第143話 危険思想の聖女様
とはいえ、慌てる必要はありません。
重力なら、わたしが【因子演算式】で制御すればいいだけなのですから。
ところが……
「……重力制御、できません! く! わたしの【式】が阻害されている? どうして? 【因子結晶】さえあるほどの……こんな場所でどうして【式】が……」
ごくまれに、【因子】の状態が安定していないような場所において、わたしの【式】が上手く作用しないということは、これまでにもありました。しかし、この『大法学院』の一帯において、わたしは、そんな乱れを全くと言っていいほど感知していません。
だと言うのに、いったいなぜ……
「ヒイロ、落ち着いて。重力制御以外の【式】も使えないのかい?」
「い、いえ……もっと単純な【式】なら恐らく……。でも、このままでは落下してしまいます!」
「うん。だからさ……パラシュート」
「あ! は、はい!」
マスターの指摘に、わたしは思わず赤面してしまいます。重力制御にばかり意識が向き過ぎていて、そのことに思い至りませんでした。
わたしはすぐさまパラシュートを造り出し、船の周囲の柵にからめて、空に広げます。
すると、徐々に船の落下速度が緩やかになっていきました。
「ふう……。生きた心地がしなかったな」
「まったくですわ。やっぱり、空を飛ぶ乗り物なんて危険ですわね」
アンジェリカとエレンシア嬢が顔を見合わせ、ゆっくりと胸を撫で下ろしています。
「おお……何もないところから物を生み出すなんて、すごいな君は!」
一方、ミズキ女史はと言えば、先ほどまで危機に陥っていたことなど、どうでもいいと言わんばかりに、わたしが見せた【式】に食いついてきていました。
「ミ、ミズキさん。今はそれどころじゃありませんから。緩やかになったとはいえ、このままだと地面まで下りてしまいますよ」
「む。ああ、そうか。すぐに船の不具合を確かめないとな。最初のうちはちゃんと飛べていたんだ。時間さえあれば、十分修復は可能なはずだな」
とっさにリズさんがフォローに入ってくれたため、ミズキ女史はここで諦めて船の修復に向かってくれましたが、危ないところでした。わたしの【式】は、知識欲旺盛なこの都市の人々には、目に毒かもしれません。
「ベアトリーチェさん。これが誰かの仕業なら……事の顛末を『見届け』ようとしていた奴らがいるんじゃないかな?」
落ち着き払ったまま座席に腰掛けるマスターは、ぼんやりと周囲を見渡している様子のベアトリーチェに声を掛けました。
「うん? ああ、そうじゃな。あの塔にいた時と同じ連中じゃ。犯人かどうかは断定できぬが、こうも不躾な視線を向けられると腹が立つ。他人の領土に足を踏み入れた立場である以上、大人しくしてやろうとも思っておったが……、もうやめじゃ」
怒り心頭といった顔で立ちあがった聖女様は、掌を顔の前にかざし、軽く目を閉じました。
「わらわのとっておきを見せてやる。……ふふん。せいぜい腰を抜かすがよい!」
わたしの【因子観測装置】が、彼女のスキルの発動を感知しました。
発動したスキルは、次の二つです。
『侵食する禁断の領域』
自分を中心とした一定範囲内に特殊空間を生成する。この空間には、以下の作用がある。
1)空間内の音・衝撃・光・熱を外部から遮断する。
2)女神の魔法によるイメージを強化し、幻想の生物・器物を現実にする。
3)幻想の内容は、この世界での知名度が高く、『弱点』が存在するものほど実現させやすい。
『真実を告げる御使い』
任意に発動可。最高位の『アカシャの使徒』にのみ発現する、七種の特殊スキルの『八番目』。天使の力を得る。──八番目の御使いは、残酷な真実のみを突きつける。
すなわち、魔法の力を強化したうえでの……『幻想』の現実化。
「《聖女の竜神招来》」
ドスン、という鈍い音。それは、この船が何かに着地した衝撃によるものでした。しかし、早すぎます。この都市の高度から考えて、パラシュートによる減速も踏まえれば、まだ地上までは随分と時間があるはずなのですが……。
「う、うおおお! なんじゃあ、こりゃあああ!」
操縦席で船の修復にあたっていたミズキ女史が、すさまじい悲鳴を上げてこちらに転がり込んできました。
とはいえ、無理もありません。船が降り立った場所。それは、あまりにも巨大な生物の背中だったのです。
「空を飛ぶ……竜? すごいね、これ」
さすがのマスターも目を丸くして驚いています。エメラルドグリーンの皮膜でできた翼を雄大にはためかせ、船を背中に乗せて飛ぶその生き物は、まぎれもなく『ドラゴン』そのものでした。
「……あ、あはは。えっと……これって、『ニルヴァーナ』の御先祖様とも言われてる……『竜神』だよね? 嘘でしょ?」
普段の気取った口調も忘れ、アンジェリカが呆れたようにつぶやいています。
「むろん、伝承に基づく人々の『想像の産物』である以上、本物ではないがの」
