第99話 えっちな拷問
○特殊スキル(個人の性質に依存)
『鏡の中のお前は誰だ』
『知性体』の肉体の一部(髪の毛など)を入手した場合のみ発動可。対象の姿を自身の存在に写し取り、互いの肉体感覚を自由に共有する。効果時間は最大で24時間。スキル使用後、入手した肉体の一部は消滅する。
スキル発動と同時、マスターの手の中にあった銀の髪の毛が消失しました。
しかし、わたしたちの目には、特に変化が起きたようには見えません。マスターは依然としてマスターであり、その身体には先ほどから変わらず『黄金』の砂がまとわりついています。
ところが……
「う、嘘じゃ! な、なんだ、その姿は! ば、馬鹿な……わらわの、わらわの『世界を観測する者』の力をもってして……どうしてそんなまやかしが……」
ベアトリーチェは、身体を震わせ、顔を青くして呟きました。
「おいおい、君の力は世界を正しく観測するんでしょ? だったらこれを『まやかし』とか言ったら駄目じゃないか」
「う、うるさい! わらわと同じ姿のモノなど……真実であるはずが……」
「真実だよ。僕の存在そのものに君の姿を写し取ったんだ。少なくとも、僕と君の間では、これは『目を背けても逃れられない真実』って奴だ」
「そ、そんな……」
彼女は既に、攻撃することも忘れているようです。
「それにしても、女の子の身体って不思議だねえ。前にアンジェリカちゃん相手に実験させてもらった時とも、大分違う感じかな……」
などと言いながら、マスターは自分の胸元を見下ろし、身体を揺するような仕草をしています。
「なんだとー! 何よ、それ! わたしの身体に文句があるって言うの!」
キーキーと耳に響くような抗議の声を上げたのは、身動きできないままに戦況を見守っていたアンジェリカです。
「あはは。ごめんごめん。ただちょっと、彼女って思ったより着痩せしているみたいだからさ」
などと言って笑うマスター。しかし、ベアトリーチェの方は、それどころではありませんでした。
「まさか、肉体そのものを再現しているのか……?」
「そうだよ。今の僕は、君そのものなんだ。わかる?」
「わ、わかってたまるか!」
彼女の声は、ほとんど金切り声と呼ぶべき状態になっています。
「まだわからない? じゃあ、これでどうかな?」
マスターは言いながら、自分の腕を軽く叩くような仕草をしました。
「な? なんじゃ、この感覚は……」
「ほらほら、今度は頭を撫でてみようか?」
「う、うわっ! 頭を何かが触った?」
自らの頭を抱えて怯えた声を上げるベアトリーチェ。
「君と僕は、身体の感覚もつながっているんだ。どうだい? よく見てごらん。これが『君』だ」
「か、感覚まで? うう……よ、よせ! その顔で、わらわの顔で……話しかけてくるな! あ、頭がおかしくなりそうじゃ!」
彼女は激しく狼狽え、狂ったように頭を抱えて叫び続けました。
『鏡の中のお前は誰だ』の真価である、『自己同一性の破壊』が彼女を苦しめているのでしょう。
「実を言うと、アンジェリカちゃんを相手に試したときは、悪ふざけしすぎて怒られちゃって、すぐに解除するしかなかったからね。実感なかったけど……でも、うん。自分がこういう可愛い女の子になるってのも、結構楽しいものだね」
「か、可愛い……だと?」
マスターの言葉に、ベアトリーチェは何故か狼狽えた顔をしています。
「ああ、そういえば……」
マスターは何かを思い出すように上を向きました。
「な、何じゃ……?」
「うん。あの時、グラキエルのおじさんがさ、君のことを見て、『少しばかり胸が足らんが』って言ってたんだけど、どうなのかな? さっきも言ったけど、君って意外と着やせする方なんじゃないかと思うんだけど……」
「な、ななな!? ま、まさか、貴様……」
「せっかくの機会だし、確かめてみようか?」
