第152話 知は力なり
ぼんやりと浮かぶ女性の姿は、表情さえも確認できないほど曖昧なものでした。しかし、それでもなお、『女神』の圧倒的な存在感は、『議場』の空気を完全に支配しています。
「『真実を告げる御使い』として、わらわはわらわの為すべきことを為そう。その身に苦痛を与え、汝が罪を思い出させてやる!」
ベアトリーチェは、『女神』が放つ異常なまでの圧力にもたじろぐことなく、『錆びたノコギリ』や『車裂きの鎖』、『鉄の処女』などの拷問具を一斉に相手めがけて叩きつけました。
すると意外なことに、それらの『拷問具』は、何の抵抗もなく『女神』の全身に突き刺さりました。そしてさらに、その直後──身悶えるように身体を揺らした『女神』から、身の毛もよだつような凄まじい絶叫が上がりました。
「ルィィィィィィィ!」
言葉にならない、発音すらも困難な叫び声。周囲の器物がミシミシと音を立てて歪んでいくのを目の当たりにしたわたしは、慌ててアンジェリカの眠る寝台や他の皆の周囲に《アンチショック・フィールド》を展開しました。
「フィールドが効かない? いえ、これは……『衝撃波』ではない?」
信じがたい話ですが、女神の放ったモノ。それは例えるなら、『器物』のみを破壊する概念そのものを具現化したような力でした。どうやらそれは、『女神』の身体に刺さっていた無数の《拷問具》を砕くためのものだったらしく、部屋の機材の破壊自体は、単なる余波によるもののようでした。
「……そんな馬鹿な」
わたしは壊れかかったアンジェリカの寝台などを修復しながら、思わずうめき声をあげてしまいました。
叫び声ひとつで最強クラスの『女神の使徒』の魔法を砕き、その余波だけでわたしの展開した《フィールド》でさえ防御不能な破壊をまき散らす。まさに手の付けようのない化け物です。
しかし、当のベアトリーチェは大して気にした様子もありません。
「ふむ。やはり、『罪の重さ』を示した後でなければ、効かないか」
彼女が呟きともに手を一振りすると、たちまちのうちに《拷問具》の破片は消え失せ、代わりに黄金に輝く《女神の天秤》が宙に浮かび上がります。
それに対し、『女神』は静かに両腕を左右へ広げたように見えました。
「……う、嘘でしょう? な、何ですの? この冗談みたいな『魔力』は……」
『女神』の両腕から広がる不可視の波紋。それを真っ先に感じ取ったのは、『泡』に閉じ込められたメルティと未だ睡眠中のアンジェリカを除けば、この場にいる唯一の『王魔』であるエレンシア嬢でした。
彼女の顔は酷く青褪め、その身体は恐怖によるものか、小刻みに震えているようです。
かくいうわたしも、周囲を覆い尽くす濃密な『魔力』の気配に、息が詰まるような感覚に囚われています。
それは、『空気が帯電する気配』とでも言えばいいのでしょうか。物理的な現象は一切生じていないにもかかわらず、『そこ』では確かに何かが弾け、わたしたちの皮膚に刺すような痛みを与えてくるのです。
『女神』はただ、何をするでもなく両腕を広げて『泡』の上に浮かんでいるだけです。にもかかわらず、少し気を抜けば戦意はおろか、抵抗の意思さえ失いかねないほどの威圧感を放てるのですから、あまりにも『格』が違い過ぎるとしか言いようがありません。こんな言い方はしたくありませんが──文字通り、彼女は『神』なのでしょう。
「マ、マスター……」
情けなくもわたしは、マスターにすがるような目を向けてしまいました。どんなに圧倒的な相手であれ、彼ならばきっと何とかしてくれるに違いない。ナビゲーターとしては恥ずべきことではありますが、このときのわたしはきっと、そんな想いを抱いてしまったのでしょう。
ところがマスターは……
「さっきから皆、何を言ってるんだい? 僕には何も見えないけど……」
きょとんとした顔のまま、そう言ったのです。
「え? そ、それこそ冗談ですわよね? キョウヤ様にも、『魔法』が使えるのですし、これだけ濃密で膨大な『魔力』が感知できないはずは……」
驚いて問いかけるエレンシア嬢に対し、マスターはぶんぶんと首を振ります。
「『魔力』……ねえ。正直、僕にはなんとなく使えてるってだけで、それが何なのかについてはよくわかってないんだよね。濃密とか膨大とか言われても、いまいちピンとこないし……」
「な、なんとなくって……」
エレンシア嬢は呆気にとられたように目を丸くしています。
わたしも彼のこの言葉には、さすがに絶句せざるを得ませんでした。
『大きすぎる物差しでは、小さなものは測れない』
もし、今の彼の言葉がその表れなのだとすれば、彼の『魔力』……いいえ、『格』の大きはどれほどのものなのか? そう考えると寒気さえ覚えるほどです。
「それより、皆には『女神』の姿が見えてるんだよね?」
