第115話 惨劇の後始末
ベアトリーチェを狙っていた黒衣の集団は、今やそのほぼ全員が本来あるべき形を失い、黒い不定形の塊となって漂っています。
彼らはもはや、『死んだも同然』の状態には違いないでしょう。しかし、それでも時折、不気味なうめき声が聞こえたり、のたうち回るように蠢くモノが黒い霧の中に垣間見え、彼らが未だ苦悶のうちにあることが窺い知れました。
「……キョウヤよ。これは、どうするつもりじゃ?」
誰もが声も出せずに固まってしまう中、呆れたような声で言ったのはベアトリーチェでした。さすがに自身でも酷い拷問を行えてしまえるだけのメンタリティがあるだけあって、彼女の声にはそれなりの落ち着きが感じられます。
「えっと……このままほっといたら、まずいかな?」
頬を掻きながらこちらを振り返るマスターに、わたしたちは一斉に頷きを返します。なぜと言ってこの『黒い霧』、未だに全く消滅する気配もなく、その場に漂い続けているのです。誰かが通りかかって触れたりすれば、大変なことになってしまいそうでした。
「ほら、でも、なんかぐにゃぐにゃしてるだけで、もう実害はなくなってるかもしれないじゃん。地面とかそこに生えてる草とかには影響ないみたいだしね。なんか面倒だから、このままほっとけば、そのうち『ぱぁーっ』となくなったりしないかな?」
「…………」
何とも無責任な発言をするマスターに、わたしたちは呆れて絶句してしまいました。
しかし、その直後。
「うーん。じゃあ、こうしよう。……『誰か』で実験してみればいい」
恐ろしく冷たい声でそう言ったマスターの視線の先には、黒衣の男たちの中で唯一生き残ったリーダー格の男がいました。仲間に命令を出したきり、自分だけ攻撃魔法を使わずにいた彼は、『黒い霧』の脅威をどうにか避けることができたようです。
しかし、その身体は恐怖に震え、尻餅をついたままガタガタと震えていました。
「マスター? 一体何を……」
わたしが呼びかける声も聞かず、マスターは男の元にゆっくりと歩み寄っていきました。
「大丈夫かい? 危ないところだったね?」
「ひ、ひぃいいい! く、来るな! 化け物め! やはり貴様は我が国の災厄だ! あんな、あんな……おぞましいモノを!」
マスターに近づかれ、尻餅をついたままで後ずさりする黒衣の男。表情こそ頭巾によってほとんど見えませんが、その声からは彼の恐怖のほどがまざまざと感じ取れました。
「あはは。会議の時も『女神』の使徒憎しみたいなことは言ってたけどさ……僕もまさか、君がここまで大胆な真似をするとは思わなかったよ」
「え?」
マスターの言葉に、わたしたは改めてリーダー格の男に目を向けました。すると彼は、一瞬ですがわたしの方に視線を向け、それから慌てて目を逸らしたのです。
「ま、まさか……」
わたしの脳裏に、ある人物の名前が思い浮かびました。しかし、マスターは意地悪そうに笑いながら、こう続けます。
「悪いけど、君の名前は覚えてないんだ。どうでもいいと思ってたし……」
「ぐ……き、貴様……」
「でも、覚えてることもある。確か、ヒイロのことを頑張って口説こうとしてたよね?」
「な! そ、それは……違う!」
この場面で『違う』などと口にすること自体、自分の正体を暴露するようなものです。
「お、おい……まさか、ベルハルト……なのか?」
ここでようやく、アンジェリカもその名前に行き着いたようです。ドラグーン王国の軍部において、国王に次ぐ実質的なナンバー2の地位にある将軍、ベルハルト・ショック・ナーガ。『ニルヴァーナ』の中でも相当有力な貴族の出身であり、もちろん、こんなところで暗殺者まがいの真似をするような人物ではないはずでした。
「どうして、お前がこんなことを……。そんなにも『女神』の使徒が憎かったのか?」
震える声で問いかけるアンジェリカでしたが、ベルハルトがそれに答えるより早く、マスターが首を振って言いました。
