第130話 心の存在証明
「さてと……まずは、怪我を治さないとね」
マスターは己の姿を映さない『黒い鏡』を見つめたまま、小さく呟きます。
「《デストロイ・ゼロ》──ファージ・モード」
真紅の隻眼を輝かせるメルティを前にしながら、彼のその『魔法』は、何の問題もなく発動していました。彼の全身に生じていた無数の裂傷は跡形もなく消え去り、折れていた骨がつながり、失われていた血液さえも元の状態に戻っていきます。
《デストロイ・ゼロ》──この魔法は本来なら、生体以外の器物の修復に使うべきでしょう。
メルティの『変化魔法』から反転して生じたこの魔法は、治療魔法ではなく、『還元魔法』と呼ぶべきものなのです。
それはすなわち、対象に生じていた『変化』を、変化前の状態に戻す魔法。
『変化を戻す』と言っても、これを生体に適用することは、簡単ではありません。
なぜなら、本来あるべき『生体機能』による変化と『怪我などの外的要因』による変化を峻別し、厳密に魔法を作用させなければならないからです。
だからこそ、わたしが【因子演算式】で生体の治癒を行う場合も、器物の修復のような直接的なやり方ではなく、治癒力そのものを強化する手法を用いているのです。
「なんじゃ、あのでたらめな回復魔法は……。『女神』による治癒魔法でさえ、個別の傷を順に治療していくものじゃが……あれでは『手順』も何もあったものではないではないぞ」
「『あの状態』になったマスターには、いわゆる『制限』や『限界』といった概念が通用しませんから……」
最強クラスの『愚かなる隻眼』でさえも騙し抜き、かつ、対象を限定・峻別した魔法効果を発動させること。
それは、極めて繊細なバランスを要求される行為であり、『知性体』が意識的に為し得るレベルを大幅に超えています。
では、どうするか。その一つの答えが、『ファージ・モード』──すなわち、使用者の意思によることなく、スキルや魔法そのものを『自動的に最適化』させるというものでした。
『真理を語る愚神礼賛』により、マスターが使用可能となる三種の『モード』。
その中でも、『ファージ・モード』には、彼が意識するまでもなく、状況に応じて精密機械のような『正確さ』や『繊細さ』をスキルや魔法に付与する力が備わっているのです。
一方、メルティはわずか数秒で驚きから立ち直り、ためらうことなく次の行動に打って出ていました。
「……こんなもの、コワシテやる」
それまで不思議そうに『黒い鏡』に移る自分の姿を見ていたメルティは、再びその目を狂気に染めると、軽くステップを踏んだ後、一瞬で急加速して鏡めがけて拳を叩きつけました。
「あんな得体のしれないものを殴りつけるとか……あの子も大した度胸じゃな」
ベアトリーチェが身震いしながらつぶやくものの、『黒い鏡』はまるで抵抗もなくその場で粉砕され、キラキラと陽光を反射しながら黒い破片をまき散らしています。
そして、そのまま勢いを減じることなく、マスターに拳を繰り出すメルティ。
「『動かぬ魔王の長い腕』─ヴァイラス・モード」
しかし、マスターは身動き一つしないまま、小さくそんな言葉を口にしました。
すると、次の瞬間──
「く! うぐぐ!」
メルティの動きを止めたのは、マスターの背中から無数に生えた『見えない腕』です。自身の腕を動かさない代わりに使役する『魔力の腕』である以上、その数は二本に限られるはずなのですが、今や百本以上もの『腕』がメルティに殺到しています。
「この! この! コワレロ! なんで、こんなに……!」
『魔力』で生み出したものである以上、『動かぬ魔王の長い腕』は、メルティがその気になれば容易にかき消せるものです。
事実、これまでの戦闘では、極めて便利なはずのこのスキルも、彼女が『見えない腕』の存在と性質に気付いて以降は、牽制以上の役目を果たせていませんでした。
とはいえ、これだけの数の腕が次々に生み出され、襲い掛かってくるようでは、さすがのメルティも防御するだけで精いっぱいのようです。
ヴァイラス・モード。それはマスターのスキルや魔法について、彼自身が『意識的』に『増殖・増幅』させることを可能とする力でした。
「ほらほら、メルティ。しっかり避けないと、あっちもこっちも、全身をまさぐっちゃうぞ?」
「…………」
調子に乗っておどけた言葉を言い放つマスターですが、ここでさらにメルティの様子が一変しました。
「……ヴァイラス!」
たちまちのうちにメルティの全身は、暴走気味に渦を巻く【因子】によって、覆われていきました。
そして気づいたときには、周囲の空気が濃密な流動体となって彼女の肢体を護り、あらゆる環境耐性を付加していたのです
「ツミのアカシ! コワス! コワス!」
「あれでは……まともな攻撃では、一切歯が立ちませんね」
それだけではありません。メルティの身体能力の高さもまた、さらに強化されているようです。彼女はほとんど反射神経だけでマスターが繰り出す百本以上もの『腕』の動きに反応し、そのことごとくを殴りつけ、自身の身体には文字通り、指一本触れさせてはいませんでした。
「うーん、意外にもメルティって、ガードが堅い女の子だったんだね。……それじゃあ、次はこれにしよう。……《パペット・マイスター》──ファージ・モード」