「……マスターには見えていないのですか?」
「うん。全然、ちっともまったく」
不思議そうに首を傾げるマスター。
「まあ、キョウヤ君のような『反存在』には、かえって感知しにくい存在かもしれないな。なぜなら……アレは『女神』そのものではないからね」
「……では、何だと言うのです?」
「知りたいかい?」
「決まっています。知っているというのなら、教えてください」
「くくく! あれはね……この『バベル』に安置された『賢者の石』を媒介に、かろうじて『女神』の存在の一部を投影させた『亡霊』のようなものだ。ここの『石』が『知識の欠片』ではなく、大聖堂に安置されているであろう『意志の欠片』であれば、『亡霊』程度では済まなかったのだろうがね」
にこやかに笑いながら、親切に解説してくれる『ミズキ女史』ですが、一方で彼女は、やはり肝心なことについては、何も話してくれません。
「……なら、ついでに教えてください。そもそも『女神』とは何なのですか? あのように人型をとって現れる以上、ベアトリーチェのいう『精神性が優位に立つ世界』そのものだというわけではないのでしょう?」
「ふふふ。その問いの答えは、『フラクタル・ホルダー』でさえ口外できなかったような『究極の叡智』のひとつだ。それほどまでに『重い知識』を、君は求めるのかね?」
「それがマスターのためになるのなら」
「ヒイロ?」
マスターが問いかけるような声をかけてきましたが、それどころではありません。ここで追及の手を緩めれば、またしても彼女は答えをはぐらかすでしょう。
「くくく! そうかいそうかい。それはいい!」
『ミズキ女史』は嬉しそうな顔で笑いました。
「何がおかしいのです?」
「ヒイロ!」
再び聞こえたマスターの声には、どこか切迫した響きがあるようでしたが、続く『ミズキ女史』の言葉に、この時のわたしの意識は、釘付けとなっていました。
「嬉しいのさ。君のような極めて高度な『知性体』に教えを請われるのは、わたしのような存在にとって、何より嬉しいことだ。だから、その質問には真摯に答えてあげよう」
『ミズキ女史』はそこでいったん言葉を切ると、居住まいを正すようにして真剣な面持ちとなり、ゆっくりと口を開きました。
「『女神』の存在を源流までたどるなら、すなわちそれは、『超巨大知的生命体』ということになる」
「超巨大……知的生命体? まさか……」
わたしが【異世界】を渡り歩いている間にも、そう呼称すべき存在にあったことは何度かあります。しかし、ソレらは巨大すぎるがあまり自我に乏しく、Sランク級のスキルこそ有してはいても『知性』と呼ぶにはギリギリの存在でした。
「自らの進化のために自らを肥大化させ、認識能力を極限まで高めた結果、その『意志』の力で自らが生まれた世界を変質させ、滅ぼしてしまった『知性』。半ば世界そのものと同化しながら、生みの親を滅ぼした罪に狂い、それでもなお、孤独を恐れて水面を漂い続ける『知性』。『王魔』が跳梁していた世界も、『法王』の鎮座していた世界も、ソレに飲まれてソレと同化し、ついに今、『愚者』の徘徊する世界において、ひとつに融合しようとしている」
「世界と同化した『知性』ですって? そんな……だとすれば、ベアトリーチェの考えは、正しくもあり、誤ってもいたと……」
「くくく! 実に重みのある『知識』だろう? なあに、どうせ未完成な【女神の特異点】と不完全な『女神の亡霊』とでは、しばらくの間は膠着状態が続くだろうさ。君がその『知識の重み』を感じる時間は十分にある」
そう言って『ミズキ女史』が指し示した先では、ベアトリーチェが放った《天秤の砂》が『女神』の亡霊の周囲を覆い、その色をドス黒く、ドロドロとしたものに変えているところでした。
「……黒? ヒイロの時と同じ色に見えますけれど……どういうことですの?」
「罪の深さに応じて、色が変わる砂だっけ? 『女神』様が真っ黒だって言うんじゃ、様にならないよね」
「え? きゃ、きゃあ! キョウヤ様? いったい、何を……」
会話の声に気付いて目を向けると、いつの間にかマスターがエレンシア嬢の傍に近づき、その肩を抱き寄せていました。
「何をも何も……この期に及んでエレンのことを抱きしめたくなったから……」
「え? え? キョ、キョウヤさま……?」
「……ってわけじゃないけど、これ以上『人質』を増やされたんじゃ、たまったものじゃないからね」
真っ赤な顔でうつむくエレンシア嬢に軽く笑いかけた後、マスターは涼しげな顔のまま、『ミズキ女史』に目を向けました。
「人質? どういう意味かな?」
「そのままの意味だよ。君は今、メルティとリズさんの二人を人質にして、僕に力を使わせないように仕向けている。ベアトリーチェさんだって、そうだ。君は『膠着状態』って言ったけど、それそのものが彼女の動きを封じることにつながっている」
