第150話 アニマ・ムンディ
椅子に腰かけ足を組み、尊大な表情でこちらを見下ろす白衣の女性。彼女はそれまで掛けていた眼鏡を投げ捨てると、首の後ろで縛った髪を解き、小さく頭を振りました。
「ふー。まったく、窮屈なものは着けなれないからいけないね」
彼女はそう言うと、わたしたちに向かって残る椅子に腰かけるよう、手振りで促してきました。
「うん? まさか、椅子の数が足りないことを気にしているのかな? だったら、『創れば』いい。もう一度じっくり、『物質生成の秘儀』を拝ませもらえるとありがたいんだけどな」
意地悪そうな笑みを浮かべ、彼女はこちらに手を差し伸べてきます。
眼鏡を外し、髪を解いた彼女の姿は、ただそれだけの変化にもかかわらず、まるで別人のように見えました。この世のモノとは思えないほどに気高く美しい女王の風貌を備えながらも、身の毛もよだつほどに不気味でおぞましい存在感を放ち続けるバケモノ。
ここで、息を飲んだまま固まるわたしの肩に、マスターの手が乗せられました。
「……ヒイロ。お願いできるかな?」
「は、はい……《マテリアル・オペレーション》を展開。《オーダー・アレンジメント》を展開。《エレメンタル・チェンジ》を展開。《オブジェクト・クリエイト》を展開」
わたしはマスターに促され、残り3つの椅子の周辺に足りない分の椅子を生成しました。
「ふむふむ。なるほどね。素晴らしい。まったく、ここまで直接的な方法で素粒子を操作する技術なんて、よくもまあ、生み出したものだ」
「……その技術が存在しない世界にいながら、それを知る貴女は何者なのですか? いえ、前にも聞きましたが……貴女は一体、『何』なのですか?」
続いて眠りについたままのアンジェリカを横たえる寝台を生成しながら、わたしは油断なく周囲に異変が起きていないかを観測していました。
しかし、今のところは何の気配もありません。
「そろそろ、もったいぶるのはやめようか。教えると言った以上、わたしは教えよう。まず最初に、わたしの『元』となった存在について言うなら……そちらの『聖女様』に近い性質のものだと言えるだろうね」
「ぬ? わらわに、じゃと? ……お前も『使徒』だと言うのか?」
早々と椅子に腰かけたベアトリーチェは、話の矛先が急に自分に向けられたためか、目を丸くしています。
「ただの『使徒』ではないだろう? 『元』同類としては、その辺の気配はすぐにわかるのさ」
「……やれやれ、結局もったいぶってるじゃないか」
アンジェリカを寝台に寝かせた後、席に着いたマスターが呆れたように言いました。
「仕方がない。物には順序というものがあるからね。先ほどの御老人たちは【特異点】という言葉を使っていたが……本来、この世界でそれに当てはまるものは、キョウヤ君──君ではなく、聖女様や『元のわたし』のような存在なのだよ」
「僕には結局、【特異点】とやらがよくわからないんだけどね。おじいさんたちの説明も難しかったし」
「ははは。老人は得てして難しい言葉を使いたがるものさ。だから、わたしが言い換えよう。【特異点】とは、世界の『矛盾』を顕わすモノだ。完璧に構成されているはずの世界において、ある『矛盾』が表面化しようとしたとき、世界の法則そのものを急激に変化させ、それによって世界の完全性を保つモノだ。くくく! そういう意味では、キョウヤ君。君ほど、この言葉から縁遠い存在もいないのかもしれないね」
「うーん。なんかそれって、『こんがらがってわけわかんなくなっちゃったから、全部ひっくり返しちゃえ』的な無茶に聞こえるんだけど……」
「あはは。面白い表現だ。うん。まあ、その理解で間違ってはいないよ」
おかしそうに肩を揺らして笑う『ミズキ女史』。しかし、当然と言うべきか、この場に居合わせたベアトリーチェやエレンシア嬢、リズさんといった面々は、話の内容にあまり付いていけていないようです。