こともなげに言い放つベアトリーチェ。
「い、いくらなんでも滅茶苦茶ですわ……」
エレンシア嬢も開いた口が塞がらないと言った顔をしていますが、そんな中、一人だけ嬉しそうにはしゃいでいるのは、もちろんメルティでした。
「うわあ! すごい! 本物の竜だ!」
恐れもせずに船から飛び出し、竜の背中の上に着地するメルティ。
「ああ! メルティさん! 危ないですよ!」
ハラハラしながらリズさんが声をかけるも、彼女はまるで平気な顔で周囲を歩き回り、時折、興味深そうに足元のごつごつとした鱗を撫でています。
「大したものだけど、この竜。いきなり消えちゃったりしないよね?」
「心配いらん。わらわがこの竜の傍を離れない限り、このままじゃ。……メルティちゃんには、大人しくしてもらえるとありがたいがな」
マスターの問いに、なぜか憮然とした顔で答えるベアトリーチェ。しかし、自身の能力を疑われて不満だというわけではなく、自分たちを覗き見している者たちへの怒りが未だ収まらないと言った様子でした。
「さて、連中の度肝を抜いてやったところで……わらわは満足じゃ……」
にやりと不敵な笑みを浮かべるベアトリーチェ。彼女はすでに、ミズキ女史の前だと言うのに、背中の白い翼を隠しもしません。どうやら完全に、御立腹のようです。
そして案の定……
「などと言うとでも思うたか! このまま奴らのところに攻め入り、一人残らず八つ裂きにしてくれなければ気が済まんわい!」
と、鼻息荒く声を張り上げました。
「いえ、ベアトリーチェさん。さすがに到着初日にそれはまずいのではないでしょうか」
とりあえず、わたしは常識的な意見を言ってはみましたが、最終的にはマスターの御指示に従うべきでしょう。そう思い、ちらりと彼に目を向けると……
「ミズキさんに迷惑がかからないなら、それでもいいと思うけどね」
と、マスターも常識的な見解を述べました。
「ん? わたしか? いやいや、こんなとんでもない光景に立ち会えたのは嬉しくもあるが……これでも一応、『大法学院』の一員でもあるからな」
話を振られたミズキ女史は、そんな風に言って難しい顔をしました。しかし、その直後には、突如として面白そうに笑みを深くして頷きます。
「とはいえ、今のが誰かの謀略なら、わたしも一緒に殺されかけたのには間違いない。もともと、ここの上司と反りが合わなくて追い出された経緯もあるわけだし……、正直、君らにも大変興味がある」
「うーんと、つまり、どういうことかな?」
「うん。だから、取引だ。君らのことをわたしに教えてくれたなら、この都市の秘密も含め、君たちに協力してやってもいい」
「……いや、やめておいた方がいいよ? 今の話、聞いてたでしょ? ベアトリーチェさんは『やる』と言ったら『殺る人』だぜ。人間が八つ裂きになるところなんて、見てて楽しいもんじゃないと思うけどなあ」
お勧めできないと言った顔でつぶやくマスターですが、そんな彼に呆れたような視線を向けたのは、リズさんでした。
「キョウヤさん。ここは危ないからやめておいた方がいい、という場面ではありませんか?」
「あはは。でも、危ないことなんかないよ。巻き込んだのはこっちみたいだし、一応、責任をもって守ってあげるつもりだからね」
こともなげにそう言うマスターに対し、ミズキ女史は面白がるような視線を彼に向けました。
「へえ、それは頼もしい。そう言うからには、君も彼女たちみたく、特殊な技能でも持っているのかな?」
彼女の顔には『知りたい、知りたい、知りたい、知りたい』という、そんな気持ちばかりが見え隠れしています。まさに、知識欲の権化ともいうべきでしょう。
「そうだね。その気になれば、今すぐ、僕らを覗き見している奴を皆殺しにすることぐらいはできるかな?」
「今すぐかい? そりゃあ、すごいね」
まったく信じてない口調で笑うミズキ女史ですが、あながち、嘘ではありません。マスターは今もなお、『全てを知る裸の王様』を使用し続けているのです。相手の正体も目的もわからないまま、問答無用に世界との関係性を抹消する形で葬り去る愚を犯すわけにはいかないというだけで、最初から『この敵』とマスターは同じ土俵にすら立っていませんでした。
「で? どうするの? やるんだったら、わたしも張り切っちゃうけど」
すでに準備万端と言った様子で、掌の炎をもてあそぶアンジェリカ。
「マスター、いかがいたしますか?」
「うん。まあ、これだけド派手に街中に怪物を出現させた以上、向こうも放っておいてはくれないだろうしね。というか、ベアトリーチェさんはそれが狙いだったんでしょ?」
「ふふん。当然じゃ。向こうから手を出してくれば、大手を振って殲滅もできよう?」
聖職者にあるまじき、危険思想。今さらではありますが、とんでもない聖女もいたものでした。
次回「第144話 霊光船団」




