第131話 彼女たちによる証明終了
「法則を創造する? もはや意味不明じゃな」
わたしの隣で、呆れたように鼻を鳴らすベアトリーチェ。
こちらに話しかけてきているわけではないようですが、彼女の気持ちはよくわかったため、わたしはつい、頷きを返してしまいました。
「もっとも厳密に言えば、『物理法則に干渉できなくなること』と『精神そのものへの干渉を可能とすること』を引き換えにしているだけですから、真の意味での『創造』とは言えませんが……」
それこそ、生み出しているというより、『歪めている』と呼んだ方が正しいでしょう。
「……ふん。大した違いはあるまい。よく芸術家どもが偉そうに『創造』などという言葉をのたまっておるが、わらわに言わせれば、それとて所詮は他の何かを歪めて『何となく新しいように見えるもの』を作っているだけじゃろう?」
この聖女様、随分と辛辣な言葉を口にするあたり、芸術家に恨みでもあるのでしょうか?
そうしている間にも、マスターはメルティに殴られ続けながらも前進を続け、ついには彼女の肩を正面から掴みとりました。殴る側のメルティの腕にさえ、何の反動も返っていないところを見ると、まさに今の彼が『物理法則』の外側にいることがよくわかります。
そして、そんな彼が彼女の肩を『掴んだ』ということはすなわち……
「ひゃ!」
我に返ったように、目を丸くするメルティ。
「驚かせちゃったかな? でも、時間があまりないんだ。懐に手を突っ込むようなやり方で悪いけど……君の心に聞かせてもらうよ」
マスターが小さく呟いた瞬間、何の前触れもなく、周囲の景色が一変しました。
「え?」
「なんじゃ、これは……。この『気配』はまるで……精神世界ではないか」
周囲を見渡しながら、震える声を上げるベアトリーチェ。どうやらスキルで周囲を観測する彼女には、単なる見た目の変化に留まらない世界の『変質』を感じ取ることができたようです。
「これが……キョウヤの力? 周囲の世界をそっくり入れ替えてしまったとでも言うのか?」
「……より正確には、『反転』させてしまったというべきでしょう。『存在しない登場人物』のスキルは本来、自身にしか作用しないものですが、ゼノ・モードでは周囲にも影響が及んでしまうようですね」
わたしは【因子観測装置】の機能をフル稼働させ、この事態をそう分析していました。とはいえ、わたしがこれまで以上にこの世界の解析を進め、より効率的に周囲の異変の修復作業をこなせるようになれば、ここまでのことにはならないのかもしれません。
しかし、それが叶わない今、少なくとも孤児院とその周辺一帯は、メルティの『精神世界』に取って代わられているようでした。
「……ふーん。これが君の心か」
マスターは嬉しそうに周囲を見渡して笑いました。
彼の目に映るその風景──それはこの世のものとは思えないほどに美しい景色でした。
燦々と降り注ぐ日の光の下、草花はその命を謳歌するかのごとく咲き誇り、その間を小さな川が流れています。水面に反射する光に紛れ、透明な水流に逆らうように小魚たちが泳ぐ姿が見え隠れしたかと思えば、小鳥のさえずり、虫の声、そして、さわやかに吹き抜ける風の音が心地よく耳に響いてきていました。
思わず陶酔してしまいそうな景色ではありますが、わたしの隣では、それとは異なる感想を持つ人物がいました。
「……なんと、痛ましい。これが、これが……人の心か? 何千、何万という人の心を見てきたわらわでさえ、こんなにも『純真無垢』でこんなにも痛ましい心は見たことがない」
彼女──ベアトリーチェの瞳からは、涙の筋が頬を伝って流れています。
いったい、何がそんなに痛ましいのか? わたしはあらためて周囲を見渡しました。
そして、気づきます。
あまりにも透明感のあるその風景──その、『奥』に透けて見えるモノ。
「あれは、蛇でしょうか?」
世界を取り囲む『円環の蛇』。ウロボロス。
とぐろを巻き、鎌首をもたげ、上空からこの世界を飲み込まんと大口を開く世界蛇。
「メルティ。この世界を護りたいと願う君の『心』は、何処にあるのかな?」
上空に気を取られていたわたしでしたが、静かに語りかけるようなマスターの声に思わず視線を下げました。するとそこには、『悪魔』の姿をしたメルティに語り掛ける、マスターがいました。
「わ、わたしは……」
「君を飲み込み、君にその『心』を植え付けたモノがいる? 『女神』を憎み、その『罪』を裁くことが、君にとっての『世界を護ること』なのかな?」
「ヴァイラス……。罪深いモノ。壊す、殺す、滅ぼす……」
虚ろな顔でつぶやき続ける悪魔の姿をしたメルティ。そんな彼女とその『後方にあるもの』を見つめ、マスターはゆっくりと頷きます。
