第153話 知識の特異点
「サビシイ、サビシイ、サビシイ、サビシイ……」
聞く者の魂を震わせるような声。
「タリナイ、タリナイ、タリナイ、タリナイ……」
不完全なものを完全なものにしようとする意志。
メルティとリズさんを包む『泡』の上に浮かび、おぼろげな姿で両腕を広げる『女神』からは、濃密な『魔力』とともに気も狂わんばかりの『意志』の力が放たれています。それはまさに、『想い』ひとつで世界を変質させかねない圧倒的な『知性』でした。
これが本体ではなく、ただの『亡霊』であるとは到底信じられません。
まともに向き合うことなど無謀としか言いようがない相手に対し、ベアトリーチェは手にした《天秤》を掲げ、そこから放たれる黄金の砂がどす黒く変色していくのを見つめていました。
「……女神よ。わらわは貴女を断罪しない。罪を量り、苦痛を与え、されど……貴女の罪を決めつけはしない。拷問とは……『自白』の手段なのだから……」
帯電する空気の中、強力な『魔法』を行使し続ける負荷に必死に耐え、語り掛ける聖女の声。彼女の瞳には、信仰の対象に向けるものとは異なる、深い憐れみが満ちています。
「ゆえに女神よ。どんなに苦しくとも、貴女は誰かに罰されるべきではない。貴女は……貴女自身によってこそ、その罪の罰を与えられねばならぬのじゃ……」
その声が響くたびに、『女神』はその身を大きく揺らし、「サビシイ、タリナイ」と声なき声を上げ続けていました。まるで、その身を縛る黒い砂よりも、その身を責めたてる拷問具の数々よりも、聖女の言葉こそが『女神』を苦しめているかのようです。
「……ふふふ。当然と言えば当然だが、世界法則の転換を促す【特異点】と言えど、『女神』自身を排除することなど、そう簡単にはできまい。わたしがわたしの『目的』を果たすには、十分な時間がある」
その様子を横目で見ながら、ほくそ笑む『ミズキ女史』。
「目的……ね。今まで君はそれをはぐらかしてばかりだったけど、ようやく話してもらえるのかな? 君の目的……っていうか正体って奴をさ」
マスターは依然としてエレンシア嬢の肩を抱きながら、『ミズキ女史』に鋭い視線を向けていました。
「そうだね。ここに至っては、もはや隠す必要もない。かつてのわたしは、【知識の特異点】としてこの世に生を受けた一人の人間──ミザリィ・クロムウェルというただの『法術士』だった。そしてわたしは、自身の【特異点】としての性質を『自覚』することなく『理解』し、己の存在のさらなる昇華を望み、『知識の欠片』を飲み込んだ……」
「飲み込んだ? ではまさか……この都市の『賢者の石』は貴女のお腹の中ですの?」
エレンシア嬢が自分のお腹を押さえるようにしながら、目を丸くして言いました。
「あはは。あくまで比喩だよ。『究極の叡智』は必ずしも『石』の形をとっているわけではない。知識そのものに宿る力──それこそが、この世界における『法王』なのだから」
「法王?」
「『女神』のような『意志による世界干渉』とは真逆のアプローチ──すなわち『知識による世界昇華』によって世界に匹敵する存在となったモノ。だからこそ、世界の矛盾を正すべき【特異点】たるわたしですら、己のうちにソレを内包することができた。今のわたしに、世界で『知る』ことのできない事象などない。ゆえにキョウヤ君。わたしは今や、君の正体さえ『理解』できる」
「……マスターの、正体?」
「おや、ヒイロ君。知りたいかい?」
「……その手には乗りません」
今のわたしは、彼女の言う《知識の天秤》の効力のせいか、著しく能力が制限されているようなのです。
「ふふふ。わたしの『目的』は……『世界にとっての脅威の排除』に他ならない。……だから、キョウヤ君。君のような存在に生きていられては迷惑なのだよ。君はあまりにも危険すぎる」
『彼女』は言いながら、それまでの笑みを消し、宣戦を布告するかのごとくマスターにその指を突きつけました。
「なんだ、そんなことか。僕に生きていられちゃ迷惑だなんて、随分と当たり前のことを言うんだね。それにしては、なんだかえらく回りくどくないかい?」
「『反存在』を滅ぼす算段を付けるには、必要な『手順』だ。この世界で君の存在を『鏡映し』にしてしまう彼女たちを極力排除し、君をこの世界に招き入れた因子である『創られた知性体』の能力を封じる。それはわたしが君を『解析』するうえで、邪魔な『ノイズ』を除去する意味合いがあることなのだからね」
「ふうん。でも、完全とはいかなかった。ほら、僕がこうしてエレンを確保しているからね」
引き続き、エレンシア嬢の肩をしっかりと抱いたマスターは、これ見よがしに彼女の身体を引き寄せてみせました。