というより、わたしのような知識もないままに、彼女に話を合わせることができるマスターが尋常ではないのでしょう。
ですが、わたしは今の話に、納得のいかない点がありました。
「……貴女の話のとおりだとすれば、【特異点】は世界に複数存在してはいけないのではないですか?」
「さすがに鋭いね。そのとおり。そんなにころころ世界法則が変換される機会があったんじゃあ、世界の方もたまったもんじゃないだろう。でも、この世界にはそれがある。君にはそれが何故か、推測がつくんじゃないかな?」
「書き換えるべき世界の法則自体が複数存在している。つまり、本来なら重なるはずのない2つの世界が重なり合ってしまっているから……ですか?」
ベアトリーチェの言う『物質世界』と『精神世界』。
わたしの知る【因子】とこの世界特有の『魔力』。
そこから類推するならば、答えはそれしかないでしょう。しかし、わたしがそう伝えると、『ミズキ女史』は驚いたように目を丸くしました。
「重なるはずのない世界……ね。わたしとは、認識に相違がありそうな表現だ。まさか君は……いや、君のいた世界の文明では、『世界』のことを、さながらこの空中都市に浮かぶ無数の『浮き島』のごとき存在だと捉えているのかい?」
「……わたしは、超時空転移装置を使用している際、【亜空間】に浮かぶ無数の『世界』を見ています。観測可能な範囲におけるすべての『世界』の座標は、わたしの無限データベースに記録されていますし、その『位置関係』を空間的に表現するなら、貴女の言う例えも外れてはいないかもしれません」
わたしが補足するようにそう話すと、ここでようやく合点がいったように彼女が大きく頷きました。
「なるほど。……皮肉なものだね。世界間移動という超技術を有するがゆえに、かえって君たちは、世界の『真の姿』を理解できなくなってしまったというわけだ。知り過ぎたがゆえの『無知』といったところかな?」
「……あのさ。物には順序があるって言っても、限度ってものもあるんじゃないのかな?」
ここで、マスターがしびれを切らしたように口を挟んできました。なぜか、彼の顔は少し不機嫌そうにも見えます。
「そんなに怖い顔をしないでもらいたいな。今のは別に、君の大切な彼女の悪口を言ったわけではないよ。……さあ、今度こそ本題だ。君たちの世界に対する認識の仕方を理解したところで、かつて【知識の特異点】だったわたしがその役割にならい、今からそれを『ひっくり返して』あげよう」
立ちあがって両手を広げ、大げさな身振りで笑う『ミズキ女史』。彼女はわたしたちを見渡すと、ひとつ息を吐いてから言いました。
「──この世には『異世界』など存在しない。誰にとっても世界は常に、『ただひとつ』なのだから」
「え?」
あまりにも意外な言葉に、わたしは思わず、間抜けな声を出してしまいました。文明が未発達な世界においては、極めて常識的な見解ではありますが、先ほどまでの彼女自身の発言とは明らかに矛盾しています。
しかし、ここで彼女が意味のないことを言うはずはありません。そこにはきっと、何らかの真意が隠されているはずでした。
「……つまり、貴女が言いたいのは、『世界』が浮かぶ【亜空間】そのものを指して、真の意味での『世界』と呼ぶということですか?」
しかし、この言葉にも彼女は首を振ります。
「残念だけど、君の言う【亜空間】とやらがどんなものなのか、わたしには知りえない。ただ……今のわたしが『知りえない』と言うことはおそらく、【亜空間】は本来、『世界と呼ぶべき場所』ではないということだろう」
「ならば、貴女の言う世界とは、どんなものなのですか?」
「ふむ。仮にわたしがこの世界の在りようを表現するなら……『世界とは、水面に湧き立つ無数の泡の集合体である』と、いったところかな」
「泡、ですか?」