「悪魔の姿をして、誤魔化しても駄目だよ。僕には……見えるんだから」
「わたしは……意思。わたしは、世界を護るモノ」
よく見れば、棒立ちのまま呟き続ける彼女の後ろでは、白い服を着た少女が身体を震わせ、膝を抱えてうずくまっています。彼女の髪は黒ではなく、金の髪に蒼が混じる、不思議な色合いのものでした。
「君はただ……『ソレ』に触れてしまっただけだ。『ソレ』に意思なんてない。いや、仮にあったとしても、誰かに何かを強制するような意思じゃない。反射的に、自動的に、すべてを最適化しようとするモノ。それこそが『ファージ』なんだからね」
「違う。わたしは意思。だから、わたしは殺す……」
「君の『心』を『ソレ』のせいにしちゃいけない。悪魔の姿をした君だって、何かを殺し、何かを壊す君だって、全部同じ……君なんだ」
「ちがう!」
その瞬間、それまでうずくまっていた白い服の少女が立ち上がりました。
「わたしは、わたしたちは……殺さなくちゃ……」
「だからさ、メルティ。もう……『無邪気』を装うのはやめにしようか?」
「……!」
弾かれたように顔を上げる少女。
「『愚者』にさせられていたんだから仕方がない。情緒が成長していないんだから仕方がない。……そんな言い訳は、今の君には要らないだろ? ベアトリーチェさんのおかげで『安定』を取り戻した今の君には、自分の『心』を自分で定めることができるはずなんだ」
「で、でも、それじゃ……わたしは……」
「わかってる。辛かったね。苦しかったね。僕は別に、君を責めようとは思わない。悪魔アスタルテとして生きてきた君がどんなに罪深かろうと、僕は……君を赦すよ。それじゃあ、駄目かな?」
彼女が『愚者』として生きてきた日々。それは言い換えれば、彼女が『王魔』と戦い、これを殺し続けてきた日々でもあるのです。
「キョウ……ヤ……」
少女の姿は、『悪魔アスタルテ』のすぐ隣にまで歩み寄ってきていました。
そして二人の姿は再び重なり、悪魔の姿はゆっくりと少女に融けて……少女の姿もまた、ゆっくりと成長を遂げていきます。
「罪を赦す……か。わらわはこれまで、『罰する』ことばかりを考えてきた。じゃが、それで救われるものなど、どこにもいないのかもしれんな」
そんなベアトリーチェのつぶやきと共に、世界が元の姿を取り戻していきます。
マスターが能力を解除したのでしょう。わたしにかかっていた負担もまた、急激に軽くなっていきました。
「……ほえ?」
それはさておき、マスターに優しく抱きしめられた彼女は、不思議そうな顔で彼の顔を見上げています。
「気付いたかい? ほら、捕まえた。この『遊び』は、僕の勝ちだね」
そんな彼女に、にっこりと笑いかけるマスター。その美しくも黒い瞳と目を合わせたメルティはと言えば、見る間に頬を赤く染め、次いで小さく身体を震わせながら、自身の状態を確認するように視線を下げます。
すでに悪魔の姿ではなくなったのは、彼女が正気に戻ったから……と考えてもいいかもしれません。
しかし、彼女の身に着けているジャケットやタンクトップ、ショートパンツの状態に関しては、先ほどまでの超音速移動によるものが原因です。通常の人体が耐えられないような速度でも、彼女自身の強化された肉体であれば耐えきれたのでしょう。
それでも残念ながら、流石のわたしも、超音速に耐えられることを前提にした衣装づくりはしていなかったのです。
ほとんど全裸にも近いほど、ボロボロにすり切れた衣服。かつて鎧を脱いだメルティが身に着けていたボロ布と大差ない状態にまで破損した衣服を見て、わたしも製作者として少しだけ残念な気持ちになりましたが、当の彼女はそれどころではなかったようです。
「あ、あ……う……」
もはや耳まで赤くしながら、マスタの腕の中から逃れようともがくメルティ。
しかし、マスターはにやにやとした笑みを浮かべつつも、彼女の身体を離す気はないようです。
「まったく、メルティはお転婆だね。服がボロボロになるまで遊ぶだなんて。ちょっとばかり、はしたないんじゃないかい?」
「い、いや! は、はなして! 恥ずかしい!」
「駄目だよ、メルティ。これはね? お転婆が過ぎた君へのお仕置きなんだ」
さも不本意だと言いたげな言い回しですが、明らかに嬉しそうな顔をしていますので、確信犯であることは疑いようもありません。
「ご、ごめんなさい! あやまるー! 謝るから、許して!」
「ふっふっふ。メルティ。いいかい? ごめんで済めば、警察はいらないんだよ?」
真っ先にお縄につくべき人間の言いぐさとは思えません。この状況からして、警察を呼ぶべきは彼に対してではないでしょうか?
