょ? もしそうなら、『人類の宝』とも言うべき彼女たちを、あの状態のままにするだなんて、僕にはできないよ〉
〈……その言いぐさには釈然としませんが、で、でも、【ダークマター】ですよ? 元に戻す方法なんて……〉
〈うん。前は無理だったけど、今ならアレが何なのか、『理解』できるしね。変化の内容さえ理解できれば、《グラウンド・ゼロ》あたりで何とかなると思うよ〉
《グラウンド・ゼロ》──メルティの変化魔法《ヴァリアント》を反転複写したマスターの『還元魔法』のひとつであり、ある地点で引き起こされた『最も不自然な変化』を元に戻す魔法です。
〈そんな、それじゃあ……わたしはとんだ勘違いを……〉
〈いやいや、ヒイロが僕を思って怒ってくれたのはすごく嬉しかったよ。でもまあ、このことはまだ、彼女には秘密にしておこうか? その方が都合が良さそうだし〉
高速思考伝達を続けながら、思わず赤面しかけたわたしをなだめるように語り掛けて来るマスター。しかし、そうしている間も彼の視線は、油断なく『ミズキ女史』に向けられていました。
「どうする? ……まだ、続けるのかい?」
「くくく! 馬鹿なことを。君の仲間たちをああして封じることができている時点で、わたしには他にも選択肢はあるのだよ。例えば君だけを……『対消滅』させる手段さえ、わたしにはある」
「ふうん。ならなんで、最初にそれを使わなかったんだい?」
「……お前には関係のない話だ。クルス・キョウヤ! 世界を脅かす『反存在』よ! 世界のため、その存在ごと消滅するがいい!」
『ミズキ女史』は高らかに声を上げると、手にした《法王の筆》で複雑な紋様を描き出しました。
しかし、彼女の言う『反存在』という言葉。
今のわたしにしてみれば、それはマスターを表す言葉としては、最も似つかわしくないものだとさえ思えるものでした。
次回「第156話 衝撃的な事実」