そう言って、自らの胸元に手を持っていくマスター。傍から見ている分には何がどうだというわけでもない光景ですが、恐らく今、ベアトリーチェの目には彼が自分と同じ姿に見えているはずです。
もし、自分が同じ立場だったらと思うと、ぞっとします。相手が自分の胸を触るのを防ぐこともできずに見せつけられ、挙句にその感触を自身で味わうことになるのですから。そう考えると、これは何と恐ろしい攻撃なのでしょうか。
「ま、待て! や、やめろ! やめてくれ!」
「だーめ。言ったでしょ? 少し『えっちな拷問』にかけてやるってさ」
そう言ってマスターは、自らの胸を軽く揉むような仕草を始めました。
「おお! 柔らかい! でも、力を入れ過ぎるとちょっと痛いかな?」
「うあ! うく……くううう!」
ベアトリーチェはそれに呼応するように、顔を真っ赤にして声を上げています。
「うん。ここはソフトにソフトにっと……」
「ああ、やん! や、やめ……!」
「おお? 気持ちいいかも! こうかな? こんな感じ?」
「うひ! く、うう……だ、駄目! こ、これ以上は……」
顔を真っ赤にした彼女は、ほとんど涙目となってぶんぶんと頭を振っています。
「よし、段々コツがつかめてきたぞ」
マスターは実に嬉しそうに笑いながら、自らの胸の前で手を動かし続けていました。
「ひいっ! やめ! だめ! やめ、やめ、やめえええ!」
「こ、これは……! 病みつきになるかも!」
声を弾ませ、ますます自らの胸元付近で手を動かし続けるマスター。
「ひ、ひぃ! いや! やん! だ、駄目! そ、そこは……!」
……この光景は、何なのでしょうか? 先ほどまでの緊迫した戦闘が嘘のようです。何と言っても一人の少年が自分の胸の前で手をわきわきと動かし、その相向かいに立つ女性が一人、胸を押さえて身悶えているのです。はっきり言って、意味が分かりません。
〈……マスター。いい加減にしてください〉
〈あ、やば。ヒイロに怒られちゃった〉
思わずわたしが『早口は三億の得』で言い諭すと、マスターは軽く首をすくめて笑ったようです。
「さて、お遊びは、ここまでにしようか?」
「……ぐぐ。もう、許さん。うぬだけは許さん。よくもこんな辱めを……」
涙目で唸り声を上げつつ、ベアトリーチェはマスターを睨みつけています。
「ここからが本題だ。僕としては、君にはここで降参してもらいたい」
「ふざけるな。この程度で勝ったと思うてか!」
「うん。まだ、勝ちと決まったわけじゃない。何故と言って、これから始まるのは、正真正銘、種も仕掛けも何もない、君と僕との我慢比べなんだからね」
そう言ってマスターは、自らの手を逆の手で軽くつねりました。すると、その次の瞬間……
「うぎぃぃ!」
耳をつんざくような悲鳴が、ベアトリーチェの口から上がりました。しかし、よく見れば、マスターもつねった手を押さえるようにして、身体をぶるぶると震わせています。
「最初は不意打ち気味で悪かったかな?」
「う、うあ……な、なんじゃ、今の痛みは!?」
「言ってなかったっけ? 僕のスキルの中には、自分の痛覚を自在に操作できるものがあるんだ。で、そいつを使って痛覚を極限レベルまで高めたってわけだね」
「な、なんじゃと? で、では、貴様も同じ痛みを?」
彼女は驚愕に目を見開いたまま、マスターに戸惑い気味の問いを返しました。恐らく、それだけ先ほどの痛みは凄まじかったのでしょう。
「うん。僕としては、痛いのは好きじゃないんだけど……でも、君のすべてをさらけ出してやるには、他に方法もなさそうだしね」
仕方がないとばかりに首を振るマスター。しかし、今の彼の力があれば、戦い方さえ間違えない限り、聖女ベアトリーチェには十分勝てるはずなのです。にもかかわらず、彼がこうした回りくどいやり方に固執するのは、単純な『力』で彼女を打ち負かしたいのではなく、もっと別の『何か』で彼女を屈服させたいからなのかもしれません。
