第109話 雷竜の咆哮と地獄の氷晶
「ジーク! 駄目よ! 落ち着きなさい! ここには『賢者の石』があることを忘れないで!」
国王の身体が雷光に包まれるのを見て、床に倒れたままのシルメリア王妃が叫びました。彼女は慌てて夫を止めるべく起き上がろうとしましたが、それより早く、マスターが彼女の足を『長い腕』で掴み、真横に横滑りさせるように移動させてしまいます。
「きゃああ!」
広大な謁見の間でのことであり、壁に激突するようなことはありませんでしたが、石床の上を転がった彼女は身体の痛みに顔をしかめつつ、どうにか身を起こします。
「キョウヤ君! いったい何を……!」
「何をも何も、危ないから退いててもらっただけだよ。アレは僕が止める。会ったばかりのあなたには僕が信用できないかもしれないけれど、だからこそ、そこで見ていてもらえるかな?」
よくわからないことを言いながら、マスターが掌を向けた先には、竜の大顎の中央に凄まじい電子の渦を集束させ続ける国王の姿があります。
「いくらなんでも無理よ! よけて、キョウヤ!」
「アンジェリカさんの言うとおりです! わたくしのスキルで付与できる雷撃耐性くらいでは、あんなの、防ぎきれませんわ!」
アンジェリカとエレンシア嬢が大声で叫びます。残念ながら今の状況では、仮にここからジークフリード王に攻撃を仕掛けても、あの莫大なエネルギーの暴発は避けられません。
「世界よ、凍れ。《キング・コキュートス》」
しかし、マスターが薄く笑った、次の瞬間でした。
その場の『空気』が、劇的な変化を見せたのです。
「え? い、今の……氷が?」
その変化に真っ先に反応し、宙へと飛び上がったのはアンジェリカでした。
しかし、驚愕に目を見開き、足元を見下ろす彼女の目には『氷』など映ってはいません。それもそのはず、わたしが温度センサーで確認する限り、周囲の気温は一切低下していないのです。
彼の足元から波紋のように周囲へと広がり、世界そのものを蝕んでいく『凍結作用』。
現実の空間はむしろ、国王の身体から放たれるプラズマ混じりの電撃によって気温を上昇させているはずなのに、わたしたちは凍えるような寒さの中、身動き一つできずにいました。
しかし、それでもなお、狂乱収まらず咆哮を続ける雷竜が一匹──
「グオオオオオオ!」
ついに、竜の顎を大きく開いたジークフリード王の口から、プラズマを伴う衝撃波が放たれました。物語に登場するドラゴンブレスを思わせる極太の光は、周囲の空間を焼き焦がし、触れるものを残らず蒸発させかねない勢いでマスターに迫ります。
「……《フリージング・クラスタ》」
ぽつりとマスターが呟いた言葉は、わたしの集音センサーでもかろうじて拾える程度の小さなものです。しかし、その後に生じた現象は、わたしどころか、誰の目にも明らかなものでした。
『その光景』を目の当たりにして、最初に声を漏らしたのは、シルメリア王妃です。
「な……う、嘘でしょ? 《プラズマ・ブレス》は、ジークの最強魔法のはずなのに……」
続いて、アンジェリカが呆けたような声を上げます。
「き、消えた……? そんな馬鹿な……」
対人戦闘に使うには、明らかにオーバーキルとしか言いようのない凶悪な魔法。その膨大な電流の束が、マスターの手元に届くや否や、しぼむように消え失せてしまったのです。
「い、一体何が……あなた、何をしたの?」
シュウシュウという音だけが先ほどの魔法の余韻を残す中、恐る恐るマスターに問いかけるシルメリア王妃。
しかし、マスターはその問いかけには答えず、大魔法の後で硬直しているジークフリード王との間合いを詰め、その鳩尾に拳を叩き込んで気絶させてしまいました。
「終わったね。……ああ、シルメリアさん。どうする? まだ続ける?」
「……いえ、もう十分だわ」
マスターの足元に倒れ込み、変身を解いた夫の姿を見下ろしながら、シルメリア王妃は力なく首を振ります。
「キョウヤ……」
そんな彼らにゆっくりと歩いて近づくのは、アンジェリカです。いつもなら駆け出して行って飛びつくところでしょうが、今は若干の不信感のこもった眼差しでマスターを見つめています。
「やあ、アンジェリカちゃん。心配をかけてごめんね」
いつもと変わらぬ調子でアンジェリカに笑いかけるマスター。
「どういうことなの? なんで、こんな真似を……」
「え? ああ、うん。王様の理解度もいまいちだったし、王妃様なんて会ったばかりでしょ? だから、わかってもらいたくてね」
「わかるって……何が?」
アンジェリカは、意味が分からず首をかしげるようにして聞き返しました。対するマスターは、そんな彼女のことを微笑ましげに見つめ返しています。
「僕は強いから、何も心配はいらないってことさ。……『ニルヴァーナ』最強の夫婦を同時に相手にしても負けないし、真っ向勝負でその最強魔法を捻じ伏せることだってできる」
「なるほど、そういうことね。……悔しいけれど、あなたって、とんでもない男ね」
苦々しげに息を吐くシルメリア王妃には、彼が言いたいことが分かったのでしょうか。
「だ、だから、それがどうしたのよ」
一方、まだ理解が及ばないのか、アンジェリカは苛ついたようにマスターの言葉の続きを促します。
「だから……危険な聖女様の一人や二人、抱えたままだってどうってことないし、例えどこに行ってもアンジェリカちゃんを守ることができる。僕はこの国に執着はないけど、害を及ぼすつもりはない。だから心配はいらないって、ちゃんとそう言っているのに、ちっとも分かってくれないんだもんなあ」
やれやれ……と、肩をすくめて言い放つマスターですが、これにはこの場の全員が「ちょっと待て」と言いたげな顔になりました。
『ちゃんとそう言っている』とのことですが、先ほどまでのマスターの言動から、どうやってそれを理解しろというのでしょうか?