「……やれやれ、お見通しというわけか。でも、だとすれば酷くないかい? どうして君は、君の【異世界案内人】たるヒイロ君ではなく、この世界の『王魔』であるそちらのお嬢さんをかばっているのかな?」
意地悪そうな笑みを浮かべ、彼女はわたしとマスターの顔を見比べているようです。
マスターは、わたしよりもエレンシア嬢を優先した。彼女はそう言いたいのでしょうが、何を馬鹿なことを……。当然です。
己の造物主をその世界ごと滅ぼしてしまったような創られた『知性体』と、自身を殺そうとした親でさえも愛し、世界に愛され健気に生きるエレンシア嬢とでは、どちらをマスターが護ろうとするかなど、火を見るよりも明らかです。
「くくく! ほら、キョウヤ君。君の相棒が随分と傷ついた顔をしているぞ。何かかけてあげる言葉はないのかな?」
「……ヒイロ」
やめてください。慰めの言葉なんて、聞きたくありません。わたしは思わず、耳を塞ぎたくなりました。しかし、『早口は三億の得』で語り掛けてくる言葉までは、止めようがありません。
〈ヒイロ。よく聞いて。君はもう、彼女の『人質』だ。下手に動いたり、ましてや彼女にこれ以上『教えを請う』ことは絶対にしては駄目だ。いいね?〉
〈え? マスター? それはどういう……〉
〈《知識の天秤》。彼女は最初、僕にあの三人を殺させた時、確かにそんな言葉を口にしていた。この言葉、何かに似ていると思わないかい?〉
〈……《女神の天秤》ですね〉
〈そう。彼女はしきりと話をもったいぶっては、僕らに『教えを請う』ことを強要してきた。あいにく僕には効かなかったみたいだけど……君の様子は少し変だ〉
〈変……ですか?〉
〈うん。物事を並列に処理することが得意なはずの君が、こと今に限っては、『彼女の話しか耳に入らず、彼女の姿しか目に映らない』ってくらいに周囲の状況に意識を向けていなかった〉
〈……確かに、そうかもしれません〉
〈ミズキさんの発言から考えても……さっきの君の質問は『決定的』だったと思う。これから何が起こるかはわからないけど、迂闊な言動はしない方がいい〉
〈はい……。すみません。マスター〉
どこまでも冷静なマスターの分析を聞いて、わたしは感心すると同時に、自身の浅ましさを恥じたい気持ちに駆られてしまいました。
敵の術中にはまっていたことはともかく、エレンシア嬢に対して謂われなき嫉妬をしてしまったことに関しては、まさに穴があったら入りたい思いです。
ところが……
「あ、あの……キョウヤ様? その、かばってくださるのは嬉しいのですが……ずっとこの状態でいないと駄目なんでしょうか?」
しっかりと肩を抱かれたまま顔を赤らめ、おどおどとマスターを見上げるエレンシア嬢に対し、
「うん。あの『泡』みたいなのが他にも現れないとは限らないだろ? 外から手が出せないんじゃ、こうして密着しているしかない。僕としては決して、『エレンって、すごくいい匂いがするなあ』とか、『恥ずかしがって顔を赤くしているところなんて、滅茶苦茶可愛いなあ』とか、そんなことは微塵も思ってないから!」
などと、すごくいい笑顔で、ほざきやがりやがったのです。
エレンシア嬢は陸に揚げられた魚のように口をパクパクさせたまま、何も言うことができずに固まっていますし、今まさに『女神の亡霊』と一進一退の攻防を繰り広げているはずのベアトリーチェでさえ、そのこめかみに青筋が見えているような気がします。
「……わたしには、君が一番怖い顔をしているように見えるけどねえ」
「放っておいてください!」
余計なことを言ってくる『ミズキ女史』に思わず声を荒げるわたし。
「ふむ。その様子では、《知識の天秤》のこともばれてしまったのかな? もっとも、キョウヤ君に効かなかった時点で、隠す気もなくなってはいたのだが」
「《知識の天秤》ね。今までの話からすれば……何かを教える事を代償に、対象を拘束するような効果でもあるのかな?」
「まあ、そんなようなものだね。……でもねえ、キョウヤ君。こんな《天秤》などに頼らずとも、『知識』というものは世界でも至高の『力』を有しているんだよ」
「至高の力?」
「そうさ。知識を餌にあの三人を君に殺させることもできるし、知識を利用して『女神』にメルティを封じさせることもできる。さらには知識を与えることによって『女神の亡霊』を召喚し、聖女との間に膠着状態を造り出すことさえできる。くくく。まさに『知』は力なりだよ!」
『ミズキ女史』の口調は得意げではありましたが、しかしそれは、どちらかと言えば『自慢の我が子を誇らしげに語る親』のようでした。
次回「第153話 知識の特異点」