「それは単なる口実だよ。もっとも、彼の口車に乗せられて付いてきた『彼ら』は、本当に強い憎しみを持っていたのかもしれないけどね」
「ち、違う! 俺は……俺は、父上の仇を!」
「違わないね。二十年前の戦争で死んだ父親の仇を討つために、こんな大規模な王命違反をしでかすだって? 馬鹿馬鹿しい。それぐらいなら君は、もっと以前に『神聖王国アカシャ』に攻撃するなりしていたはずだろ?」
「そ、それは貴様の勝手な思い込みだ! いい加減にしろ! な、何が言いたい!」
「僕が言いたいのはさ。……彼らがああやって、見るも惨たらしい酷い目に遭っているのは、『君のせい』だってことだよ」
「な、な……」
改めて黒い霧の様子を見せつけられたベルハルトは、恐怖がよみがえってきたのか、口を虚しく開閉させて言葉を失いました。
「横恋慕くらいなら可愛いものだけどさ。嫉妬に駆られて恋敵を殺そうと画策して、他人まで巻き込むだなんて、酷い話だよ」
不気味な笑みを浮かべ、マスターはゆっくりとベルハルトに手を伸ばします。その手は彼の被る黒頭巾を鷲掴みにし、それを勢いよく剥ぎ取ってしまいました。
「ま、待て……待ってくれ! 俺が、俺が悪かった! もうこんなことはしない! ヒイロのことも諦めるし、二度とお前の前にも現れない! 約束する! だから、許してくれ!」
黒頭巾の下から現れた顔は、すでに涙と鼻水でグズグズに汚れ、端正だった顔立ちも醜く歪んでしまっているようです。
「うーん。まあ、僕の方は君に恨みがあるわけでもないし、許せと言われて許さない理由もないんだけどさ」
マスターはそんなことを言って、手にした頭巾を黒い霧に向かって放り投げました。しかし、その頭巾は何事もなく、霧の中の地面にぽとりと落ちていきます。
そしてそんな風に、マスターがベルハルトから目を離した、その時でした。
「ククク! 馬鹿め! 《ショック・ウェイブ》!」
ベルハルトが豹変したように叫ぶと、マスターめがけて攻撃魔法を放ったのです。
「……え?」
否、正確には『放とうとした』と言ったところでしょうか。
「……君の行動なんて、すべてまるっとお見通しなんだぜ?」
黒い剣を握ったマスターの左手。だらりとぶら下げられたその腕の代わりに動いていたのは、『動かぬ魔王の長い腕』でした。
マスターは彼の身体にその『長い腕』で触れ、その行動を『わがままな女神の夢』によって先読みしていたのです。
今やベルハルトの身体は、いつの間にか周囲に出現した人形たちによって拘束されています。その中でも、対魔法銀でできた《パウエル人形》の存在は、彼の魔法をほとんど無効化してしまうものでした。
「く、くそ! 《ショック・ブラスト》!」
「無駄だよ。いくら君でも、その状態でまともな魔法を使うのは不可能だ。いっそのこと、力が強くなる夜にでも来ればよかったんだろうけど……僕らが国を出る前に片付けたかったのかな?」
「そ、そんな馬鹿な……ま、待ってくれ。今のは、違うんだ!」
この期に及んで見苦しい言い訳をしようとするベルハルトでしたが、マスターはにっこり笑って言いました。
「大丈夫。気にしなくていいさ。僕は元々君を許すつもりだったし、それは今でも変わらない。だからさ……君は今の行動を、後悔する必要はないんだよ」
「じゃ、じゃあ……」
彼の言葉に、ベルハルトは安堵の表情を浮かべ、すがりつくような目でマスターを見上げました。
「うん。……だって、どっちみち『やること』は変わらないんだからね」
「え?」
「君には恨みはないけれど、君には重要な役目がある。ほら、あのモヤモヤが見えるだろう? あの中に、人が『生きたまま』入ったら、どうなるんだろうね?」
「ま、まさか……ま、待て! い、いやだ! や、やめてくれ!」
周囲の人形たちに身体を持ち上げられ、ジタバタと抵抗するベルハルト。