「じゃ、じゃあ……それをわかってもらうために、わざとお父様とお母様を挑発したっていうの?」
「うん。言葉で言ってもわからなければ、行動で示すしかないだろ?」
「そ、そんなことで? そんな……う、ううー!」
呆れたように息を飲んだ後、顔をうつむかせて身体を大きく震わせるアンジェリカ。
「え、えっと、アンジェリカちゃん? どうしたの?」
するとマスターも、さすがに彼女の様子がおかしいことに気付いたのか、心配そうな声を掛けました。
「どうしたの? ……じゃないわよ! もうー! ばかばかばかばか! キョウヤが……わたしの大好きなお父様とお母様と、本気で喧嘩して……本当に仲が悪くなっちゃったらどうしようって……わたし、ほんと心配だったんだから!」
アンジェリカはついに、顔を真っ赤にして泣きながら、マスターの胸元に飛び込みました。そのままわんわんと泣きじゃくる彼女をなだめるマスターですが、そんな彼にもう一人、辛辣な目を向ける人物がいます。
「キョウヤ様? 少しばかり言葉が足りないのではありませんこと? それとも、人が心配してオロオロする様を楽しんで眺めていたわけではありませんわよね?」
「や、やだなあ、エレン。そんなわけないじゃないか」
などと言いつつも、マスターはエレンシア嬢の冷たい視線に怯えたように首をすくめています。もちろん、楽しんでいたということはないのでしょうが、言葉が足りなかった自覚はあるのかもしれません。
「それより……メルティさんは大丈夫なんでしょうか?」
ようやく場の空気が和んできたところで、そう口を挟んできたのは、アンジェリカに替わってメルティの介抱を続けていたリズさんでした。
「生体活動には異常は見られません。ただ眠っているだけですね」
わたしは【因子観測装置】による観測結果を皆に伝えましたが、とはいえ、どうして彼女が急に眠ってしまったのかまではわかりません。
するとここで、それまで玉座に腰掛けたままだったベアトリーチェがゆっくりと歩み寄ってくる気配がありました。
「心配はいらぬよ。メルティちゃんについては、気がかりだった部分を『調和』の力で修正しただけじゃ」
「気がかりだった部分? なんだい、それ?」
「『王魔』と『愚者』。二つの相反する力を同居させるというのは、言うほど簡単ではない。彼女の中の、いつ崩れるかも危ういバランスは、とても見ていられるものではなかったからの。『賢者の石』に宿る力のひとつ、『調和』を利用して安定させる必要があった」
「メルティを助けてくれたってわけか。じゃあ、あの時の言ってた『両親に感謝しろ』って言葉は、僕が君を信じたことは間違いじゃないって意味だったんだね」
「……さて、そんなことを言ったかのう? 汚らわしい男などに、わらわがそんな言葉をかけるとは考えにくい。お前の聞き間違いじゃろう」
とぼけるように言うベアトリーチェですが、いつの間にかマスターに対する呼びかけが『貴様』から『お前』になっています。
「ははは。どうやら君も、自殺する気はなくなったみたいだし、それだけでも僕にとっては十分だからね」
「自殺……か。思わぬ『真実』を知ることができたとはいえ、あればかりは誤算じゃったな。まさか、『賢者の石』に触れることが、あそこまで大きな負荷になるとは思わなかった」
「ん? つまり、本当に自殺したかったんじゃなくて、あの石のせいってこと? なんだ、それならよかったよ。あの分じゃ、これからしばらく君から目が離せないと思って心配だったからね」
マスターが安心したように笑うと、ベアトリーチェはますます嫌そうな顔になりながらも、彼から顔をそむけました。
「……わらわには、お前という人間がまったく理解できん。敵であるはずのわらわのために、よくもまあ……これだけのことをしでかしたものじゃ。『心配を取り除くため』と言えば聞こえはいいが、明らかにやりすぎじゃろう。八方丸く収まったような顔をしているが、お前の足元に転がった男は、仮にも国王じゃぞ? このままで済むはずがあるまい」
ベアトリーチェの言うとおりでした。シルメリア王妃は何となく納得したような顔をしてくれていますが、気絶させられたままのジークフリード王にしてみれば、面目丸つぶれの展開なのです。
