第101話 聖女の誤解
夜が明けて翌日。
わたしたちは未だ、聖女ベアトリーチェの身柄を拘束したという事実については、ドラグーン王国の関係者に伝えてはいませんでした。それというのも、彼女の神聖王国アカシャにおける地位や人望のことを考えれば、ことは国際問題にもなりかねないからです。
わたしたちにとっても突発的としか言いようのない今回の事態は、依然としてその扱いに困るものでした。とりあえず、『女神』の魔法こそメルティのおかげで封じることができてはいるものの、彼女にはスキルもあるはずなのです。
「夜の間はアンジェリカさんに見ていただいていましたが……ここからが正念場ですね。どうやって彼女から情報を聞き出すか、何か考えはあるのですか?」
わたしはマスターと二人、ベアトリーチェを拘束している部屋へと続く廊下を歩きながら、彼に尋ねました。
「え? 情報?」
不思議そうな顔でわたしを見るマスター。それを見て、わたしは思わず大きく息を吐いてしまいました。
「……マスター。御自分でもおっしゃっていたではないですか。彼女には聞きたいことがあると」
「え? ああ、なんだ。そのことか。情報なんて言うから、何のことかと思ったよ」
納得したように頷くマスターですが、今度はわたしの方が首をかしげる番です。マスターが聖女に聞きたいこととは、メルティの件や教会の狙いについての『情報』ではなかったのでしょうか?
しかし、マスターは、そんなわたしの疑問などお構いなしに言葉を続けます。
「彼女も強情だしね。夜の間にアンジェリカちゃんと仲良くなって、態度が軟化してくれているといいんだけど」
「……とはいえ、情報を聞き出した後も問題です。いつまでも彼女をこの城に置いておくわけにはいかないでしょうし……どうするおつもりですか?」
「まあ、それはこれから考えよう。僕としては、あんまり手荒な真似はしたくないけどね」
「…………」
「何か言いたそうだね?」
「いえ、何でもありません」
昨日、マスターが彼女に対して行った仕打ちは、彼にとっては『手荒な真似』にカウントされないものなのでしょうか? つい、そんなことを考えてしまったわたしでした。
それはさておき、わたしたちは部屋の前にたどり着くと、扉をノックして早速中へと入りました。するとそこには、いつも通りの黒のドレスを身に纏い、ベッドの脇の椅子に腰かけて、足をぶらぶらさせているアンジェリカの姿があります。
「やあ、アンジェリカちゃん。おはよう」
「……ああ。おはよう、キョウヤ」
なぜかアンジェリカは微妙な表情のまま、挨拶を返してきます。
「どうかしましたか?」
わたしがそう尋ねると、彼女は右手の親指で傍らのベッドを指し示し、呆れたように息を吐きました。
「むにゃむにゃ……。ぐふふふ、そう緊張するでない。近う寄れ。わらわがたんと頬ずりしてやるぞえ?」
寝台に敷かれた布団にくるまり、気持ちよさそうな顔で眠る聖女様。麗しくも神々しいご尊顔であらせられますが、口走る寝言は耳を疑う下劣さです。
「……まったく、信じられない神経の図太さだぞ、この女。わたしがここにいる間中、卑猥な寝言をほざきながら爆睡していたのだからな」
アンジェリカは夜の睡眠が必要ない『ニルヴァーナ』であるはずなのですが、徹夜明けで憔悴しきったような顔をしていました。
「あはは。サイズは調整したとはいえ、首に金属を着けて寝るんじゃ寝苦しいかもしれないとは思ってたけど、リラックスしてくれているなら何よりだよ」
そう言って寝台に近づくマスター。彼の視線は、未だに気持ちよさそうな寝息を立てる彼女の首元に向けられています。よく見れば、その細く白い首には、まるでチョーカーのようにも見える小さな赤い首輪が付けられていました。
「キョウヤは、あまり近づかない方が良いのではないか?」
「やっぱり、まだ怒ってたかい?」
「わたしに対しては、『添い寝をしろ』だとかふざけたことを言っていたが……男嫌いのこの女のことだ。目覚めた時にキョウヤが傍にいた日には、激怒しかねないぞ」
どうやらこの聖女様、アンジェリカに対しても、相変わらずの変態ぶりを発揮していたようです。
「かもしれないけど、それを恐れてちゃ始まらないよ」
マスターは言いながら、手近な椅子を引っ張てきて腰を下ろし、ベアトリーチェの寝顔を見つめました。女の子の寝顔を見つめるのもマナー違反な気がしないではないですが、今さら言っても仕方がありません。
やがて、周囲の人の気配に気づいたのか、ベアトリーチェはゆっくりと目を開けました。
「む? むう、良く寝たのう……」
むくりと起き上り、両手を頭上に伸ばしてあくびする聖女様。彼女の両手首には、首輪と同じく『ヒヒイロカネ』でできた赤いブレスレットが輝いています。彼女はすぐわきの椅子に腰かけたアンジェリカに気付くと、自らの白髪を整えながら、にんまりとした笑みで彼女に笑いかけました。
「おお、アンジェリカ。まさか一晩中、わらわに付き添ってくれていたのか? くふふ、愛い奴じゃな」
「……付き添いではなく、見張りだ」
うんざりといった顔で言うアンジェリカ。このやり取りも、すでに何度か繰り返されているのでしょう。そしてベアトリーチェは、さらに視線を巡らせ、近くの椅子から自分を見つめるマスターに目を向けました。
さて、どんな罵声が浴びせかけられることやら……と思っていたら、信じられないことが起こりました。男性を蛇蝎のごとく忌み嫌っているはずの彼女が、よりにもよってマスターを見て、先ほどと同じく、にんまりとした笑みを浮かべてみせたのです。