うう、羨ましい……ではなくて、こんな時に何をしているのでしょうか、この人は。
「彼女一人ぐらいなら、わたしの『解析』の障害にはなりえない。現にわたしは既にして、君という存在をすっかり『理解』できてしまったのだからね」
「……そうかい。まあ、その話は置いておこうか。それより、そこまでして、どうして僕を排除したいんだい?」
「決まっている。『世界を護る』ためだ。君の性質は、他の場所ならいざ知らず、特に『この世界』においては『最悪』だと言っていい。危険極まりない。……だが、あらゆる存在を写し取り、逆さまに映し出すのが君だと言うのならば……君一人で無限の世界そのものに匹敵すると言うのならば、これを排除できるのは『世界のすべてを知るわたし』を置いて他にはいない」
誇らしげに胸を張り、『世界を護る』と口にする『彼女』。
しかし、そんな『彼女』の姿は……
「ふーん……なんだか、その『言葉』には、まるで『心が無いかのよう』だね」
ゆっくりと呟くマスター。すると、その声音に何を感じたのか、『彼女』は一瞬だけ、たじろぐような素振りを見せました。しかし、直後には再び余裕の笑みを浮かべると、そのまま言葉を続けます。
「何をしようと無駄だよ。すでに君の『解析』は終わった。どれだけの『反作用』を君が用いようとも、わたしはそれが発動するより早く【世界】を作用させて『対消滅』する術を有している」
反存在。反作用。世界との対消滅。『彼女』の語る言葉は、マスターがさながら物質に対する反物質のごとく、世界のあらゆるものと真逆の性質を持ったものであり、世界そのものとただ一人で相対する『鏡』であると示唆しているようです。
「世界を定義する水鏡──それを『知性』と呼ぶ。もしそれが本当ならば、だからこそマスターのスキルは、『知性体』や『世界そのもの』に作用するものが多い──というわけですか」
マスターが……世界を映す鏡? でも、それでは……
「ふふふ。ようやく『理解』したかね、ヒイロ君。まあ、安心したまえ。わたしは探求心の強い君のような存在は好むところだ。この『反存在』を抹消し尽した後、君はわたしの助手にしてあげよう。きっと楽しいぞ? 世界のすべてを余すところなく『知る』ことができるというのは」
勝ち誇ったような口調で語る『彼女』は、これまでの言動からして、根拠のない自信など持たないタイプであるはずです。つまり、『彼女』には本当に『反存在』であるマスターを封じ、これを抹消する方法を有していると考えているのでしょう。
しかし……わたしはこのとき、急に目の前が開けたような感覚と共に、すべてを『理解』していました。
「ふむ。だんまりかな? だが、君は目を覚ますべきだ。文字通り世界を滅ぼしかねない危険因子と行動を共にするなど、正気の沙汰ではないぞ?」
「……ふふふ。くくく!」
おかしい。なんておかしいのでしょう。
「あは! あはははは!」
「む? なんだ? 気でも触れたかい?」
「ヒイロ?」
周囲から不審の目を向けられることも構わず、わたしはこみあげてくる笑いに身を任せていました。
「ああ、おかしい。……ねえ、ミズキさん。貴女は大きな『間違い』を犯していますよ。それも、二つもね」
「……へえ、それはそれは。よければ、教えてくれるかな?」
続きを促す彼女の瞳には、圧倒的な自信とともに、こちらの言葉を面白がるような光が宿っています。
「……ひとつは、わたしのことです。貴女はわたしを『創られた知性体』と言いましたが、わたしは『それだけ』ではないのです」
「なんだと?」
「ふふふ! だってわたしは……己を『創った親』を殺し、世界さえも滅ぼした『知性体』なのですから!」
己の罪に胸を張り、声を高らかに張り上げて告白の言葉を口にする。罪悪感しかなかったわたしの心には、新たな想いが生まれていました。
「……だとすれば、君はあの『女神』と同じく、忌むべき、唾棄すべき存在だと言うことになるね」
目を細め、低い声音でそう言った『彼女』は、どうやらこちらの真意を測りかねているようです。
「いいえ。そうではありません。だからこそわたしは、マスターの隣に立つに相応しい存在なのです。『一度この手で世界を滅ぼした存在』だからこそ、彼のような存在が【異世界】を『安全』に渡る手助けができようというものでしょう?」
「……それこそ正気を疑う台詞だよ。三つの世界を渡り歩き、そのたびにその世界の『知性』をその身に取り込み、それらと共生してきた『女神』などより、なお酷い。病原体どころか、それでは君たちはもはや、『毒』そのものではないか」