「そうさ。それも水面と言うところがミソだ。潜在的な可能性として、水面下には無限の『世界』がある。だが、『実在』できる世界は、それこそ『泡』のごとく水面に顔をのぞかせたモノだけだ。そして、『泡』であるがゆえに、重なりもすれば融合もする。とはいえ……まあ、それにはさすがに特殊な条件が必要だけれどね」
「……」
彼女の話は、なかなか面白いものではありますが、科学的というより哲学的見解というべきでしょう。それはわたしにとって、苦手な分野の一つでもあります。
「納得がいかないかい?」
わたしの沈黙をどう受け止めたのか、彼女は面白そうに笑いながら問いかけの言葉を口にします。
「いえ、検証するすべがない話ですから、納得以前の問題です」
「なるほど、高度な文明を持つ『知性体』らしい答えだ。では、別のアプローチでいくとしようか。……君のいた世界では、いわゆる『世界の果て』に、たどり着くことができていたかな?」
「世界の果て? ……いえ、数百億光年も彼方ともなれば、【観測】はできても、人の身では到達はできない距離です。実際にたどり着くことはできていません」
どれだけ科学力が進んでも、【因子】の制御により【入口】と【出口】の重力を安定させた【2点間連結型ワームホール】などを使用しない限りは、同一空間内で光速を超えて移動することはできません。
すなわち、少なくとも一度は【出口】に当たる場所に『光速』以下のスピードで辿り着かなければならないのです。それこそ最新鋭の『亜光速巡航船』を用いても、世界の果てへの到達には数百億年の時間が必要でした。
「やはりね。とはいえ、たどり着けないのならば、代わりに『想い』を馳せてみればいい。広大な宇宙にも限りはある。だが、宇宙に限りが存在するなら、その『外側』は存在しないのか? あるいは、『宇宙の始まり』が存在するなら、それより『以前』は存在しないのか?」
「……現に、あらゆる観測結果が、数式が、宇宙空間に限りがあることを示しています。そして、原始宇宙──いわゆる『量子宇宙』では、時間や空間が無意味だったことを思えば、それがすべての始まりでしょう」
「だが、すべては仮説の域を出ない。たどり着けもしないし、時を遡れもしないわたしたちにはね。それはすなわち、わたしたちには『認識できないモノ』だということだ」
「何が言いたいのですか?」
「その前に、ひとつ。わたしの『知らないもの』の考察をさせてもらおう。わたしが思うに、君が言う【亜空間】とやらはおそらく、本来ならば『誰にも認識されていない空間』なのだろう。逆説的に言えば、だからこそ、誰にも到達できないはずの場所だ。まさに空間ではない空間。【亜】空間というわけだね」
「……」
わたしにも、【亜空間】の存在を明確に定義することはできません。彼女の言葉を否定する材料を持ち合わせていないわたしは、口をつぐまざるを得ませんでした。
「さて、話を戻そう。と言っても、今の考察は極めて重要だ。つまり、『認識』こそが『世界』にとって重要だという話なのだからね」
「認識が世界を創るとでも? そんな馬鹿な。世界が、そんな不安定なものであるはずがありません」
思えばこの時のわたしは、自分が信じてきたものを崩されるような話の展開に、必死で何かを繋ぎ止めようとしていたのでしょう。
けれど無情にも、彼女の言葉はよどむことなく続いていきます。
「不安定さ。さっきのキョウヤ君のスキルを見れば、わかるだろう? 世界など、ふとしたきっかけで弾けて消えてしまいかねない『泡』のようなものだ」
「…………」
「『知性』という『水面の鏡』に映る『泡』の姿こそが世界の定義そのものであり、世界に存在を認めている因子こそが、『知性』であると言うこともできる。これまた逆説的に言えば、だからこそ、特定の『知性体』にとっては、世界は『ただひとつ』なのだよ」
「そ、それでもわたしは、【亜空間】で無数の『世界』を認識しています! わたしやマスターが世界間移動できているという事実と、貴女の話は明らかに矛盾しています!」