「さあ、次いくよ?」
「ま、待て!」
「じゃあ、降参する?」
「い、嫌じゃ……け、汚らわしい男などに負けを認めてたまるか……うきゃあああ!」
「いっつう……痛いね、これ……。本気で泣きそう……」
それでもマスターは、手を緩めるつもりはないようです。
「ぎいいい!」
「うあ!」
ぜえぜえと肩で荒く息を吐きながらも、ベアトリーチェはまったく降参する素振りを見せません。一方のマスターも、自身の痛覚レベルをあえて上げておきながら、自分で自分の身体をつねるという行為を、何のためらいもなく実行し続けています。
二人は互いに顔に脂汗を浮かべたまま、それでも意地を張りあっているようでした。
「き、君もなかなかしぶといね?」
「う、うる……さい。わ、わらわは……醜く、汚い、男などに……ぎあああ!」
さらに数回、同じことが繰り返され、とうとう二人は耐えきれなくなって床に膝をついてしまいました。
「な、なぜじゃ……どうして、こんなことをする?」
「わからないかな」
「わかってたまるか! こんな、こんな真似……狂気の沙汰じゃ。自ら好き好んで苦痛を味わうなど……」
理解できないと言いたげに首を振るベアトリーチェ。
「それは君も同じだろ? 降参すれば、苦痛から解放されるのに、何を好き好んでこんなことを続けているんだい?」
「え? ……だ、だから、それは、男に負けるわけには……」
「負けるわけにはいかない。そうだね。じゃあ、僕だって『同じ』だとは思わないのかい?」
「……あ」
ここでベアトリーチェは、何かに気付いたように固まってしまいました。
「今の僕は、君と同じだ。姿もそうだし、感覚もそうだ。こうして同じ痛みを共有して、同じように相手に負けるわけにはいかないと息巻いている。君が男性にどんな嫌悪を抱いているのか知らないけれど、でも、男とか女とか、そんなこととは関係なく、僕らは話し合えると思わないかい?」
「……ざ、戯言を。騙そうとしてもそうはいくものか! 貴様ら男はいつもそうじゃ! ……わ、わらわの母様も、あんな男に騙されて……。だから、わらわは、わらわは……」
なおも熱に浮かされたように呟き続けるベアトリーチェ。そんな彼女を見つめ、マスターは大きくため息を吐きました。
「オーケー。それなら続行だ」
「な、なに……? ぎあああああ!」
マスターが再び自分の身体を指でつねったことで、二人は激痛にその身を大きくよじりました。絶叫と共に床に這いつくばったベアトリーチェは、目に涙をにじませ、恐ろしいものでも見るようにマスターへと顔を向けました。
「こ、こんな……お前は……正気か!」
「悪いけど……僕が正気だった試しなんて、生まれてこのかた一度もないぜ」
脂汗を顔に浮かべ、苦痛に身を震わせているのは、マスターも同じです。だというのに、彼の顔には楽しそうな笑みさえ浮かんでいるのです。
「く、狂っている! どうして、どうしてこんな……きゃああああ!」
「うぐううう!」
再び始まる苦痛の連鎖。マスターはまったくためらうことなく、自身の痛覚を操作し、それをベアトリーチェと共有し続けていました。
「ど、ど、う、して……ここまで、できる?」
がくがくと震える身体を押さえるベアトリーチェ。彼女の瞳は、今や恐怖に染まりきっているようでした。
「き、決まってるさ……。君と僕に共有できるものがあるからだ。僕はね……嬉しいんだよ。たとえそれが苦痛であろうと、僕が僕以外の『人』と共有できる何かがあるってことが」
「い、いったい、何を言って……?」
「僕の感じる痛みは、君と同じものだ。だったら、僕はきっと、君と『同じ人間』なんだ。だから僕らは『わかりあえる』。ほら、こんなにも嬉しいことはない。そうだろう?」