マスターの声と同時、彼の周囲には、無数の人形たちが出現しています。
真紅色の鉱石『対魔法銀』でできた《パウエル人形》。
赤銅色の鉱石『ミュールズダイン』でできた《レニード人形》。
黄土色の鉱石『ファンイエンダイト』でできた《アトラス人形》たち。
群青色の鉱石『ベルガモンブルー』でできた《ニルヴァーナ人形》たち。
これまでの『冒命魔法』の中でも、今回のこれは極めて異常でした。複数の種類を同時に出現させたこともそうですが、何より本来ならば必要となるべき『媒介』の鉱石さえ使用していないのです。
「さあ、遊び相手はたくさんいるよ。存分に楽しむといい」
「……ハカイする!」
別人のように目を血走らせて叫ぶメルティは、周囲から一斉に放たれる魔法を獣じみた動きで回避し、極めて硬い鉱石でできた人形たちを次々と破壊していきます。
霞むように彼女の身体が消えたかと思うと、恐ろしいことに音速を越えた際に発生するソニックブームが、こちらにまで届いてきていました。
『教会』の七大司教と『ニルヴァーナ』の貴族の二人に加え、マスターが蛮族領で殺害した『アトラス』たちや首都ドラッケンとその周辺で殺害した『ニルヴァーナ』たち。そうした強力な魔法使いと同等の魔法を使用可能な人形たちで構成された『軍勢』をもってしてもなお、暴走するメルティは止められそうもありません。
しかし、ここでのマスターの目的は、どちらかと言えば『時間稼ぎ』です。
「時間稼ぎじゃと? この上、何をするつもりなのじゃ?」
首を傾げて聞いてくるベアトリーチェですが、わたしはその問いに首を振りました。
「申し訳ありませんが、ここから先は、わたしに話しかけるのを控えてください。多元的情報処理装置の予備も含め、【因子観測装置】の全因子演算能力の99.9パーセントを他の作業に集中させる必要がありますので……」
時間稼ぎとは、マスターのためのものではありません。それはむしろ、わたしが行うべき『作業』のためのものでした。
〈マスター。そろそろ準備が完了します〉
〈そっか。悪いね。制限が外れている以上、下手なスキルでの攻撃はメルティを傷つけかねないし……やっぱ、『アレ』をするしかなさそうだから……〉
〈わかっています。周囲への被害はわたしが最小限に抑えますので〉
〈了解〉
高速思考伝達による会話を終えたその直後、マスターは破壊されつくした人形を腕の一振りで消すと、その手を自らの胸に押し当てました。
「『存在しない登場人物』──ゼノ・モード」
瞬間、ドクンという世界そのものが脈打つような、不気味な音が響き渡ります。
「な、なんじゃ?」
「……空間歪曲の発生を確認。修復開始。事象変異確率の乱れを感知。振動数の収束演算開始。熱変換、質量変換、重力反転、因果律反転……演算、解析、修復、エラー。リトライ開始、修復率24パーセント、32パーセント、47パーセント……」
ここ数日、マスターが『真理を語る愚神礼賛』の練習を行っていた間、最初に彼が自身のスキルを『ゼノ・モード』で発動させたのは、ほんの一瞬のことでした。
その時は、わたしが大きな危険を感じたことから、すぐに中止を申し出たのです。
彼が『制限』をなくした状態で使用可能なスキル・魔法に与えられる三つのモード。その中でも最も恐ろしいものが『ゼノ・モード』でした。
意識的な増殖を可能とするヴァイラス・モード。
自動的に繊細さを付与するファージ・モード。
そして、ゼノ・モードとは──
「たった今から、僕自身に対する、この世界の物理法則を無効化する。そんなものはどこにも『存在』しない」
マスターはゆらり、と身体を揺らして歩き出します。
「……同時に、己の肉体をもって、人の『心』を捕え、その『精神』を直接掌握することが可能となる法則を創造する。……そんなものがどこにも存在してないとしても、今のこの時、……今この場所にだけは『存在』している」
存在と非存在を揺蕩う力
【ダークマター】にも通じるところのある、万物の意味の『不明化』
無から有を生み、有を無に帰すモノ
……けれど、それは世界における最大級の禁忌でもあります。無理を通すことによる歪みは、間違いなく周囲の世界に取り返しのつかない悪影響となって現れるのです。
それを防ぐことができるのは、今この場においては、【因子演算式】が使用可能なわたしだけでしょう。
そのため、わたしは未だかつてないレベルで、己の演算装置をフル稼働させて、その異変の収束に全力を上げています。
〈それでも、持ってあと五分です……〉
〈うん。それだけあれば十分だよ〉
マスターはわたしの言葉に軽く頷くと、ゆっくりとメルティに近づいていきます。
「……自分自身にしか作用させないこのスキルでもなお、これだけの影響が出るんじゃ……他のスキルにはそう滅多なことでは使えないね」
対するメルティは、依然として躍起になってマスターに攻撃を仕掛けていますが、殴られても蹴られても、彼はよろめきもせず、彼女との距離を徐々に詰めていました。
「さあ、メルティ。君の心は何処にあるかな?」
次回「第131話 彼女たちによる証明終了」