「確かにそれは不思議だったけど、その理由なら、先ほどの素粒子操作を拝見させてもらって理解した」
「……先ほどの椅子の件は、そのためでしたか。でも、それで何が分かったと?」
「君は、『知性体』としては明らかに異常なレベルで『世界を認識』している。だからこそ、君は【亜空間】と呼ばれる『世界ではない場所』でも自己を失わないし──君が『知ることのできる世界』になら、たどり着くことができる」
「知ることのできる世界? どういう意味です?」
「ああ、要するに君が言う【因子】だっけ? それが根源として存在する世界なら……という意味さ。恐らく君は、共通項としての【因子】を横串に使う形で、『複数の世界』を認識しているのだろう」
彼女は何を言っているのでしょうか? 【因子】は万物の根源です。それが根源として存在していない世界など、存在しているはずがないのです。
「ふふふ。そうそう、まさにそれだよ。『存在しているはずがない』という君自身の『認識』だ。本来なら、その『認識』がある限り、君がこの世界にたどり着くことはできなかったはずなんだ。【因子】のみが『万物の根源』ではない、この世界にはね」
「な、ならば……『魔力』こそが根源だと? ですが、わたしが解析した限り、『魔力』は変質した【因子】に他ならないという結論が出ています」
「万物の根源が『変質』するかね? まあ、いいだろう。ならば問おう。なぜ【因子】や『魔力』は万物の根源でありながら、『知性体』に強い影響を受けるのかな?」
「そ、それは……」
『知性体』の有する【因子感受性】は、わたしの世界でもブラックボックスの部分が多く、未だ解明されていない分野なのです。答えに詰まり、口を閉ざしたわたしに、彼女は優しく語り掛けてきます。
「それだけじゃない。君は自分の身近なところにある矛盾から目を逸らしている」
「矛盾?」
「『女神』の魔法だよ。考えてもみたまえ。《神器》の生成は、素粒子操作さえ介さずに『無』から『有』を生じさせる現象だ。君はそれを不思議には思わなかったのかね? それとも、まだ自分には解析できない『魔法』だからと思考を停止していたのかな?」
「……」
わたしは返す言葉もなく、彼女を睨み返しました。一方、わたしの視界の端では、眠気に負けて舟を漕ぎはじめたメルティの姿とあわてて彼女に寄り添うリズさんの姿が映っています。しかし、映ってはいましたが……意識はしていませんでした。
「……【因子】や『魔力』は、すべて同じものから生まれている。私はソレのことを『可能性の泡』と呼んでいるがね」
「アニマ・ムンディ?」
「──『知性体』の集合的無意識こそが水中に『泡』を生み、『知性体』の『認識行為』こそが、ソレを水面上へとすくい上げ、その姿を『水鏡』に映し出す。だからこそ、精神性により強く依存する『魔力』は、君の使う素粒子操作よりもなお、直接的な形で『世界を生む』ことができるのさ」
「世界を……生む? 《神器》の生成がまさにそれだと?」
「単なる一例だがね。他の例を挙げるとするなら……そうだね。もし、君が【亜空間】……否、『水中』にいたことがあるのなら、少なくとも『未分化の泡』くらいは見たことがあるんじゃないかな? 不定形で不確定で不明瞭な『暗黒』を。ソレもまた、世界が【因子】を根源としていない証拠だろう?」
「ま、まさか……【ダークマター】?」
わたしがそんなつぶやきを返した直後のことです。
「リズさん……?」
マスターの声に、わたしは慌ててリズさんに目を向けました。『ミズキ女史』の話に引き込まれていたわたしは、最初は警戒し、観測していたはずの周囲の変化に気付くのが遅れてしまっていたのです。
「な! こ、これは一体……」
気づいたときにはすでに遅く、リズさんとメルティ、二人の姿は『大きな泡』のようなものに包まれていたのでした。
次回「第151話 女神の特異点」