「『毒』ですか。面白いことをおっしゃいますね。ですが、何に例えられようと、『知ったことではない』ですね。わたしはいつだって……わたしの『存在理由』を満たすのみです。貴女の目的が我がマスターを害することなら、わたしの目的は──彼を護り、彼を導くことなのです」
わたしはなおも胸を張って宣言すると、十分な溜めをつくりつつ、もったいぶるように言葉を続けました。
「……さて、もうひとつの『間違い』ですが、これは決定的にして致命的なものです」
「……もはや君の言葉は、くだらぬ戯言にしか聞こえないな」
『彼女』は呆れたように鼻を鳴らします。
「まあ、そう言わず聞いてください」
わたしはここで、『彼女』から視線を外し、マスターに目を向けました。
つられるようにして、マスターに視線を向ける『ミズキ女史』
「……な、なんだ、これは?」
己の視界に映りこむモノが信じられず、目を見開き、大きく身体をのけぞらせる『彼女』。
「マスターが世界を映す鏡? 冗談ではありません。彼がそのようなものであるはずがありません。『知性』は世界を定義する水鏡なのでしょう? ですが……『鏡』を『鏡』に映しただけでは、ただ『劣化』するばかりではありませんか」
「う、うあ……こ、こんな、こんなモノが……」
一歩、また一歩と、驚愕のうめき声と共に身体を後退させていく『彼女』。その瞳に映るモノは、ウゾウゾとうごめく『黒い蛇』。世界を呪い、世界を憎み、世界を喰らい尽くさんばかりの禍々しい黒蛇の群れ。
「馬鹿な! 馬鹿な、馬鹿な、馬鹿な、馬鹿な! こ、こんな、こんなおぞましい『憎悪』を! こんな積極的な『感情』を、君のような『反存在』が有しているはずがない!」
「それこそ、『知ったようなこと』を言わないでください。まだ、わからないのですか?」
「うるさい! こんなことはありえない! 何かの『間違い』だ! ……うう」
身体を震わせて叫ぶ『彼女』は、その直後、自らの叫んだ言葉の意味に気付き、思わず口元を押さえました。
「……一体、君は何をした?」
吐き気を抑えるように口に手を当てたまま、『彼女』が睨みつけるその先には──美しい少女を抱いたまま、おぞましい笑みを浮かべる狂気の主が立っており、彼と少女を中心とした一帯には、闇の色をした蛇の群れが放射状に拡がっていました。
「……何もしてないよ」
そう答えるマスターの声には、憎悪の気配など微塵もありません。ともすれば狂人じみて見えてしまう笑みでさえ、普段の彼から大きく逸脱するものとは思えませんでした。
そして一方、マスターの腕の中、禍々しい蛇に囲まれながら、純白の空間を維持するその場所には、きょとんとした顔であたりを見回すエレンシア嬢の姿があります。
おぞましくも禍々しい『憎悪』の渦中にありながら、彼女は今もマスターと身体を密着させていることへの照れからか、頬を軽く染めていました。
しかし、その『暗黒』の発生源は、間違いなく二人の足元なのです。
「まさか……他人の『愛情』を反転させたとでも? い、いや違う……その程度のことでこんな……ここまでの『憎悪』が生まれるはずがない」
「憎悪? 残念ながらこの僕は、憎しみで誰かを殺せるほど、『人間ができて』いないんだ」
「意味が分からない。訳が分からない。こんな……世界そのものを激しく憎むような感情を……どうして君が?」
『彼女』は、それまでの余裕を完全に失った顔のまま、力無く首を振っています。
「そう言われてもね……。なんとなく、君の話を聞いていたら、少し気分が悪くなったって言うのはあるけど……」
少し気分が悪くなった──それが、このおぞましくも凄まじい憎悪の元?
依然としてマスターには、底知れない深淵の『闇』があるようです。
「どうやら……貴女にも『知る』ことのできないものがあったようですね?」
「……だ、だが、こんなことに何の意味がある? 確かにこの蛇どもの持つ『憎悪の念』は禍々しいが……ただそれだけだ。『現実世界』に実害を及ぼす力など……」
しかし、『彼女』は、ここまで言いかけて気付いたのでしょう。身体を硬直させて言葉を止め、その視線を『とある方向』に目を向けました。
それまで、周囲の空間を震わせ、静かに、しかし激しい鍔迫り合いを続けていた一つの戦い。その均衡は、今やあっけなく崩壊していました。
何かを恐れるように身体を震わせ、この場から逃れようとのたうち回る『女神の亡霊』。精神生命体たる彼女には、マスターの生み出す『憎悪の蛇』の存在は、それだけで致死的な『猛毒』のごとき作用を及ぼしているようです。
ついに『亡霊』は、その身体に無数の《拷問具》を突き立てられ、その姿を霞ませるように消えていったのでした。
次回「第154話 法王の筆」