「き、気色の悪いことを言うな! わ、わらわは……汚らわしい男どもとは違う! うぬと同じなどであるものか!」
「そうかい。じゃあ、もっともっと確かめないとね!」
「よ、よせ! や、やめ……ぎぃぃぃぃ!」
あまりの苦痛に床の上でのたうち回る二人。
……この光景は、何なのでしょうか? これはもはや、戦いなどではありません。意味のない、ただの苦痛の連鎖。勝者も敗者もなく、何ひとつ、誰一人、得るもののない不毛な行為。
わたしたちは揃って、この異様な光景に息を飲んでしまい、動くことができません。
「どうだい? 痛いよね? 苦しいよね? こんな激痛がこの世にあるだなんて、僕もびっくりだよ」
「う、うるさい! 話しかけるな汚らわしい! 気持ち悪い! 吐き気がする! うああああ!」
「あぐ! ……はは。僕も痛くて、君も痛い。痛くて痛くて痛くて痛い。思わず泣いてしまいそうなくらいには痛いよね。……ああ、そうだ。君が泣いて謝れば、ここでやめてやってもいいんだぜ?」
「嫌だ! そんなもの屈辱の極みだ! 男の分際で! 汚く醜くクズでカスでごみ虫以下の存在の癖に! わらわに謝罪を求めるなど……クソが! し、死ね! ……ぎあああ!」
「いっつつ! はあ、はあ、はあ……。目の前が霞んでくるよ。君も『同じ』だろ?」
「違う! 絶対に違う! うぎぃぃ! い、痛い……うう、違う……気持ち悪い。汚い汚い汚い汚い! 男なぞ、男なぞ……一人残らずくたばってしまえ!」
大声を上げて泣きわめくするベアトリーチェ。気丈な彼女がここまで取り乱すとは、マスターはいったいどのレベルまで痛覚を高めたというのでしょうか。
「……くたばらないよ。僕は生きてる。君も生きてる。だからこそ、痛いんじゃないか。当然だろう?」
「う、うう! み、見るな! その顔で、わらわを見るな! 偽物の顔で! 紛い物の姿で! わらわは……わらわは……」
半狂乱で泣き叫ぶ彼女は、すでに精神崩壊寸前といった状態でした。しかし、マスターは容赦しません。狂気の光を瞳に宿し、自身も床に這いつくばったまま、ひときわ大きな声を張り上げます。
「何を言っているんだよ! これからじゃあないか。もっと君を感じさせてくれよ。僕と君が同じものだってことを……実感させてくれよ。もっと、もっと、もっと、もっと、もっと、もっと、もっと、もっと、もっと、もっと、もっと、もっと、もっと、もっと、もっと!」
「い、いやあああああああ!」
頭を抱えて絶叫するベアトリーチェ。再び自分の身体に手を触れようとするマスター。
先ほどのベアトリーチェは、スキルによって『架空の怪物』を生み出す空間を生成していましたが、今ここにあるモノは、そんな生温いものではありません。
マスターという『現実の怪物』を中心に生み出されたソレは、狂気に満ちたひとつの『世界』です。その『世界』の中では、誰もがその魂を侵食され、背筋を凍らせ、呼吸さえも忘れてしまう。何が正しくて何が間違っているのか。正誤の区別も正邪の区分も叶わない。
……けれど、そんな世界で再び苦痛の絶叫が上がるかと思われた、その時でした。
「《ライフ・メイキング》……そこまでですわ。お二人とも、ここはひとつ、ハーブでも召し上がって落ち着かれてはいかがでしょう?」
自分の身体をつねろうとしたマスターの手に優しく絡む、柔らかな緑の蔓。それは同じくベアトリーチェの周囲にも伸びていてます。そして、激しい苦痛に心身を弱らせていた二人は、その植物が放つ鎮静効果のある甘い香りに耐えられなくなったのか、そのまま意識を失ってしまいました。
「……エレン?」
わたしがようやく硬直から解き放たれて振り向いた先には、穏やかな顔で微笑むエレンシア嬢の姿があったのでした。
次回「第100話 ヒヒイロカネ」