それはさておき、マスターはなおも意地悪く言いながら、彼女の身体を抱きしめ続けています。かつて彼女から無邪気に迫られ続けていた時は、怯えるように逃げ惑っていたはずなのですが……。
「相手に恥じらいの気持ちが芽生えるや否や、途端にこうなのですから、困ったものです」
「ぬう、嫌がるメルティになんて真似を。今からでもとびきりの『拷問具』を用意してくれようか。……羨ましい奴めが!」
本気で憤りを感じているらしいベアトリーチェですが、最後の一言ですべてが台無しです。
「ああ、でも……その必要はなさそうですよ?」
わたしは多元的情報処理機能を駆使し、こうしている間にも屋敷の周辺全体の戦況を掌握していました。だからこそ、マスターやベアトリーチェに先んじて気づいたのですが、この事態を収拾するべき人物の到着は、間もなくといったところです。
「それに、そんなに恥ずかしがることないじゃないか。前はよく裸でベッドに潜り込んできてたし、僕たち、キスだってした仲だろう?」
「そ、それは……、で、でも……だって、恥ずかしいし……」
もじもじと恥じらい続けるメルティに、なおも言葉攻めを続けるマスター。単なるスケベ心だけでなく、先ほどから散々に怪我をさせられた仕返しも兼ねているのかもしれませんが、それでも少しやりすぎでしょう。少なくとも、もう少し早く切り上げておくべきでした。
「さあ、後は彼女にお任せしましょうか」
わたしとベアトリーチェが見つめる視線の先に、新たに現れた人物。彼女は、酷く静かな声で、ゆっくりとマスターに声を掛けました。
「うふふ? キョウヤさま? 随分と楽しそうですわねえ?」
ぴしゃりと、冷水を浴びせかけるような一言。その声に、マスターの身体がびくりと大きく跳ね上がりました。
「ううー!」
その隙にメルティは彼の腕から脱出し、わたしの元に一目散に駆け寄ってきます。
「ヒイロ! 服! 服!」
「はい、はい」
わたしは彼女に新しい服を出してあげながらも、これから始まるだろう『修羅場』に意識を向けていました。
彼女のエメラルドの瞳は、自分の横を駆け抜けていく全裸も同然のメルティの身体を視界に収めていたに違いありません。ざわざわとうごめく新緑の髪は、その大半が鋭い棘を持った茨と化し、マスターの周囲を囲むように広がっています。
「や、やあ、エレン。ぶ、無事みたいで良かったよ」
「ええ、御心配をおかけしたようで。……いえ、見た限り、そんなこともありませんでしたかしら?」
「い、いやいや、ずっと心配だったんだよ。敵も殺意ある攻撃ばかりじゃないかもしれなかったしさ」
「そうですわね。殺意なら、今の方が感じていますわ」
「あれ? 殺意を感じる……の言葉の用法が違うような……」
「ふふ、うふふ! 面白い冗談ですわね?」
貴婦人らしく、口元に手を当て、上品に笑うエレンシア嬢。
「いや、別に冗談とか言ってないよ?」
「ところで、わたくしたちが孤児院を護るために必死で戦っていた間、あなた、何をしていましたの?」
怒れるお嬢様は、マスターの言葉を全く無視し、唐突に質問を投げかけました。
「い、いや、だから、スキルで皆のことを護ってあげてた……はずなんだけど……」
「あら? そうですの。キョウヤ様のスキルに、『裸の女の子』を抱きしめながらでないと使えないものがあるだなんて、初耳ですわ」
しゅるしゅるとマスターの足に絡みつく茨。対するマスターは、下手な抵抗をすること自体が命取りだとばかりに、棒立ちのままです。
「いや、でも、大変だったんだよ。メルティが暴走しちゃって、それを止めるのに手間取ったって言うか……」
「どちらかと言えば、あなたの方が暴走していたように見えましてよ?」
冷ややかな視線で彼を突き刺し、上品かつ丁寧でありながらも決して優しいとは言えない口調で語る彼女を前にしては、どんな言い訳も虚しく響くばかりでした。
「──あはは。前から思ってはいたけど、……キョウヤって、ほんとにエレンに弱すぎだよね」
彼女と一緒に周囲の敵を殲滅し、この場に戻ってきたアンジェリカは、笑いながら二人の様子を眺めています。
「まあ、どんな人にでも、苦手なもののひとつやふたつ、あるものですよ」
そう──彼がどれほど規格外で、どれほど歪んでいて、どれほど異質な存在であれ、それでも彼は『心ある人間』なんです。
でなければ……あんなにも人間らしく、素のままの感情を露わにすることなんてできるはずがないのですから。
彼がどんなに得体の知れない存在であっても、それだけは揺るがぬ事実であり、彼の求める『心のカタチ』はわからなくても、その『存在』だけは間違いなく、彼女たちが証明し続けてくれることでしょう。
「綺麗にまとめようとしているようだけど……それがお嬢様に破廉恥な振る舞いを詰問されて怯えまくっている姿を指しての言葉だって言うんじゃ、まったく締まらないぞ?」
……などという王女様の余計な言葉は、この際、聞こえないふりをするわたしでした。
次回「第132話 罪深きモノ」