幸いなことに、もともと人払いしているせいもあってか、あるいはいつもの『夫婦喧嘩』だと思われているのか、これだけ騒いだにもかかわらず、未だに誰一人、謁見の間に来る者はいません。
しかし、目撃者がいないとは言え、それでも『模擬戦』でもないのに国王に喧嘩を吹っかけて倒してしまったことには変わりはないのです。
「あれ? ベアトリーチェさん、僕のことを心配してくれているの?」
「お前ではなく、お前の仲間の女の子たちが心配なのじゃ!」
ムキになって言い返すベアトリーチェの顔は、わずかに赤く染まっていました。
「ジークにはわたしから言っておくけれど……それは別にしても、色々と情報を整理する必要がありそうね? そちらの聖女さんとやらは、『賢者の石』について私たちが知らないことを知っているみたいだし」
さすがに、まだ気を許すつもりはないのでしょう。シルメリア王妃は冷たい視線をベアトリーチェに向けています。しかし、対する彼女はまったく気にした様子もありません。
「ふふ、女の子から冷たい目で見られるのも悪くないのう」
どころか、こんな変態じみた発言まで飛び出す始末です。前々から思っていましたが、ベアトリーチェとマスターの二人は、かなり似た者同士なのではないでしょうか?
それはさておき、シルメリア王妃はベアトリーチェでは話にならないと考えたのか、マスターに声を掛けました。
「じゃあ、先に別の質問をさせてもらうわ」
「どうぞ」
「さっき、ジークの《プラズマ・ブレス》を防いだ、あの光の粒みたいな魔法。あれはなに?」
「え? ああ、『障壁』として展開した魔法のことでいいのかな?」
「当たり前でしょう? 他に何があるの?」
「ううん。何でもないよ。あの魔法なら……僕は《フリージング・クラスタ》って名付けたんだけどね。一言でいえば、大量に『極小の絶対零度の空間』を生成することで、冷却効率を極限まで引き上げたんだ」
「そう……言ってることはよくわからないけど、とにかく強力な冷却魔法だったってわけね」
シルメリア王妃はそんな風に理解しましたが、実際の原理を説明するなら、次のようになるでしょう。
そもそも、『空間冷却』の魔法は、指定した一定範囲の空間から一瞬で『熱』を解放し、局所的に『絶対零度の空間』を生み出すことで、さらにその周囲から熱を奪って冷却効果を発生させるものです。
加えて言えば、実際に範囲指定できる空間の大きさは、球体にして直径数十センチ程度の範囲です。しかし、その大きさの球状空間を指定した場合、特にその中心部分に関しては、周囲から直接熱を奪うことができません。
しかし、マスターが編み出した魔法《フリージング・クラスタ》は、『極小の絶対零度空間』そのものを無数に散布することで、ほぼ一瞬で広範囲に効率的な冷却効果を実現できるのです。
しかし、それだけではないはずです。
わたしはそれを、こっそりと問いかけてみることにしました。
〈マスター。先ほどは……『概念冷却』も併用していませんでしたか?〉
〈うん。単なる『空間冷却』だけじゃ、衝撃波までは防げないもんね〉
〈では……一体『なに』を冷却されていたんですか?〉
〈うーん。強いて言うなら、『独立性』……かな?〉
〈独立性……ですか?〉
〈うん。うまい言葉が見つからないけど、簡単に言えば、熱と衝撃波ってエネルギーという意味では似たようなものでしょ? でも、二つは別のものだ。だから、高熱を含む衝撃波の『熱エネルギー』を打ち消しても、衝撃波自体は防げない。まったく無効じゃないにしてもね〉
〈……似たようなものを一緒にして、まとめて打ち消したと? 『独立性』の概念を冷却して? 無茶苦茶ですね〉
〈夜にしか使えないとはいえ、《キング・コキュートス》って結構便利だよね〉
あっけらかんと言うマスターに、わたしはそれ以上返す言葉がありませんでした。
「ぐ、うう……」
そして、ふと気がつけば、足元から聞こえてくるうめき声。
マスターの足元で気絶していたジークフリード王が目を覚ます気配です。
「あ、王様のこと忘れてた」
国王本人が聞けば、それこそ怒りで卒倒しかねない台詞を口にするマスターでした。
次回、「第110話 世界の要石」