「ほら、落ち着きなって。それに『君のせい』であんなにお仲間が苦しんでいるっていうのに、君ひとりだけが助かるなんて……『人として』どうかと思わないかい?」
「いやだ! いやだ! いやだああああああ!」
マスターはそのまま人形たちに命じ、嫌がるベルハルトの身体を無造作に放り投げさせました。放物線を描いて飛ぶ彼の身体が向かう先には、宙に漂う『黒い霧』があります。
「うわああ! ひぃ! あばばばば! ウボエェェェ…!」
地面に叩きつけられるより早く、その身体は輪郭を失い、奇妙な叫び声と共に不定形の物体へと変化していったのでした
「い、いくらなんでも、残酷過ぎませんか?」
一方、そんな光景を目の当たりにして、震える声を出したのはリズさんです。
「くふふ、リズは優しい子じゃな。あんな男には相応しい末路じゃろうに。じゃが、それはともかく、ここで重要なことは、今なおあの『黒い霧』が危険なモノであり続けているという事実の方じゃろう」
やり方は残酷でしたが、マスターの行動によって問題が明らかになったのは確かです。
事実、この『黒い霧』は地面やそこに生えた草花、マスターが投げ入れた頭巾などには影響を与えていません。その事実と先ほどの男の末路を合わせて考えてみれば、恐らくこの『霧』は『生きた知性体』、あるいは『知性体の魔法』などにのみ効果を及ぼすだろうことが推測できるでしょう。
「だとすれば、なおさら放置はできませんね。どうにか対処方法を解析してみます」
わたしはそう言うと、対応策を検討するべく【因子観測装置】をフル稼働させ、目の前の【ダークマター】を解析し始めました。
「ど、どうなんだ? なんとかなりそうか?」
アンジェリカが心配そうに尋ねてきます。国土の中にこんな物騒なものがあるとなれば、王女として心穏やかではいられないのでしょう。
一方、それとは対照的に、メルティは無邪気な声ではしゃいでいるようです。
「ねーねー、エレン。メルティも、あの黒いのに何か投げてみていい?」
「だ、駄目ですわ! 遊びじゃありませんのよ?」
「そうなの? でも、なんかぐにゃってなって、面白そうだし、メルティも何か投げてみたい!」
「いけません! リズ! メルティを止めるのを手伝って!」
「あ、は、はい!」
懸命に解析を続けるわたしの耳には、そんな呑気な(必死な?)やり取りも聞こえてきます。
「……結論から申し上げますと、この『黒い霧』を消し去る方法はありません」
「嘘だろう? 冗談はよせ! こんな危ないモノ、放置できるか!」
解析の結果を告げるわたしに対し、食って掛かるように言葉を返してきたのはアンジェリカです。
「いえ、放置はしません。ただ、『消し去る』となれば、不可能だと言いたいのです」
「じゃ、じゃあ、どうする?」
「はい。とりあえずは【亜空間】に封印するしかないでしょう。この世界の【次元解析】が進んでいない今のわたしでは、こじ開けられる【亜空間】の容量も多くはありませんが、この程度の量ならまったく問題はありません」
結局、わたしは『黒い霧』の周囲に【因子演算式】《ワームホール》を展開し、どうにかこの物騒な代物を世界から追い出すことに成功したのでした。
「……しかし、キョウヤ様のその『剣』は、あまりにも危険すぎますわ」
何故かメルティを背後から抱きしめたままの体勢で、エレンシア嬢が安堵の息を吐いて言いました。
「そうですね。わたしの生成可能な【亜空間】も無限ではありません。マスターのその剣、『パンデミック・ブレイド』は、十分に切り札になりえる力を備えてはいるようですが、できる限り使用を控える方が良いでしょう」
「つまらないなあ。せっかく面白い武器が手に入ったと思ったのに」
マスターは残念そうな顔をして、わたしが用意した小型の【亜空間ポケット】めがけ、黒水晶の輝きを放つ剣を放り投げたのでした。
次回、「第116話 聖女の秘境探索」