あろうことか、彼女はさらにマスターに向かってこんな言葉を口にしました。
「おお、キョウヤもおったのか。おはよう。昨日はいろいろあったが、よく眠れたかの?」
「え? ……えっと」
あまりにも予想外の対応をされて、さすがのマスターも戸惑いを隠せないようです。するとベアトリーチェは、軽く首をかしげるとさらに言葉を続けます。
「何を間抜けな顔をしておる。せっかくの美人が台無しじゃぞ?」
「び、美人……?」
何言ってんだこいつ、と言いたげな顔でそうつぶやいたのは、アンジェリカです。マスターはと言えば、驚きのあまり言葉も出ないのか、絶句したまま固まってしまっています。
「まったく、キョウヤも人が悪いのう。いや、それともそうせねばならない事情でもあるのかの? 何かわらわで力になれることがあるようなら、遠慮することはない。何でも言うてくれ」
「あ、あはは……うん。ありがと」
訳が分からないながらも、そう返事するしかないマスター。しかし、ここでようやくわたしは、ベアトリーチェが何を『誤解』しているのかに気付きました。
ですが、わたしがそれを指摘するより早く、ベアトリーチェが行動を起こしてしまいました。彼女はゆっくり寝台から足を降ろすと、そのまま立ち上がり、マスターの傍へと歩いていきます。
「ふむ。確かにこうして見れば、本当に整った顔立ちをしておる。むしろ、これで男というのも無理があろうなあ……くふふ」
などと言いながら、彼女は愛おしげにマスターの頬を撫でたのです。
「あ」
わたしとアンジェリカの二人は、思わず何とも言えない声を上げてしまいました。
「やはり思った通りじゃ。ヒイロには及ばんが、お肌のぴちぴち具合もなかなかのものじゃぞ? お前も『女の子』なら、もっと丁寧に手入れをしたらどうじゃ」
にこやかに笑いながら、なおもマスターの頬を撫で続ける聖女様。しかし、そんな彼女に向かって、マスターは躊躇うことなく真実を告げました。
「いや、僕、男だけど」
「へ?」
昨日同様、目を丸くするベアトリーチェ。彼の頬に触れた手は、そこで動きを止めていました。
「ま、またまた! も、もう隠す必要はなかろうに。わらわの『神聖なる純白の雪花』で石化しない男などおらん。つまり、キョウヤは男装しているだけで、実は女の子なのじゃろ?」
そう、それこそがベアトリーチェの勘違いの原因なのでした。とはいえ、どうしてマスターに彼女のスキルが通じていないのかは、わたしにも理解できません。
「ほんとだってば」
「いやいやいやいや! そんなわけがない。ほれ、こうして胸だって……」
などと言いながら、マスターの胸板を撫ではじめるベアトリーチェ。そこにあるはずのものを確認するべく、それこそ執拗に撫でまわし続ける彼女ですが、どれほど撫でても何かが変わるわけではありません。
「……いや、あんまり撫でられると、ちょっと恥ずかしいんだけど」
マスターがそんな言葉を口にした時には、彼女の顔は完全に蒼白になっていました。
「い、いや……う、嘘じゃ! そ、そんなわけが……」
「じゃあ、今度は下の方でも確かめてみる?」
ニヤニヤとした顔でマスターに言われ、今度こそ彼女は確信に至ったようです。
「う、うああああ! う、嘘じゃあああ! さ、触ってしまった! じ、自分の方から……け、汚らわしい、男、男の身体!」
「おっと、大丈夫かい?」
大きく取り乱して尻餅をついた彼女に向かって、マスターはとっさに手を伸ばします。
「あう……す、すまな……! ひい! 汚らわしい汚らわしい汚らわしい汚らわしい汚らわしい汚らわしい汚らわしい!」
反射的にマスターの手を握り、それから慌てて振り払ったベアトリーチェは、憎しみと怒りに瞳をたぎらせてマスターを睨みつけています。
「な、なぜじゃ……! どうして石にならん! わらわの……肌に触れておきながら!」
「さあ、なんでだろ? ただ、なんとなく君に触れても大丈夫だろうなって直感があったから、昨日は試してみただけだったんだ」
「……そ、そんな馬鹿な」
「でも……まさかそれで、君がそんな誤解をするとは思わなかったよ。……本当にごめんね」
申し訳なさそうに頭を下げるマスター。ベアトリーチェはショックを受けたyように彼の顔を見つめていたかと思うと、そのまま唇を噛み締めて下を向いてしまいます。
そんな彼女を見るに見かねたわたしは、場をとりなすべく、話題を変えることにしました。
「……ベアトリーチェさん。よろしければ、朝食にしませんか? もうすぐ、リズさんが食事の手配をしてくれるはずです。今後の話はその席ででも……」
「……いらん。それより、その男をはやく部屋から追い出してくれ。……このままでは頭がおかしくなりそうじゃ……」
力なく項垂れたまま、小さく呟くベアトリーチェ。わたしたちは顔を見合わせ、小さく息を吐きました。どうやら、他に方法はなさそうです。
「……わかった。じゃあ、僕が出ていくよ。でも、食事はちゃんと食べなきゃ駄目だよ。身体を壊したら元も子もないんだからね」
マスターはベアトリーチェに優しくそう言い残すと、この部屋を後にしたのでした。
「…………」
しかし、このとき、わたしは気づきました。彼が部屋を出ていくとき、ベアトリーチェがわずかに顔を上げ、彼の後姿に何か言いたげな視線を向けていたことに。
次回、「第102話 王女の資質」




